5話
学校に着いて、教室へ向かう。
……そこまでは、本当に何もなかった。
教室に入ろうとした、そのとき。
「…………」
腕を組んだエレナが、じっとこちらを見ていた。
……ああ、やばっ。これ、めっちゃ怒ってる。
表情自体はほとんど変わっていないのに。なのに、背後からゆらゆらと恐ろしい気配だけが滲み出ていた。
そりゃ、そうだよね。
エレナからしたら、昨日付き合い始めたばかりの恋人が、さっそく別の女の子と一緒に登校してきたんだ。
……怒るよね。そりゃ。
と、とりあえず何か言わないと。
あ、あ、あと、謝ることも。
――そう思った、そのとき。
ふと気づく。
エレナの淡い紫色の瞳が向けられていたのは、僕――ではなく、椎名だった。
エレナは、その綺麗な顔に似合わないくらい眉間にしわを寄せて、椎名をじっと見つめている。
……っ。
これ、殺気だ。殺気そのものだ……!!
今にも飛びかかりそうな、敵意むき出しの猫みたいだった。
「ねぇ、ちょっと奏多。なんであたし、こんな睨まれてるわけ?」
椎名もようやくそれに気づいたのか、戸惑ったように声を上げる。
次の瞬間。
「……この、泥棒猫」
エレナの眉がぴくりと動いて、これまで聞いたこともないような低い声が響いた。
「ど、泥棒猫……?」
一瞬、椎名はきょとんとした顔をした。
「ねぇ、ちょっと待って。落ち着いて。あなた、二組の斎藤エレナさんだよね? あたし、あなたに何かした?」
椎名は困惑した顔のまま問いかける。
「…………」
けれどエレナは、敵意だけを込めた視線を椎名に向け続けていた。
……っ、もう。なんでこうなっちゃうかな……!
とにかく、早くエレナの誤解を解かないと。
これ以上こじれたら、もっと大変なことになる。
「エレナ、落ち着いてっ! あの……エレナが想像してるのとは違うよ! 僕と椎名は、ただの幼なじみなんだ」
エレナの視線が、ゆらりとこちらへ向く。
そこにあったのは、さっきみたいな剥き出しの殺気じゃなかった。
「……幼なじみ?」
「そう、幼なじみ!」
背中に冷や汗をかきながら、僕は必死にうなずいた。
「なら、良かった」
張り詰めていた空気がふっと緩むみたいに、エレナはかすかに微笑んだ。
よ、良かったぁ〜〜……。
凍りついていた体から、ようやく力が抜けていく。
「なんなのよ、こいつ……」
納得いかないのか、椎名が不満そうにぼやく。
するとエレナは、椎名の方を見て、憐れむように口を開いた。
「……ただの負け犬のようね」
ちょぉぉおおお!?
何言っちゃってるんですかああああぁぁぁ、エレナさん!?
あまりの一言に、全身がびくっと跳ねる。
せっかく解けかけていた身体が、一瞬でまた凍りついた。
ぞわりと悪寒が走る。
「は、え、ちょっと……あんた、今なんて言った……?」
「…………っ」
声にまるで色がない。
恐る恐る、椎名の方へ顔を向ける。
ひいいいいいいいいい……っ!?
思わず悲鳴が喉元まで込み上げた。
……こ、怖ひ。
椎名の鮮やかな黄色の瞳は、さっきまでの明るさが嘘みたいに濁りきっていた。
……やっぱり、人って感情的に怒るより、静かに怒ってるときのほうが、いっっちばん怖い。
ていうか、今の椎名にケチャップ付きの包丁でも持たせたら、一部界隈でめちゃくちゃ人気が出そうだ。
……いや、出なくていい。ほんとやめてね?
「負け犬って言った……?」
「ええ。あなたに言ったわ」
あぁ、やめて、やめてエレナ!!
それ以上は煽らないでっ!!
森椎名という女の子は、普段はかなり適当だ。
テストだって平均くらいあれば十分、みたいな顔をしてるし、面倒くさいことはわりとすぐ投げる。
なのに、変なところで妙に負けず嫌いなのである。
小学生のころ、一緒に遊んでいたレースゲームで僕が勝って、調子に乗って煽ったことがあった。
そうしたらめちゃくちゃブチ切れられた。
……今みたいに。
あのときは機嫌を直してもらうまで、本当に地獄だった。
「へえ。なんであたしが負け犬なの?」
「奏多という子がずっと近くにいたのに、関係を進めることもできず、今の状況に甘んじているからよ。負け犬さん」
だからやめてって言ってるのにぃぃぃっ!!
……って。
こんな教室の前で言い合っていたせいか、気づけば騒ぎを聞きつけた人たちが周りに集まり始めていた。
しかも、口論しているのは学校でも屈指の美少女であるエレナと――それにまったく引けを取らない椎名だ。
もし今ここで、校内の男子全員に「どっちがタイプか」なんてアンケートを取ったら、たぶん結果は割れると思う。
それくらい、二人の顔面偏差値はほぼ互角だった。
「なに、あんた。さっきから言いたい放題。あんた、奏多のなんなの?」
怖い怖い怖い怖いっ!!??
滲み出る苛立ちのせいか、椎名の頬も眉もぴくぴく引きつっている。
「……私は、奏多の恋人よ」
ちょっ、こんな人目のあるところで何言ってるの!?
聞かれてない?
大丈夫?
ほんとに聞かれてない!?
さすがに恥ずかしかったのか、エレナの声は少し小さかった。
……とはいえ、慌てて周りを見渡す。
うぅ。
だめだ、なんかもう怪しい気がする……!
「……恋人?」
エレナの言葉を聞いて、椎名が目を丸くしてこちらを見る。
あっ……。
しまった。
バ、バレちゃった。
……もう、この際仕方ないか。
僕は肩を落として、小さくため息をついた。
「……うん、そうだよ」
「そ、なら。幼なじみのよしみで言っとくけど」
椎名はエレナの方を向いて、きっぱりと言った。
「こいつとだけは、やめときなさい」
あからさまに煽るような言い方に、エレナが不満をにじませる。
「なっ……何を言ってるの?」
「あたしはただ、幼なじみに恋人作るならちゃんと相手を選びなって言ってるだけ。顔の良さだけで寄ってくる女なんて、ろくなやついないでしょ」
えっ。
僕の顔が良い……?
し、椎名……僕のこと、そんなふうに思っててくれたんだ。
えへへっ。
僕、顔かっこいいんだ。
緩みそうになる口元を、僕は必死で引き締める。
……でも、その直後。
呆れたような椎名の視線が突き刺さった。
「……こいつ、無駄に男受けがいい顔してるから」
「男受けがいいってなんだよっ!! 上げてから落とさないでっ! 上げてからっ!!」
「……うっさい」
文句をぶつけるみたいに言い返したけど、椎名には一刀両断された。
……納得いかない!!
「……私は、奏多の顔だけじゃない。心も全部、愛しているわ」
「その無駄に重ったるい感じが、もう大体めんどくさいのよ。奏多、こんなやつと付き合ってたら幸せになれないぞ〜」
「なら、あなたは奏多を幸せにできるって言うの?」
「えっ、ん〜……少なくとも、あんたよりは奏多のこと知ってるし。あんたよりは幸せにできるんじゃない? 知らんけど」
エレナは椎名を睨みつける。
けれど椎名は、そんな視線なんて意に介さないみたいに、ひらひらと受け流してみせた。
「……あなた、嫌い」
「あら、あたしもあんた嫌いよ」
バチバチ、バチバチ。
今にもシャーッと飛びかかりそうな猫みたいに、二人の間の空気は完全に殺気立っていた。
こ、このままじゃまずいっ!!
周りにも迷惑をかけちゃうし、何より――僕のせいで二人が喧嘩してるのは、すっごく嫌だ。
「あのさ、二人とも」
僕の一声で、二人の視線がぴたりとこちらを向く。
すぅ、と息を吸い込んで、僕は続けた。
「……それなら、二人で勝負しない?」




