第108話 ……知らなかったのか…?大魔王からは逃げられない…!!
202X年、10月初週 経済学部棟・W103
「――今日はここまで」
板書でびっしり埋まった黒板の前で、魔王がチョークを置いた。
……終わった。
周囲の学生たちが、一斉に脱力する。
「来週は学校祭準備で少しバタバタするだろうが」
魔王が、いつもの低い声で淡々と続ける。
「講義は休講にしない。経済は祭りの間も動き続ける」
教室のあちこちから魂が抜けたリアクションが上がった。
いや、でもそれは正論なんだよな。
経済は休んでくれない。できれば一日くらい休んでほしいけど。
「祭りを楽しむのもよろしいが、レポートの提出期限は前回告知した通り、動かない。各自、計画的に」
「では、解散」
がたん、と椅子が一斉に引かれ、学生たちがドアへ殺到する。
中には「単位のために生きる」「就活のために死ぬ」とか、よくわからないことを呟きながら出ていくやつもいる。
……と、そのとき。
「――学生君」
その声一つで、教室の空気が一瞬止まった。
止まるんだよな、この人の声って。
物理的に。
みんなが「誰だ誰だ」「誰が呼ばれた」「今日の生贄か」みたいな顔をして周囲を見回す。
俺も見回す。
俺じゃないように祈りながら見回す。
「そこの。学生事務局の」
ピンポイント指名だった。
……俺!?
人生で聞きたくない呼びかけランキング、ベスト3に入るやつだ。
周囲の視線が、物理的な槍みたいに刺さる。
「タマキ……」
「南無」
「合掌」
「来世で会おう」
「遺言ある?」
後ろから同じ学部の友人たちの生温かい念が飛んでくる。
逃げ場なし。
「はいっ……」
俺はのろのろと、教壇のほうへ歩いていく。
まな板の上の鯉ってこんな気分なんだろうな、とか、どうでもいいことを考えてしまう。
歩く途中、アキハと目が合ったが、「私、忙しいの。呼ばれたのタマキでしょ」みたいな顔してさっさと教室を出ていきやがった。
お前も学生事務局だろ!?裏切者ォ!
教壇の前に立つ。
教授は、配布資料をまとめながら、こちらを見た。
――目が笑っていない。
いや、正確に言うと。
教授はいつも目が笑っていない。
その笑っていない目が、今日に限ってほんの少しだけ、楽しそうだ。
「夏休み前のプレゼン以来だね」
「はい」
「元気、そうではないね」
「はい……すみません」
「きちんと寝なさい」
冒頭から生活指導。
いや、事実なんだけど。昨日の睡眠時間はクレープのホイップより軽かった。
「まあ、ヒカリくんも、昔はそんな感じだったから学生事務局はいつもそうなんだろう」
「……なんか、すみません」
存在そのものを謝罪させるスキル、高すぎる。
教授が、資料を整える手を止める。
「ところで」
来た。
来たぞ、「ところで」。
この言葉が出たとき、教授の会話は八割が地雷だ。
「経済学部棟の管理者が私というのは知ってたかね?」
「……学部長が各学部棟の管理者だというのは存じ上げています」
俺は、礼儀正しく、逃げ道を塞がれないように答える。
すると魔王は満足げに頷いた。
「ふむ。では」
教授が小さく頷く。
この「ふむ」は、だいたい「逃げ道は塞いだ」という意味だ。
終わったかも。
「学校内に鍵屋があって、合鍵が作れるのは知ってるかね?」
「……はい、数回使用しました」
嫌な予感がする。
「経済学部の、合鍵の現在地は」
教授は、ゆっくりと言った。
「当然、私も把握しているべきだと思わないかね?」
「……」
脳内で、全身の血が足先へ落ちていく。
俺の顔から、一気に色が消えたのが自分でも分かった。
「……」
教授がにこりともしない顔で見ている。
その目が言っている。
『君が持ってるよね?』
「……」
俺は、とりあえず、人生で一番真面目な沈黙を発動した。
教授は、淡々と追撃する。
「なくすんじゃないよ?」
「…………はい」
「なくしたら、君より先に私が泣く」
「御冗談を」
「冗談ではない。経済学部では何故かよく泣く者がいる」
――《学生の涙製造機》の自白が出た。
教授は、ほんの少しだけ口角を上げる。
「学校祭、楽しみにしているからね」
ニヤリ、と聞こえないはずの擬音が聞こえた。
あ、この人知ってるな。
「……ハイ」
俺が完全にカタコトになったのを、教授は見逃さない。
「そうそう。ゼミ選択が、学校祭終了後から始まるね」
「ソウデスネ」
「約束どおり、見学に来たまえよ」
「ハイ」
これが本題か。
この流れで断れるわけがない。
「ゼミに入る入らないは、君の自由だ」
教授は教壇の後ろで腕を組んだ。
「だが――うちのゼミでは、“抱え込み型”の学生ほど、面白い成長の仕方をする」
「面白い、ですか」
「そうだ。
“全部自分でやったほうが早い”という錯覚から、いつ脱却できるか。
“他人を信頼して任せる”ことを学べるか」
淡々とした声。
「経済学のモデルは、個人が“合理的”だと仮定する。
だが現実の人間は、合理的ではない。
むしろ、“非合理な選択”を繰り返す」
「……はい」
「君が、学生事務局で何年もそれを見続けるなら――
その経験を、“数字”に落とす場所があってもいい」
その言葉だけは、少しだけ、胸に響いた。
たしかに、ここ一年ちょっとで、いろんな“非合理”を見てきた気がする。
誰かの恋愛絡みの暴走とか、噂話とか、夜中の愚痴とか、泣きながら飲んでる先輩とか。
「……あの」
ずっと気になっていたことを、思い切って聞いてみる。
「教授は、その……俺やヒカリさんみたいな、勉強以外に時間使ってるタイプ、嫌いじゃないんですか?」
数字と論文の世界が主戦場の人から見たら、“学生のサークル活動”や“モデルの仕事”なんて、ノイズみたいなもんじゃないか。
そんな不安が、どこかにあった。
教授は少しだけ目を細める。
「“嫌い”なわけがない」
あっさり言われた。
「大学は、研究機関であると同時に、教育機関だ。
“教育”は、教員だけがやるものではない」
「……」
「学生事務局の活動やモデルの仕事、ダブルスクールにしても
広い意味では“教育”の一部だ」
視線が、ちょっとだけ優しくなる。
「君たちが失敗して、学んで、その中で“次はこうしよう”と工夫を重ねる。
それを、経済学の言葉で記述できる人間がいたら、面白いと思わないか?」
教授は満足そうに、資料を小脇に抱えた。
「では、また次回。学生君」
「……はい」
◇
教室から出た瞬間、待ち構えていたようにクラスメイトが群がってきた。
「何言われた?」
「タマキが呼ばれるって珍しくない?」
「普段、存在薄いのに」
「お前それ本人に言う?」
「説教?」
「退学?」
「死刑?」
「……ゼミ見学に来いって言われた」
一瞬の沈黙。
「え」
「魔王ゼミ?」
「正気!?」
「人生縛りプレイ???」
「就職SSSランクの代わりに魂吸われるやつだぞ!?」
「将来勝ち組確定演出じゃん」
「選ばれし生贄!」
やめろ。
俺の寿命を縮めるな。
最北大学経済学部は、二年後期――つまり夏休み明けの十月から十一月にかけて、ゼミ選択の説明会が始まる。
各ゼミを見学して、エントリーして、人気ゼミは面接で振るい落とされる。
選考を経て、三年目から各ゼミに所属する。
教授のゼミは、超忙しくて超難しいという噂にも関わらず、
就職先が神で、OB・OGの顔ぶれもやばくて、
そのくせ研究内容もバチバチに実践的という、噂の《魔王ゼミ》。
要するに。
大魔王からは逃げられない。
友人が、ぽんっと俺の肩を叩く。
「大丈夫。今のタマキには、学生事務局がついてる」
「励まし方が不穏」
「いや、俺は普通に心配して――」
「心配なら“合掌”をやめろ」
「無理。もうしたい」
「するな」
「ていうか、お前、今学校祭で死にそうになってんのに、さらに魔王ゼミって、自分のHP見えてる?」
「見えてないと思う」
素直に答えると、クラスメイトが頭を抱えた。
「タマキ~」
「なに」
「就職勝ちたい?生き延びたい?」
「二択がひどい」
「お前、どうせ最後には“なんか流れで”入るんだろ」
「で、死にかけながら『なんでこうなった』って言う」
「未来予知やめろ」
そんな雑な人生相談を受けていると、廊下の向こうから学生事務局の後輩が走ってきた。
「タマキ先輩ー!!!」
「やめろ、嫌な予感がする」
「今、カズネが“書類地獄”で死にかけてます!助けてください!!」
「すぐ行く」
俺が即答すると、クラスメイトが一斉に「あーあ」という顔をした。
「お前、そういうとこだよ」
「教授に目を付けられるの、そういうとこだよ」
「うるせぇ!!」
最北大学、秋の学校祭。
その裏側で。
魔王は今日も、静かに笑っている。




