肥後もっこす
昔から聞くけどあまり理解できない言葉です。
純粋で正義感が強く、議論好きで曲がったことが嫌い、生真面目など熊本県人を表す言葉だそうですが、少なくとも肥後もっこすという言葉に含まれる美点は私にはないと思います。
逆に不器用とか協調できないとか口下手みたいな肥後もっこすの欠点にばかり心当たりがある。
子どもから大人になるにつれて県民性とか国民性みたいな言葉が好きではなくなっていった理由に肥後もっこすという言葉が影響しているのかもしれません。
地域や集団の人間をひとくくりにするのは文化、風習の調査とか統計などに有効な手法ではあるのでしょうが、それによって集団の中で浮いた存在になっている人たちを存在しない物として扱いかねませんし偏見を生んでしまうことも考えられます。
その集団の文化や規範を嫌がっている人も実はいるかもしれないのに地域性だの県民性、国民性あるいは民族性みたいな言葉でひとくくりにして扱う乱暴さは集団の中の個人を殺し外に対しては偏見を強めていく。〇〇性みたいな概念はあまり用いない方がいいと思います。
似たような話を放送大学の文化人類学の講座でしていました。オリエンタリズムとか本質性の人類学という言葉を用いて、民族の特徴や個性を見つけた一方でそれに当てはまらない人々を透明な存在にし、否定してしまった時代の研究の功罪について説明する内容だったと思います。
いろんな生き方をする人が集合して、その中で顕著にみられるパターンであった文化がいつの間にか支配に利用されたり、逆に帝国主義時代などでは支配から脱するための連帯の旗印とされたり、多数派の文化というのはいい側面も悪い側面もあるといったことも講座では紹介されていました。
一度集団の中に根付いた文化とか規範意識は個人ではあらがえないほどの力を生み出します。だから肥後もっこすなどの言葉で人をラベリングしたり県民性国民性民族性みたいな雑な言葉を使うのを避けたいと思っています。




