第105話 朝は大体、いろいろギリギリ
202X年、10月初週 朝
「……なんで俺、有名人の部屋の鍵持ってんだろうな」
俺は、ヒカリさんの部屋の前で立ち尽くしながら、今さらすぎる疑問を口にした。
右手には、シンプルなキーホルダー。
中身は――モデル兼デザイナー・ヒカリの部屋の合鍵。
世間的に見れば、事件性がある。
少なくとも週刊誌が好きそうなやつだ。
「考えるな……起こしに来ただけだ……」
自分に言い聞かせて、鍵を差し込む。
ガチャ。
――予想は、裏切られなかった。
玄関を開けた瞬間、視界に飛び込んでくるのは。
床に散らばる服と布と布と靴。
ソファに放り投げられたデザイン画と紙と紙。
テーブルの上には、半分かじられたマカロンと飲みかけの炭酸水。
そしてやっぱり、きちんとしている机。
「……この人、本当に人気のデザイナー兼モデルなんだよな?」
仕事場や雑誌で見る“かっこいいヒカリさん”と、
この部屋のギャップが、今日も酷い。
世の中のファンに、この部屋の様子を配信したら何人が泣くだろう。
いや、意外と「ギャップ尊い」とか言って喜ばれるのかもしれない。知らんけど。
寝室のドアは、半開きだった。
どうやら、今日はちゃんとベッドで寝たらしい。
中を覗くと、案の定――
ベッドの上で、ヒカリさんが寝ている。
今日も今日とて、下着姿で。
無防備。
無警戒。
倫理観を試しに来ているとしか思えない。
「ほら、起きてください。ヒカリさん」
「んー……あとごふん……」
布団の中から、ふにゃふにゃの声。
天才(仕事)と赤子(私生活)が同居している。
「待ってもいいですけど……多分、起きた方がいいですよ。今日は」
「……ん?」
もぞっと動いて、ヒカリさんが目を開ける。
「……あれぇ?」
数秒、焦点が合わない。
次の瞬間、ぱちっと目が開いた。
「タマキくんじゃない?」
「朝です。おはようございます」
「え、あ、ホントに……?」
ようやく目が開いた。
ふわっと笑って、眠そうに瞬きする。
世界のバグ。
「ふぁぁ……ありがと。来てくれて」
寝起きの“ふぁぁ”が可愛すぎて、ずるい。
「『今日は来て』って言ってたじゃないですか。取材ある日ですよ。起きれます?」
「んー……んーーーー……」
一拍。
「……抱っこ♡♡」
と言って、腕を伸ばしてくる。
この人は、ほんっっとにもう!
「無理言わないでください」
「えー、ケチー♡」
「ケチじゃありません。服着てください」
「じゃあ起こしてー?
“お姫様抱っこでリビングまで送り届けコース”がいいなぁ」
「それをやるには衣服という文明の利器が必要なんですよ」
「これでもダメ?」
そう言って、上体を起こし――
下着姿のまま、軽くポージングを取った。
片膝立てて、首をかしげて。
プロモデルの“仕事モード”を、なぜかここで発動するな。
「バカなの?」
「えー、褒め言葉として受け取っておく」
「いいから服着ろォ!!」
思わず声が裏返った。
「綺麗すぎて腹立つ!!!」
「きゃー、襲われるー♡♡」
「ホントに襲ったらどうするんですか!!」
「襲えるのぉ?」
彼女はニヤニヤした顔でこっちを見ている。
「……はぁ。もう時効かな。あのですね、ヒカリさん?」
しょうがない、恥をさらすことになるかもしれないが、一度きちんと聞いてもらおう。
「うん?」
その「うん?」で、一瞬、全部どうでもよくなりかけたが、踏ん張った。
踏ん張らないと人生が終わる。
「俺、最初に学生事務局入った時、とんでもない美人がいるって思ったんですよ」
「へぇ?」
「……その人、四年生で9月に辞めちゃったので、ほとんど話したこともなかったんですが」
「……うんうん?」
ヒカリさんが、枕に頬を押し付けたまま、目だけで俺を見てくる。
かわいい。やめろ。
「そしたら、バーでバイト始めたら、偶然にもその人常連だって言うじゃないですか」
「……あー…………」
そこで一度、ヒカリさんの目が泳いだ。
泳ぐな。誤魔化すな。全部お前のせいだ。
「そしたら、なんやかんやあって合鍵までもらっちゃって、起こしたり、部屋の片づけしたりに、毎週来ることになったんですよ」
「うん……うん……」
ヒカリさんが、口元を押さえる。
笑いそうなのを耐えてる顔。
「……で、俺、今ここで思ってるんです」
「な、なに?」
「俺、何やってんだろうって」
「ひどい♡」
「ひどくない。事実の確認です」
ヒカリさんが眉を下げる。
「えっと……幻滅した?」
「まさか」
それだけはない。
「めちゃくちゃ喜びましたね」
「……え」
「俺が一番綺麗だと思ってる人に、だらしない面も見せてもらえる立場、手に入れてしまったんだから」
ヒカリさんが、一瞬だけ固まった。
「へぇ?」
その声が、急に女の子になった。
いや、ずっと女の子なんだけど。今のは危ない女の子。
「計算違いはそこからです」
「何が?」
「……まさか信頼を裏切るわけにいかないから、全力で毎回毎回毎回我慢する羽目になるとは」
「……」
ヒカリさんの目が、少しだけ丸くなる。
俺は、勢いで言う。
勢いで言わないと多分言えない。
「六月のショーの帰り道にキスされた時は、本気でヤバかったですね。あと半歩で襲ってました」
「いや、そのー……」
ヒカリさんが、急に視線を逸らした。
珍しい。大人の余裕が一瞬消えた。
「誕生日プレゼント、貰った服もすっげー嬉しいですし」
「……うん」
「贈った花、喜んでもらえたって思った時もヤバかったです」
「……」
「超嬉しかったです」
「照れる……」
ヒカリさんが、頬を押さえた。
やめろ。可愛いを出すな。朝だぞ。
「まあ、何が言いたいかと言うと」
「うん?」
下着姿で首を傾げるな。
男子大学生を殺す角度だそれは。
「俺は、ヒカリさんに憧れてますし、綺麗だと思ってますし、誕生日は頑張りましたけど」
「うん」
「同じくらい、こういうの見せてもらえるの、嬉しいんです」
散らかってる部屋。
下着でふざける朝。
だらしないのに、なぜか誇らしげな顔。
全部、ヒカリさんの“人間”の部分。
「ですから」
「……」
「俺の理性は信用しないで欲しいですが」
ここで一拍置く。
「何かあったら、なんでも頼ってください」
言い切った瞬間、部屋の空気が少しだけ静かになった。
ヒカリさんは、しばらく何も言わなかった。
そして、さっきより少しだけ真面目な目で、こっちを見る。
「……タマキくん」
「はい」
「今のって愛の告白?」
「違います」
何言いだすんだ、この人。
「ねぇ、“憧れてます”“綺麗だと思ってます”“人間なところも嬉しいです”って、
それ、世に言う“好意のフルコース”なんだけど?」
「言語化されると恥ずかしいんでやめてもらえます?」
ベッドの上で膝立ちして、ゆっくり笑う。
「……ふふ」
「笑うとこですか」
「うん、笑うとこ。だってさ」
彼女は、枕に頬を押し付け、悪い目をする。
「私、“ファン一号”に合鍵渡して、下着で起こされて、抱っこ要求して、襲われるかもって宣言されて、なお頼れって言われてるんでしょ?」
「言い方が最悪」
「最高じゃん」
「最高の定義が壊れてる」
布団から手が伸びてきて、俺の手をつまんだ。
「ねぇ、タマキくん」
「はい」
「……嬉しい」
俺は思わず、視線を逸らした。
まっすぐ見たら、負ける。
「嬉しいなら服着てください」
「うーん」
彼女は、わざとらしく悩むフリをしてから――
「じゃあ、お願い」
「何ですか」
「抱っこ♡」
「戻るな!!!!」
「だって、今のタマキくん、ちょっと可愛かったから」
「着替えた後なら抱っこくらいならしますから」
「はいはい。真面目だねぇ」
「誰のせいで真面目になってると思ってるんですか」
「私♡」
「うるさい」
ヒカリさんがクローゼットに向かったのを確認して、俺は寝室のドアの外に出る。
「……俺、なんでこの人の合鍵持ってるんだろうな……」
思わず口をついた独り言に、寝室からヒカリさんの声が返ってくる。
「ねえ、タマキくん」
「なんですか」
「襲っていいよって日が、もし来たら」
「言葉の選び方ぁ!!」
「言うから」
「言われたら、俺はどうしたらいいんですか……」
「頑張って考えて♡」
「もうやだ、この人!!」
秋の朝。
大人気デザイナーの部屋は今日も戦場だった。
――でも、まあ。
頼られるのが嬉しいのも、事実だった。




