第19話 「神奈森蛍の憂鬱」
土曜日の朝。
見事な秋晴れで始まったその日は、休日の朝と言うこともあり、まぶたをこすり眠気を払いながら空を見た様々な人達が、思わず笑顔を零すほどだ。
いつもどおり、古臭い大柄な目覚ましが鳴り出すよりも早く目を覚まして、そのスイッチを切った蛍も、窓のカーテンを開くまでもなくさわやかな秋の空気を感じていた。
ゆっくりと伸びをして、体に血流と気を巡らせる。
良い目覚めだ。
疲れはなく、思考も呆ける事無く、まさに気力充実。
ここまで良い目覚めの朝など、なかなかないに違いない。
そう、体調も、霊力も最高のコンディションであり――
「……ああ、ついに来てしまったのね……」
少女にとって、かつてないほどのテンションの低さで始まる朝でもあった。
今日は、彼らとの約束の日である。
彼らについての詳しいことを教えてもらい、また、自分もある程度の秘密を教える。
それについては、別にいい。
いや、決して良い訳ではないのだが、今更である。
ある程度の覚悟はできたし、いい加減、このわけのわからないという最大の不安を減らすことができるという期待感もある。
だが、同時に、今日何をするのか、聞かされるのかが、はっきりいって想像もつかない。
そこにあるのは、「未知」に対する漠然とした恐怖感である。
人間は、理解の及ばないものにたいしてもっとも恐怖を感じる生き物である。
直接的な死の恐怖ではない、酸で徐々に溶かされるような、そういう怖さに対しては、人間は非常に脆い。
戦場では蛮勇を誇る猛者が、姿、形のない「存在もしない妄想」に付きまとわれて首を吊ることなど、珍しくもない。
しかしながら、彼らに対してそのような恐怖感があるのかといえば、そういうわけでは決してない。
なぜなら――
ぴろん、と。
蛍の枕元にあった携帯電話が鳴る。
手にとってそれを見れば、
「おはよう!いい天気だね。今日、用が済んだら一緒にカラオケでも行こうよ!」
真奈からのメールだった。
思わず、顔がほころんでしまう蛍。
そう、これだ。
彼らを全面的に信頼しているわけではなくとも、彼らに害意はなく、むしろ善意と好意を寄せられているのは、人とのコミュニケーションがそれほど得意ではない蛍にもわかる。
だからこそ、蛍のテンションは「低い」のだ。
未知に対する怖さと、それが同時にみんなの優しさという心地よさ。
それが入り混じっているからこそ。
これから、不可解で知り合ったばかりの一族にとってはむしろ厄介な存在だろう者達と様々なことを話し合う。そういう緊張感をもってしかるべき決戦の日だというにもかかわらず、ただ、ため息をつく「程度」にしか彼らに警戒心が沸いていない。
「だって昨日の問診票?みたいなのの質問……『貴方は変身できますか』『変身できる場合、巨大化しますか』『巨大化する場合は次の中からサイズを選んでください。①5m以下 ②10m以下 ③30m以下 ④31m以上』。……泣いていいかな、私」
というか、不審なところが多すぎて一周しちゃっていたらしい。
そんな彼らを相手にして、今日一日、なんやかんやと話し合ったり調査したりとするらしい。
とてつもなく不安で、そして、――
「どうしよう……今日と言う日が、ええと……なんというか、本気で面倒くさいのだけれど」
恐怖も不安も好奇心も、少女の全ての感情をひれ伏させた、最大の理由がそれだった。
*********
「おはようございます、父様、母様」
「おはよう、蛍」
「おはよう、蛍さん」
蛍が着替えと洗顔を済ませ、居間に着いたとき、食事はすでに家政婦達により用意されていた。
少女の父と母の前にも朝餉は置かれ、あとは白米と汁物を椀によそうだけとなっている。
普段、土曜は蛍の修行の日であり一人朝食を済ませてしまい、さらに平日には父である応権に様々な会見や「仕事」が入るため、こうして三人が揃って朝食を摂るのは久々である。
応権は、彼女が席に着くのを見届けると、給仕に目線だけで合図して、椀に飯を盛らせた。
「さて蛍……今日は、友人と遊びに行くのだったな?」
父のその言葉に、びくりと一瞬身を震わせる蛍だったが、彼女は努めて平静を装い、一度頭を下げた。
「はい、一人、家の手伝いもせずすみません。修行のほうも、帰ってから最低限の基礎反復を。明日は今日の分をしっかりと行いますので……」
「いや、よいのだ。要があれば、あらかじめお前には伝えている。お前はむしろ、もっと自由に振舞ってほしいと思っているのだぞ。なあ、柚子」
「ええ、そうです。確かに我ら一族、掟により制約や制限はありますが……それでも、蛍さんは少しご自分でご自分を縛りすぎていると思っていますから」
「ああ、だからな、蛍。今日は、ゆっくり楽しんできなさい。ちなみに、その友達とは、学校の友達なのかな?最近、電話やメールをよくやり取りしているようだが……」
「え……? あ、はい。よくやり取りしているのは、同い年の真奈さんという方です。でも、学校は違って……たしか清音女子の合唱部で部長をされているそうですよ」
「ふむ、そうか、そうか」
「……えと、いただきます」」
何故か満足げに頷く父を不思議に思いながら、きゅう、と軽くなったお腹の音に催促される形で、蛍は茶碗に向かい手を合わせ、箸を手に取った。
そのまま、かちゃかちゃと食事は進み、静かながら和やかな朝食を終えると、全員の前に食後の茶が給仕から出される。
母、柚子も今日は体調が相当に良かったのか、白米こそお茶碗半分ほどではあったが朝食を残さず平らげ、満足そうにそれを啜っている。
ふう、と全員が一息をつくと、そろそろ出発の準備をしようと、蛍は一旦部屋に戻ることをつげ、居間を発った。
そして、しばしの静寂を待って――
「……聞いたか、柚子」
「ええ、聞きましたとも、貴方」
「真奈さんという子だそうだ……悠諸ある清音女子で、一つの部の長を任されている、か。……良い子のようだな」
「ええ、ええ。もちろんですとも。あの子が友と呼ぶ子です。悪い子のはずがありません」
「おお、そうだな!当然のことであった!……おう、茶柱が……これは、良い日になるな!」
きゃいきゃいと、まるで少女の集いのように我が子の友人のことで盛り上がる二人。
そんな、珍しいものを目にした給仕の家政婦が驚きで固まっていたが、そのとき、玄関口からドンドンと妙に小うるさい音が居間まで響き、彼らの喧騒を打ち消してしまう。
「……何事だ?」
呟き、応権が霊力を巡らせて、玄関口の気配を探る。来客にしては物々しいため、警戒の意味もあったが――ただ、こういう「客」に覚えもある。
ああ、どうせ「あいつら」だろうと直感的に思いはしたが、それでも、最低限の確認だけはしないわけにはいかない。
「……あの人達、ですか」
感知においては応権より鋭い柚子は、あえて気を巡らすまでもなかったのか、玄関口をちらりと見据えて、陰鬱そうにポツリと呟く。
応権も霊気が玄関に届き、確認して――案の定だとわかり、応権は口元を歪ませる。
「ああ、そうらしい」
茶柱が、くてっと横に倒れた
*********
「さて、そろそろ時間ですね」
正史に言われたとおり、霊服、霊符や鋲、玉などの各種道具、そして、先日記入した質問票。それらの忘れ物がないことを確認し、蛍は部屋を出た。
今日の予定としては、まずはブレーメンへと向かい、彼らと合流してから「ある場所」へと向かうらしい。
その場所については聞いていないが、電車を使い、徒歩を含めても三十分も掛からないとのことである。
何をするかはともかく、帰りには「カラオケ」に行くことを真奈と約束しており、それはそれで楽しみでもある。
長年住んでいる蛍にとっても長いと感じるその廊下を歩いていると、客間のほうからずいぶんと騒がしい声が聞こえてきた。
ああ、この声は「あの人たち」だと、蛍はすぐに悟った。
その相手は、一族のものとして同門であり、家族であり、それこそ「仲間」と言っていい相手のはずだが、正直、蛍はその者たちが苦手であった。
はっきり言えば、このまま無視してさっさと家を出てしまいたい……が、それはそれで、今こうして気づいてしまった以上、不義理であるとも思う。
ぐっとこぶしを握り、一度深呼吸をすると、蛍は客間の中に居る者たちに声をかけるために、ふすまの方へと近づく。
「わっははははは!まずは健在で何よりだ。応権殿。柚子殿もずいぶんと元気そうではないか」
「ああ、最近は調子が良いようでな。それでも無理はさせられないが……」
「ふむ……だが、あの様子であれば『力』の一つや二つ、『誰か』に継承させることもできよう?」
「……いや、無理だろうな。体がもたんだろう。それに、そのような状態で繋げた力など、かえって中途半端になり役に立たぬことになりかねない」
「だが、やるだけの価値はあろうて。……ああ、なに、わしも柚子殿を危険な目にあわせる気は毛ほどもないぞ?もちろん、回復の妙薬の支援は惜しまぬとも!」
ぎり、っと。
応権が奥歯を強く噛んだ音が、聞こえてくるような、そんな霊力の乱れを蛍は感じた。
そして、それは蛍自身も同じである。
本家の女にのみ行える、「力」の継承。
類稀なる力を、一族の誰かに「託す」ことができる、その魂守の一族の秘術の一つ。
それを、すでにあれほどまでにボロボロになった母にさらに行えと、彼ら――分家、『橘家』の長である大叔父は、そういっているのだ。
霊力は、いわば生命の力の代替品でもある。
それを、制御して使うのならいざ知らず、誰かに与えるというのは下手をすれば寿命を削ることに近い。
もっとも、若く健康的なときであれば、それはさほど問題はないだろう。
だが、母は一族の本家の女の宿命として、体を構成する霊気の集合体、『霊体』はすでに限界に近くなっている。霊体の問題を、霊力と術で何とか補っている状態ともいえるのだ。
霊体とは、人間の肉の体と対を成す、霊気を留め、形作るための魂の体といわれている。
行ってみれば、霊力は車のガソリンで、霊体はその車体に近い。
母、柚子はその車体がすでに朽ちかけている状態であるといえた。
それを、特殊な術により霊力を擬似的な「膜」として構成して、どうにか車体としての強度を保っているのである。
そんな彼女に、これ以上の無理などさせるわけにはいかない。
だが、彼らの言い分も、それは「一族」としては正しくもある。
すでに大きな術に体が耐えられなくなっている母、柚子の内なる力を、まだ「どうにか」持つ間に取り出して誰かに渡したい、というのも、一族の宿命ということを考えれば、確かに効率的なことではあった。
だが、だからといって。
そんなふうに母を「使う」というのは、悲しすぎるではないか。
本来であれば、父は、激怒して大叔父に殴りかかっていてもおかしくはない。
だが、応権の立場が、そして、母の命を長らえるためにこそ『橘家』の様々な支援が必要であるという事実が、それを内なる心だけに止めさせる。
「まあまあ、応真殿。そういうことは時期や状況と言うものがありますぞ。今、早急に事を進めようとするものではないでしょう。もちろん、我が『桂家』も柚子殿の息災を強く願えますれば、支援を惜しみませぬとも」
中から、新たな声が聞こえてきた。
きいきいと小動物の鳴き声のような、そんな甲高い声には強い印象がある。
これは、『桂家』の当主代行の声だ。現当主である大叔母が不意の病で倒れ意識がないため、正式な当主交代が行われていないため『代行』となっているが、実質的には桂家のトップである存在である。
「ああ、それとですな、応権殿……本日、蛍様はご在宅でありますかな?」
「……いや、蛍は――」
応権は、部屋のすぐそばに蛍が居てこの会話を聞いていた事に、感づいていた。
霊気を消していた蛍の存在に、中の来客たちは全く気づいていないようであるが、さすがは本家の『表』の当主である、応権その人である。霊力を巡らせて擬似的な結界にも近い領域を周囲に張り巡らせて、蛍がいることを察知していたのだ。
だから彼は、分家当主たちの質問に一瞬だけ言いよどむと、少しだけ声を大きくして、部屋の外の蛍にはっきり届けるように、不在を告げようとしていた。
暗に、関わらなくてよいと娘に伝えるために。
だが、蛍は――
「父様、準備ができましたので出立いたしますが……その前に、ご来客の方にご挨拶を、と思い、参りました。入ってもよろしいでしょうか?」
それを、良しとしなかった。
ここで彼らを無視してしまっては、逃げたことになったようで、悔しかったのだ。
蛍の声に、中で「ぎょっ」と空気がすくむのが感じられた。
橘、桂、それぞれの長が、突然の声に驚いたのだとわかり、蛍はほんの少しだけ溜飲を下げ、暗い笑みを浮かべてしまう。が、それも一瞬で、彼女は再び素面へと顔を戻した。
「……入りなさい。分家の長の方々がお見えになっておられる」
「はい、失礼いたします」
しずしずと、ふすまを開けると、そこには予想通り、大叔父である橘の長、そして、叔父である桂の長がいた。
向かいに座っているのは、憮然とした面持ちの父だ。
そして、さらにそこには蛍が思っていなかった人物が一人――
「やあ、蛍ちゃん。久しぶりだね」
「義人兄様……!?」
従兄弟の、桂義人。
小さいころは、僅かな憧れもあった『婚約者候補』の一人が、そこに居た。
誤字脱字はあとで直すの巻




