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#06 ハルトの気持ち ꕤ︎︎前編ꕤ︎︎



ふたりの箸が食器に触れる音だけが鳴っていた。

静かな食卓。

理子もハルトも黙々と食事をしている。

卵焼きの色だけが、やけに明るくうるさかった。


理子は昨夜ハルトに言われた言葉が引っかかっていた。


────俺の気持ちも知らないで!なんで姉ちゃんは気づかないんだよ!


一晩考えてもわからなかった。

そのせいで寝不足だ。

理子は女性とは思えない大きな欠伸を手で覆った。

すると、ハルトが鼻で笑った。


「色気ねーあくび。それじゃ男も逃げてくな」


理子はムッとしてハルトを睨んだ。


「昨日の街コンではたっくさん寄ってきたわよ」


「胸元につられてだろ」


ハルトは理子を見ないで言った。

理子は黙った。自分でも気づいていた認めたくない事実だったのである。


「それでハルトは?」


理子はまだ少しハルトのことを睨みながら、湯気のたつ味噌汁をすすって聞いた。


「いい出会いあった?あ。でもハルト、好きな人いるんだっけ?」


ふとそのことを思い出し、次の瞬間、ニヤリと笑った。


「ねぇ、それって、もしかして、あの時会った後輩?」


「は?橘?」


ハルトは思いがけない名前が出てきてちょっとだけ驚いた。


「ちげーよ」


それが理子には動揺に見えた。


「隠さなくていいって~。あの子清楚な感じで可愛かったし」


理子の鈍感さにハルトは内心、落胆しつつも安心した。


「それに、なんかふたり……」


理子は、ハルトがはるみと楽しそうに笑う光景を思い出す。


「お似合いだったし…」


理子の顔から、ふっと笑顔が消えた瞬間をハルトは見ていなかった。


「そりゃどーも」


否定しないハルトに、理子はどこか悲しくなった。そこはなにか否定して欲しかった。


「で?姉ちゃんの次の婚活は?」


ハルトは卵焼きに箸を伸ばしながら興味無さそうに聞く。


すると、卵焼きは残りひとつだった。

ハルトは一瞬だけ箸を止め、何ごともなかったように隣のおかずを摘んだ。


「さあね。」


理子はため息混じりにそう言って、残りひとつの卵焼きに箸を伸ばす。

躊躇なく箸先でつまみあげ、一口食べると目を伏せた。


「10年分の思いを上書きしてくれる人なんて、そう簡単に見つかりっこない…」


そう言うと残りの卵焼きを食べ、食卓をぼんやり見つめた。


その顔は切なげで、ハルトは思わず手を差し伸べたくなった。


でも────


もう、理子への特別な気持ちは手放そうと決めたのだ。


助けることも、心配することも、

嫉妬することも────もうやめる。


ハルトが思い出したように口を開いた。


「そうだ。姉ちゃん。」


「ん?」


理子は顔を上げてハルトを見た。

だがハルトは、理子を見ていなかった。


「そろそろ部屋探せよな」


「え?」


思わぬハルトの言葉に理子はキョトンとした。


「いつまでも俺を頼んなよ。」


ハルトは味噌汁をひと口すすって続けた。


「離婚もしたんだし、新しい人生の幕開けに一人暮らしするのもいいだろ」


「ちょっと、何よ急に、私を追い出す気!?」


上手くいかない婚活に、突然の追い出し宣言。

理子の感情が荒ぶった。


「姉ちゃんがいると不都合な事もあるだろ?部屋に女連れ込めないし」


連れ込む気はない。だがそう言ってみた。


「今まで我慢してきたけどさ。色々あるんだよ」


「ふーん。そうですか、ごめんなさいね。あんたのこと、欲望ダダ漏れ男だって知らなくて!」


理子は嫌味たっぷりに言って唇を尖らせた。

そしてひと呼吸、置いてポツリと言った。


「…ハルト、冷たい」


ハルトの良心が傷んだ。

それでも────


「…姉弟なんてこんなもんだろ」


ハルトは素っ気なく言った。


「これが正しい距離感だ。」


その言葉は、自分自身に言い聞かせてるようにも見えた。


理子は静かに箸を置いた。


「わかった…部屋探して、そのうち出て行くわよ…。」


寂しさを帯びた理子の声音が、ハルトの胸に突き刺さった。


───でもいい。これでいい。


ハルトは気持ちを抑えながら箸を置いた。


「じゃあ俺、もう仕事行くわ」


そう言って、ハルトは立ち上がる。


「え?」


理子が間抜けな声を出す。

ハルトは食器を片付け、椅子に置いてあったカバンを手に持った。


「駅までいっしょに行かないの?」


ハルトは一瞬だけ、理子を見た。

でもすぐに視線をそらす。


「悪い。朝イチで会議あって。急いでる。」


それだけ言うとハルトは行ってしまった。


理子の心に、しばらくぶりの寂しさが顔を覗かせた。

それは修司と暮らしていた時以来のものだった…。






「ねぇ理子さん!ダブルデートしましょうよ!」


城山ミチルの底抜けに明るい声に、理子は少し救われた気持ちになった。

だが、表情はぱっとしない。


「ダブルデート?」


商品の在庫確認をしながら理子が聞き返す。

店内の清掃をしていたミチルは、掃除そっちのけで、胸の前でほうきの柄を両手で握って楽しそうに言った。


「そうです、そうです!拓真くんとハルトさんと理子さんと私の4人で!」


そういえば、ここではハルトが夫だと思われていることを思い出した。

偽の夫婦。つい最近のできごとなのに、もう随分前のことのように感じてしまう。


「グランピングデートしましょうよ!」


「…グランピング?」


聞きなれない言葉に、理子は眉を寄せた。


「今流行りの、ラグジュアリーなキャンプですよ!バーベキューしたり、しっとり語り合ったり、星空を見たり!」


掃除はすっかりそっちのけで、今度はほうきを片手で持ったまま胸の前で指を組んで、デートの妄想を繰り広げている。


「男女の距離がぐんと深まるデートなんです」


今朝のハルトの態度を思い出すと、理子は乗り気になれなかった。


「楽しそうだけど…。友達カップルと行った方がいいんじゃない?私らみたいな結婚10年の熟年夫婦と行くより」


理子は遠回しに断るが、ミチルはちっとも察しない。


「熟年夫婦だからいいんじゃないですかー!お手本になりますし、結婚のリアルなお話も聞けますし!」


理子は逃げ場がなかった。


「……ハルトに聞いてから、ね。」


「あ、きっと拓真くんが今頃話してますよ。

4人分で予約したから今度の土日に行きましょうって」


在庫確認していたペン先が、大幅にズレたのだった…。





小綺麗でこじんまりした休憩室には全自動のコーヒーマシーンが置かれていた。

紙コップをセットしてボタンを押すと、機械が低い音を立ててコーヒーを落とし始める。

スラックスのポケットに手を入れて立つハルトは、その様子をぼうっと眺めながらコーヒーが注がれるのを待っていた。


今朝の理子への態度は、たしかに冷たかったかもしれない───


だが、理子への気持ちを手放すと決めた以上、ああ言うしかなかったのだ。


これ以上一緒にいて、何かの拍子で関係が崩れてしまうより、姉弟としての距離感を保ち、弟として接しているほうがずっといい。

守る先にある境界線は絶対に超えてはいけない。


ハルトはぼんやりそう考えていた。


「ハルト?コーヒーできてるぞ」


ハルトは相澤拓真の声に我に返った。

「ああ…」とだけ言って、コーヒーが注がれた紙コップを手に取った。


「なんだよ?恋わずらいか~?」


紙コップを取りながら拓真がからかう。


「まぁなー」


思いがけないハルトの言葉に、拓真は驚いてハルトを振り返った。

その拍子に紙コップが手から離れ、セットする位置にストンと落ちた。


「え、マジ?認めるのね?恋わずらいね?相手は理子さんね?」


拓真は驚きのあまり挙動不審になった。

ハルトは鼻で笑い、片方の口角を上げた。


「そーだよ、わりーか」


拓真はハルトに近寄ると、胸の前で手を組み、喜びと好奇心で目を輝かせた。


「え、じゃあついに襲ったのね?ね?ね?どうだった?よかったか?」


「襲ってねーよ」


ハルトに睨まれた拓真は、すぐに顔をしかめた。


「え?なんだ、違うのかよ。」


そう言ってコーヒーマシーンに戻り、ボタンを押した。


「じゃあどうした?まさか告った?」


ハルトはコーヒーをひと口飲む。


「ああ…まぁ、そんなとこ…」


嫉妬を爆発させただけのことだったが、そう言うのは格好悪い。ハルトはそれとなく濁した。

でもあれは、ほぼ告白のようなものだとハルトは思っていた。


拓真は「マジかよ…」と呟いて、コーヒーを持ってハルトの横に並んだ。


「で、姉ちゃんなんて言ってた?」


「なにも…。ただ……困惑してた。」


脳裏に、あの時の理子の顔が甦った。

本当に何も気づいていなさそうな、

あの顔が──。


「マジかぁ…じゃあ気まずい状態なのか?」


「まぁ、すこしは…」


ハルトは今朝の状況を思い出した。

自分で気まずくしてしまったことに少し後悔をした。


「でももう…諦めようと思ってるとこ」


ハルトは目を伏せた。


多分、この気持ちに出口はない。

それでも真っ暗なトンネルを一生歩くべきなのか…わからずにいた


「姉ちゃんの元旦那への10年分の気持ち、忘れさせる自信、あるんだけどなー…」


独り言のように、ハルトはポツリ呟いた。

拓真は慈悲の込もった目でハルトのことを見た。


「そっか。じゃあ気分転換だ!グランピング予約したからさ、ダブルデートしようぜ!」


「は…?」


コーヒーを口元に近づけたハルトの手がぴたりと止まり、横目で拓真を鋭く見た。


「こないだ喫茶店で言ったろ?お前と理子さんの偽夫婦と、ミチルちゃんと俺で今度ダブルデートしようって!それだよ」


拓真は楽しそうに言って続ける。


「1泊2日でグランピング予約したからさ、お泊まりダブルデート」


そう言ってハルトに向けてニヤリと笑った。


「相談もなく勝手に決めてんじゃねーよ!なんだよそれ」


ハルトは拓真をじっと睨みつけたが、拓真はどこ吹く風でコーヒーをすすっている。


「相談したらお前絶対断るじゃん。断らせないためにだよ」


「絶対、行かねーからな」


ハルトが拓真に顔を近づけて、強い意志を持った目で言った。


「じゃあ宿泊料とキャンセル料払って」


そう言って拓真は片手の手のひらを出した。


「は?」


「お前の名前で予約してる。だから行かなきゃ、料金を催促されるのも訴えられるのもお前」


ニヤニヤと笑う拓真は知能犯だった。


「拓真…おまえ……」


怒りと呆れが込み上げた。


「ちなみに2名分で5万な。バカになんねーぞ」


この状況を楽しんでいるかのように笑う拓真の横顔が、ハルトは憎たらしかった。


「あー楽しみだな~!豊かな自然に夜は星空、ふたりの距離が深まって…!」


「ふたりで行けばいいだろ」


拓真が期待に胸をふくらませて目を輝かせているとハルトが口を挟んだ。

拓真は唇を尖らせた。


「ハルト冷たい…」


拓真がふざけて言う。

今朝、理子にも同じことを言われたのを思い出し、ハルトの心がやんわりと締め付けられた。

つい、理子を思い出してしまう。


ハルトは小さく息をついた。


「だいたい、彼女とふたりの方がいいんじゃねーの?」


「俺、大人になってからのこういうダブルデート、憧れてたんだよ。それにキャンプは大勢の方がいいだろ。あ、それと。」


拓真はハルトにふっと耳打ちする。


「テントはカップル別で、ベッドはひとつにしといたから」


「はぁ!?」


驚いた拍子に、手に持ったハルトのコーヒーがこぼれそうになった。


拓真は含み笑いを浮かべながら、休憩室を出ていったのだった…。







「ただいまー」


玄関に入ると、カレーのいい香りがふわりとハルトの鼻をかすめた。

電気がついた明るい玄関に、ほっとする。

理子がいなくなったら、無機質な暗闇に帰る日々になる。慣れていたはずなのに、突然現れた同居人のおかげで、ひとり暮らしの感覚が薄れていた。 それはどこか寂しさを感じそうだった。


「ハルトおかえり~」


リビングのドアが開いて、理子が顔を覗かせた。

こんな光景も、もうすぐでなくなる。

「ただいま」と吐き出した言葉は、静かに暗闇に消えることになる。


「あー疲れたー」


リビングへ入ると理子がキッチンで料理をしていた。いずれ、そんな姿も────。


「お疲れさま。ねぇ、拓真くんにダブルデートのこと聞いた?」


理子がコンロの前でフライパンを動かしながらハルトをちらりと見やった。


「聞いた聞いた。むちゃくちゃだよな」


ハルトはネクタイを緩めながらソファへ向かい、ドカッと腰を下ろした。


「……行くの?」


朝の気持ちを引きづっている理子は、ハルトの様子を少し伺うように、そっと聞いてみた。


「行くしかねーよなー。あいつ、勝手に予約してるし。それも俺の名前で」


「え?そうなの?」


「行っても5万、行かなくても5万とキャンセル料、払うことになる。あーもう」


ハルトは両手で頭を抱えた。


理子はキッチンから、おかずを盛った皿を運び、ダイニングテーブルに並べる。

コトッと皿を置くと、ソファのハルトに小さく微笑んだ。


「また…偽装夫婦だね」


ハルトが偽の夫をしてくれた居心地の良さを思い出し、理子は内心では、それも悪くないと感じていた。


ハルトは理子のそんな様子を感じ取り、期待に応えられない自分がいることに気づいた。


「なぁ。拓真は事情知ってるから、いっそのこと、ミチルちゃんにもバラすか?もうそんなことしなくてもいいように」


ハルトはそんな言葉が口をついて出た。

すると理子の顔が曇った。


────そんなこと。


ハルトにとって偽夫婦は否定的なものなのか…

理子は少しでも浮かれた自分が恥ずかしかった。


ハルトはソファの肘掛に腕を乗せ、その手を額に当てて目を閉じた。


────理子への気持ちを忘れたいのに。

疑似恋愛みたいなことは避けたいのに。

なかなか上手くいかない。


ふと目を開けると、ハルトの目の前に理子がいた。

膝立ちになって、つま先を立てたまま座って、ハルトの顔を覗き込んでいる。


「…ねぇ、ハルト。わたし、何かした?ハルト、昨日の街コンの帰りから様子が変。」


自然な上目遣いが、どこか小動物みたいに可愛らしい。


隣に座りさほど変わらない高さで見つめられるよりも、こうして下に座りそこから見つめられるほうが、やたらに距離が近く感じ、知らずのうちにハルトの胸を高鳴らせる。


本人は気づいているのかいないのか、理子は距離を詰めるのがうまい。ハルトはそう思っていた。


「何かしたなら教えて。謝るから」


そう言った理子の目は真剣で、本人は無意識でこういうことをしているのだと、ハルトは悟った。


「……なんもねーよ」


ハルトは視線を逸らした。


そう、何もしてない。

──自分の気持ちに、気づいてもくれない。


「もしかしてさ……ハルト…わたしのこと…」


そう言われて、ハルトはハッと理子を見た。

わずかな沈黙の中、ハルトの胸の鼓動が早くなる。


理子は一瞬、視線を落としてからハルトを見て言った。


「あばずれみたいに見えて嫌だった!?」


「……は?」


ハルトは低い声を漏らして眉を寄せた。


「ほら、昨日のわたしの服装、胸元開いてたからそれが嫌だったのかなって。」


それも間違ってはいないが方向性はズレていた。


「嫌っていうか、恥ずかしいっていうか。弟だもん、姉の胸元なんて見たくないし、それを見て喜んでる男を見るのも嫌よね」


理子は身振り手振りを加えながらひと通り喋り終えると、小さく息をついた。


「ごめんね。もうそんなことしない」


ハルトを見つめる瞳が、罪悪感に染まっていた。


「……別に、好きな服着ろよ。似合ってたし…」


ハルトが目を逸らして言う。


「え?…えーっ!?」


理子は急に立ち上がって大声を上げた。


「似合ってたって、胸元見てたってこと!?最っ低!」


「さ、最低ってなんだよ!」


勢いあまって、ハルトも立ち上がった。

知らずのうちにふたりの顔が近づき合う。


「あんな服着てたら、男なら普通見るだろ!目いくだろ!」


「へぇ~ハルトって結構ムッツリスケベタイプなんだ。ふ~ん、へぇ~、ほぉ~?」


「ムッツリじゃねぇ!健全な男だ!」


「健全な男だったら堂々と見なさいよ!」


「はぁ?つーか、あばずれな姉ちゃんを持つ弟の気持ちわかれよな!大変なんだぞ!」


「なんですって!」


夜の帳が下りた頃、いつもの賑やかさが見えた。



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