#05 姉ちゃんの婚活
「キャーーーーーーッ!」
理子の大きな声が、朝の静寂を切り裂いた。
味噌汁のお椀の縁に口をつけたハルトは、危うく吹き出しそうになった。
「なんっだよ、うるせーな」
テーブルを挟んだ向かいでスマホを握る理子を見て、ハルトは不機嫌そうに聞く。
「マッチングしたの!素敵な殿方と!」
理子はテーブルの下で足をバタバタしながら、興奮気味にスマホ画面をハルトに見せつける。
ハルトは味噌汁を置き、渋々それを覗き込んだ。
画面にはピンクの背景が広がり、
『マッチング成立!』という文字が浮かび上がっていた。
丸く縁取られたキメ顔の理子と、彫りの深そうな顔をした男のアイコンも並んでいる。
「姉ちゃん、マジで婚活するのかよ」
ハルトは、どこかおもしろくなさそうに目を細めた。
「マジよマジ。離婚届けを提出して、晴れて独身に戻ったんだから。修司との10年分の思いを忘れさせてくれるような究極の大恋愛を求めて、私は突っ走るの」
理子はスマホを引っ込めるも、まだスマホを握ったまま意気込んでいた。
「この人ね、42歳のバツイチで税理士。」
聞いてもいないのに話し出す。
ハルトは息をついた。
「やめとけよ、そんな男」
白米を口に運びながら、淡々と言い放つ。
「…なんでよ」
理子は不服そうに眉をひそめた。
「姉ちゃんに耐えられない男だからだよ」
さらりと返すハルト。理子は少し考えてから、
「どういう意味よ。それ」
と、ハルトを軽く睨んだ。
その時───
理子のスマホがメッセージ音を知らせた。
「わっ。殿方からメッセージが来た!」
嬉しそうに弾む声。
ハルトは不機嫌そうな表情を浮かべて、理子の方を見た。
離婚ハイになった姉が浮かれている───。
今までのストレスから解放され、新たな人生への希望を探している姉の姿は、見ているこちらまで楽しくなりそうなのだが…
おもしろくない。そして不安もよぎる。
また傷つくんじゃないか、
そしてまた、
遠くへ行ってしまうのではないか──と……。
ハルトは目を伏せて、黙々と食事を続けた。
すると──。
「“今夜飲みに行きませんか?”」
「は?」
ハルトは眉を寄せて顔を上げた。
「え?早速デートのお誘い?」
理子はスマホを眺めながらニマニマしている。
「やめとけって。マジで。」
「フットワークが軽い人なのよ、きっと。私もそうだし。気が合うかも。」
理子は宙を見上げて呟く。
「行ってこようかな~」
食事をするハルトの手がピタリと止まる。
そして小さく息をついた。
「飲みすぎんなよな」
ハルトは再び箸を動かしながら忠告した。
「え?」
「姉ちゃん酔っ払うとガードゆるそうだから」
脳裏に蘇るのは昨夜の理子。
ふらついた無防備な体、ほのかに開いた唇…
あんな姿、他の男には見せたくはない。
「は!?人を尻軽女みたいに言わないでくれる!?」
理子が怒ると、ハルトは呆れて笑った。
「尻軽だろ!?得体の知れない男に飲みに誘われて、ほいほいついて行こうとしてんだから!」
「だから、42歳バツイチの税理士だってば!それだけわかってれば十分でしょ!」
「あのなぁ、もっと慎重になれよ!」
ハルトの嘆きの言葉が、虚しく中を泳いだ。
目の前にサンドイッチとアイスコーヒーが置かれると、ハルトはビールのようにアイスコーヒーを喉に流し込んだ。
口の中に広がる香ばしい苦味。ランチ時間にこれがないと、午後からの仕事は捗らない。
「あー激務。疲れたー」
革張りのソファにどっかり座っている相澤拓真もアイスコーヒーを仰ぐように飲んだ。
会社の近くにあるレトロな喫茶店に2人は来ていた。
ワインカラーを基調とした店内はどこか古びていて落ち着きがある。静かな店内には小さくジャズが流れ、深みのあるコーヒーの香りが漂っていた。
ランチをとりながら一息つくには、うってつけの場所だった。
「んで?」
拓真がニヤリと笑う。
スマホを見ていたハルトは顔を上げた。
「あ?」
すると拓真は、体を前のめりにして小声になって聞く。
「姉ちゃん、襲ったのかよ?」
ハルトは赤面した。
「は!?襲ってねーよ!」
自分の声の大きさにハッとして、慌てた様子で周りを見渡す。
拓真は声を押し殺して笑っている。
「…ったく。姉ちゃんだっつってんだろ。」
「つまんねーなー。なにビビってんだよ」
「ビビってねーよ」
ハルトはすかさず虚勢を張った。
「ミチルちゃんも可愛いけど。理子さん可愛かったなー。あー旦那が羨ましー」
ハルトの眉がぴくりと動く。
「もう離婚した」
「は、マジ?」
拓真は手に持ったサンドイッチを落としそうになった。
「え、じゃあフリー?独身?お前いかないなら俺いきたい」
「彼女いんだろおまえ」
そう言ってハルトはサンドイッチにかぶりつく。
シャキシャキのレタスが音を立てる。
「あ…そうだった」
拓真はみちるの顔を思い出し、ニンマリした。
「それに姉ちゃん婚活始めたから、入る隙ねーよ」
それは自分にも───
ハルトは小さく息を吐いた。
小さな怪我がだんだん大きくなっていく。
もう治らない。傷口は広がる一方で、痛い。
「婚活~?また結婚すんの?」
「元旦那との10年の思いを忘れさせてくれる大恋愛を求めてるんだと」
「あ~。ありがち」
理子の甘ったるい恋愛観に、拓真は顔をしかめた。だが次の瞬間、パッと表情を明るくした。
「なぁ、それじゃあさ、今度、ダブルデートしようぜ?お前ら例の偽夫婦で。」
「はぁ?」
ハルトは口元だけ緩め笑った。
その時───入口の扉の鈴が、チリンと鳴った。
入ってきた人物。その見覚えのある横顔に、ハルトは小さく手を挙げた。
「よお、橘」
そう呼ばれた橘はるみは、目を丸くしてハルトのことを見た。
内巻きにされた肩まである黒髪を片耳にかける。
「三浦先輩……相澤先輩も。ランチですか?偶然ですね」
「おー橘ちゃん、ひとり?ランチいっしょにどお?」
はるみはハルトたちの席に近づき、ぺこりとお辞儀をしてハルトの隣に座ろうとする。
それを察したハルトは席を詰めた。
「そっちかーい」
拓真はわかりやすく残念がっていた。
ウエイトレスがオーダーを取りに来た。
するとはるみは、
「オムライスとアイスコーヒーを」
と、控えめな声で言った。
「橘、よくこの店来るの?」
ハルトが何気なく尋ねると、はるみはチラッとハルトを見て笑みを浮かべた。
「時々…。ここのオムライスが絶品なので…」
「へぇー、そうなんだ。今度食べてみるわ」
仕事の時とは違う無邪気な笑顔でそう言われ、はるみは密かに照れてしまう。
ハルトの隣で交わす何気ない会話に、はるみは夢のような柔らかさを感じていたが…
「俺らもたまにここ来るけど、初めて会ったな。橘ちゃん」
拓真の一声で一気に現実に引き戻されてしまった。
「なぁ、橘ちゃんは彼氏いんの?」
「相澤先輩。それはセクハラだと思います…」
真顔で制するはるみの雰囲気には、怖いものがあった。
「固いこと言うなよ~、ほら、ハルトも気になってるって」
「んなこと言ってねーだろ」
はるみは、そう言ったハルトをちらりと見た。
そして照れたように俯くと意外にもすんなり答えた。
「いません…片思い中です」
すると、拓真が目を見開いた。
「え、マジ……え、まさか俺!?」
「ばーか」
ハルトは拓真に冷ややかな視線を送った。
「こいつほんとにアホだから。気にしないで」
ハルトは軽く笑って、はるみにそう言った。
「相澤先輩と三浦先輩はいらっしゃるんですか…?」
先輩という手前、はるみは聞きにくそうにおずおずと聞いた。
「俺はいるけどハルトはいない。こいつも絶賛片思い中~!それも…!」
「余計なこと言うな」
ハルトが拓真を軽く睨む。
拓真はお構い無しにつづける。
「禁断の愛!」
小声で、でもはっきりとキッパリと言い、はるみは思わず目を丸くしたのだった…
「元妻は金使いが荒くてね」
やたらと質のいい声が、聞きたくもない言葉を紡いでいく。
「あれも欲しい、これも欲しい。挙句の果てには僕の財産全部よこせだもんな。参ったよ。」
理子は3杯目のワインをくっと流し込んで、おかわりを注文した。
出会い頭はよかった。
仕立てのいいブラウンのスーツに身を包み、足元の革靴を光らせて、颯爽と現れた。
「初めまして。真鍋浩一です。」そう名乗った低い声や品のある雰囲気、すこし彫りの深い顔立ちも素敵でうっとりした。
しっとりとしたバーへ案内され、カウンターに並んで座りワインで乾杯。
「理子さん、綺麗ですね」「星よりも美しい」などという歯の浮くようなセリフも良かった。
それなのに────
「まったく、元妻を思い出すと寒気がするよ。寝顔だけは綺麗だったんだけどね。」
早く帰りたい───
そう思いながら理子は黙ったままワインを飲み続けた。
「学びましたよ。結婚は慎重に相手を選ばないといけないということを。女性って感情的でしょう?」
理子の眉がぴくりとする。
「まぁ…色んな女性がいますから…」
作り笑いを浮かべて冷静さをどうにか保った。
「いやいや、それでも。僕は合理的な結婚を望みますね。感情に左右されるのはごめんです。」
そう言って浩一は肩をすくめた。
「わたしは…良くも悪くも、感情が爆発したような恋愛をして結婚したいです。」
二人の間に、違和感という名の風が吹いた……。
玄関の鍵が開き、ドアが開閉した音が聞こえた。
時計を見ると20時を回ったばかり。
ソファに寝転がっていたハルトは不審に思い、起き上がった。
「ただいま~」
沈んだ声音の理子が、なにやら疲れきった様子でリビングへ入ってきた。
「おかえり姉ちゃん。ずいぶん早い帰りだな」
「うん。もうね、最っ悪のデートだったの。あのクソ税理士、元妻の愚痴ばっかり!」
そう言って理子はソファまで来ると、ハルトの隣にどかっと身を沈めた。
「だから言ったろ。やめとけって」
冷静に窘めるハルトの横で、理子は一点を見つめてぼんやりと言った。
「おまけに、合理的に結婚したいって。私はもっとこう…ときめいたり喧嘩したり、感情がある恋愛をして結婚したいのに…。」
「婚活失敗だな」
ハルトがほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間。
「うん……第1弾はね…」
「…は?」
聞き逃せなかった言葉に、ハルトは怪訝そうな顔をした。
「次は街コンよ、ハルト!」
突然、元気を取り戻した理子は、ハルトの方をくるっと向いた。
「街コン?」
いまいち話が通じていなくて眉をひそめるハルトに、理子はバッグから折りたたまれた1枚のチラシを出して開いて見せた。
白いラインで縁取られたピンクの大きなハートの中に、『友達探しや恋人探しで東京の夜を楽しめ!街コン2026』と配列よくプリントされてあった。
「“街ぐるみで行うコンパ”よ!略して街コン!帰り道、駅前でチラシ配ってたの!」
理子の目は輝きに満ちていた。
「ハルトもいっしょに行くの!」
理子の思わぬ言葉に、ハルトは眉をひそめたまま口元だけ緩めて笑った。
「は!?なんで俺も行かなきゃなんねーんだよ!?」
「だってあんたも恋人いないし、好きな人もいないんでしょ?お姉ちゃん心配だもん。」
「うるせーな、好きな女くらいいるわ!」
勢いに任せてそう言ってしまった。
ハルトの爆弾発言に理子は目を丸くした。
「え!?いるの!?誰よ!どんな子よ!」
理子は興味津々になって聞く。
「ね、姉ちゃんには関係ないだろ!」
ハルトが立ち上がりその場を離れた。
理子は子犬のように後を追う。
「ねーぇ、誰よー!?」
「誰でもいいだろ!」
追いかけっこは廊下まで続く。
「ねーぇ、ハルト、教えてよー!」
「ちょっ…!トイレまで付いてくんなよ!」
ハルトの困惑した声は、理子には届かなかった…。
「え、理子さん、未亡人なんですか!?」
短髪で涼しげな顔立ちの男は、ビールが半分くらい入ったジョッキを片手に驚いた表情を浮かべて理子を見た。
「ええ、5年前に不慮の事故で夫を亡くしていて…未亡人なんです。」
理子はジョッキを両手で包み込み、目を伏せた。
「まだお若いのに…お辛いですね。」
同情の目を向ける男に、理子は小さく笑いかける。
「ええ、まぁ…。でもいつまでも塞ぎ込んでてはいけないと思って、今回この街コンに参加したんです。」
────嘘だった。
不倫された事実が恥ずかしいという小さなプライドから、修司を勝手に殺して未亡人に扮することにしたのである。
大きな商店街で開催されている街コンは、様々な年代の男女で賑わっていた。
街の活性化を目的に、多種多様の店が参加している。
理子は見通しのいい大衆居酒屋にいた。
小さなテーブルと小さな椅子。
なんとなく、相手との距離が縮まりそうな店だった。
「出会いを求めての参加ですか?それとも気分転換?」
「両方です。楽しく飲みましょうね」
テーブルに肘をついて少し前屈みになる理子。
その理子の笑顔と胸元に男がデレッとしたのを、ハルトは見逃さなかった。
ジョッキを片手におもしろくなさそうな顔で、ちょっと離れた席から姉を監視している。
騙されている男もしょうもないが、嘘を言う姉もしょうもなかった。
見かねたハルトはジョッキを持って近づいた。
「すいませーん。俺もご一緒させてもらっていいっすか?」
そして他人のフリをして、理子たちの席に割って入ろうとした。
「え、誰?君。」
短髪の男は怪訝な顔をしている。
「ただの通りすがりっす。お姉さん、可愛いなぁと思って」
ハルトは短髪の男の隣の空いてる椅子に座った。
理子は黙ってハルトにニコッと笑ったが『余計なこと言うんじゃねーぞ』と目が物語っていた…。
「理子さん。旦那さんを亡くして未亡人なんですって。」
短髪の男がハルトに言った。
「未亡人?それより、バツイチの雰囲気ありません?──イテッ!」
ハルトはそう言って顔を歪めた。
テーブルの下で理子に思い切り足を蹴られたのだ。
「あら、ごめんなさい。長い足がぶつかっちゃいました」
理子は白々しく言った。
「ハハハ…いや、いっすよ」
ハルトは苦笑した。気を立て直す。
「ところでお姉さんおいくつなんすか?」
「37です」
理子はにっこり笑って答えた。
「え、見た目のわりに結構歳食ってるんすね!」
ハルトは明るく言った。
次の瞬間、理子の足がハルトの足を蹴った───
はずだった。
「イッテ!」
そう声を上げたのは短髪の男だった。
ハルトは、蹴られるのを察知し避けて、隣に座る男の足をさりげなく自分の足の方に動かしたのだった。
「えっ、あっ、ごめんなさい!」
驚いて目を丸くしている理子を横目に、ハルトは素知らぬ顔をしてビールをひとくち飲んだ。
「なんだよ、あんた達…」
この状況を怪訝に思った短髪の男は、そう言い残すと席を立ってどこかへ行ってしまった。
ハルトは勝ち誇った顔を浮かべた。
「ちょっと、どういうつもりよ!楽しく話してたのに!」
理子が食ってかかる。
「なにが楽しくだよ!未亡人なんて嘘ついて!出会い探して来てるんだったら、もっと真面目に探せよな!」
「べつにいいでしょ!」
理子はジョッキを傾けビールを仰いだ。
「それになんだよ、その服!」
ハルトは戸惑う目で理子を見た。
深いVネックの、黒のニットのワンピース。
いっしょに来た時は上に来ていたコートで見えなかったが、まさか胸元がこんなに開いていたなんて。
「あの男、姉ちゃんの胸元見てた」
「ああ、じゃあ作戦成功ね。今夜は大人の色気で攻めようと思って」
理子はあっけらかんとしているうえに、ニヤリと笑った。
そんな理子を見てハルトはため息をついた。
その時────
「三浦先輩……?」
ふっと顔をあげると、そこには橘はるみが立っていた。
タイトめのニットにロングスカートを合わせていて、いつものスーツ姿の雰囲気とは違って見えた。
「え、橘?」
ハルトは驚いた。
はるみも目を丸くしている。
「こんな所で会うなんて偶然ですね」
そう言いながらはるみは、ハルトのテーブルへ歩み寄った。
「ハルト、どちらさま?」
理子が知りたくてしょうがない様子で聞く。
“ハルト”と呼び捨てで呼ばれたのを聞いたはるみは、一瞬でこの状況を把握して顔が曇った。
「あ…ごめんなさい。お邪魔してしまって」
「え?いや、違う違う。これ俺の姉ちゃん」
ハルトは慌てて言った。
「姉ちゃん、職場の後輩の橘。」
「理子です。初めまして」
理子は片手を上げフランクに笑った。
はるみはぺこりと丁寧に頭を下げた。
「橘、よければ座ったら」
ハルトのその一言に、はるみは小さく笑みをこぼしてハルトの隣の椅子に座った。
視線が泳ぐハルト、その隣で小さくうつむいて照れ笑うはるみ。
そんな光景を見て、理子は女の勘が働いた。
「あー。ここは若い者同士の方が良さそうね。わたしは消えます」
理子は明るく言って立ちあがると、足早に席を離れた。
「飲みすぎんなよ」
心配が帯びた声を、理子の背中に投げかける。
理子は後ろ姿のまま手を挙げた。
「ったく。」
そう呟いて理子の姿を見送るハルトの横顔を、はるみはチラリと見た。
ハルトは、小さくなっていく理子の後ろ姿を愛しそうに見つめていた。
こないだ拓真が言っていた言葉とハルトの様子で、はるみはあっけなく失恋した気持ちに駆られた。
「で、どうして橘がここに?好きな人いるんじゃなかったっけ?」
ハルトが残り少ないビールを煽ってから口を開いた。
「はい…でも、それを知らない母に、恋活しろだの婚活しろだのうるさく言われて…。」
「そっか」
ハルトは苦く笑った。
「先輩はどうしてですか?しかもお姉さんと…」
「ああ…婚活する姉ちゃんに付き合わされて。それと、この歳にもなって独り身なのを心配されてさ。」
そう言ってハルトがふとはるみに目をやると、はるみの髪になにかゴミが付いていた。
ハルトの手が自然と髪へと伸びる。
「え?」
はるみの肩が一瞬小さくビクッとした。
急に鼓動が早くなった。
「橘、ちょっと動くなよ」
ハルトの低い声が喧騒の中で、はるみの心に心地よく響く。
取り終えると、ハルトは指先を見た。
「ごはん粒……」
ハルトはそう呟くと、思わず笑い出した。
「なんで髪にご飯粒なんてつけてんだよ」
はるみは恥ずかしそうに俯き、髪を撫でる。
「なんでだろ…さっき食事した時についたのかな」
小さなテーブルには明るい笑い声が上がっていた。
──理子はその光景を離れた場所で見ていた。
なんだ、ハルトのやつ、結構楽しそうにやってるじゃない…
姉心でそう思い、安心した反面───
女の子と無邪気に笑うハルトを見て、胸の奥がちくりと傷んだ。
理子は胸に手を当てると首を傾げたのだった……
「三浦先輩の好きな人ってお姉さんなんですね」
唐突なはるみの言葉に、ビールを飲んでいたハルトは思わずむせて咳き込んだ。
「あ、ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「………は?」
冷静を装い、どうにか発した言葉だった。
「さっきの先輩を見ててすぐにわかりました」
はるみは目を伏せ、小さく笑った。
「こないだ相澤先輩が、禁断の愛って言っていましたし。でもその言葉がなくてもわかったと思います。」
ハルトが息をついて言葉を探していると、はるみは真っ直ぐハルトを見た。
「先輩がお姉さんを見る目、すごく愛おしそうでした。」
はるみの柔らかな笑みは、なにかに耐えているような儚いものだった。
ハルトは、照れくさそうに視線を逸らした。
「禁断の愛…本当にあるんですね。私、誰にも言いません。」
はるみが嘘のない瞳で微笑む。
ハルトはようやく落ち着きを取り戻し、口を開いた。
「…いや、姉ちゃんとは血の繋がりがないんだ」
「え?」
「親の再婚の連れ子でさ。他人なんだよ」
「そうだったんですね…」
はるみは静かに頷いた。
「橘、勘いいな。全然気づかない姉ちゃんとは大違いだよ」
はるみも拓真も、ハルトの気持ちに気がついている。
理子だけが気づかない。
ハルトの気持ちに───
いや、気づかない方がいいのかもしれない。
「きっと、誰が見てもわかりますよ。」
はるみの言葉に、ハルトは恥ずかしくなって頭をかいた。
そのとき───。
「あれ?あそこ歩いてるの、お姉さんじゃないですか?」
はるみがそう言って、窓の向こうを小さく指をさした。
ハルトが視線をやると、商店街の通りを理子が男と楽しそうに歩いていた。
笑いあって、ふざけ合い、距離はやけに近かった。
「……距離、近ぇなぁ」
ハルトは不機嫌そうに思わずぽつりと呟いた。
「あ、ごめんなさい。男の人の姿、見えなくて…」
はるみが申し訳なさそうに謝ると、ハルトは小さく笑った。
「あー、いや、いいよ。大丈夫。こういう場所じゃ、しょうがねーよな」
自分に言い聞かせるように言って、ジョッキを仰いだ。
「……三浦先輩って意外と嫉妬深いんですね。かわいいです」
はるみは少し俯いて口元を手で押さえ、ふふっと笑った。
ハルトはまた恥ずかしくなって頭をかいたのだった。
理子は楽しんでいた。
知らない男たちとビールジョッキを掲げ、何度目かの乾杯をする。
「いや、ほんと、理子さんて楽しい人だなぁ。おまけに美人で色っぽい。」
黒髪のオールバックでビジネスマン風の男が爽やかに笑って言った。
「えー?それ、文法間違ってません?
正しくは『理子さんて美人で色っぽいなぁ、おまけに楽しい人だし』でしょ?そこは“美人で色っぽい”が先でしょ~」
理子は指でつつく仕草をしながら、ノリよく笑って返した。
「理子さんみたいな人が独身のフリーだなんて信じられないな~、本当に彼氏いないんですか?」
オールバックの男の隣に座る、黒髪で短髪のビジネスマン風の男が、ジョッキを片手に聞いてくる。
「今日は3人目の彼氏を探しに来てます!っていうのはジョーダンで、フリーなんですよね~」
何杯飲んだかわからないビールで、理子はすっかりいい気分になっていた。
「じゃあ、理子さんの好きなタイプは?」
オールバックの男が聞く。
「わたしのタイプはー…!」
そこまで言うと理子は前屈みになって口元に片手を添えた。
おのずと2人の男も前屈みになり、顔が近づく。
そして理子は小声で囁いた。
「イケメンの、お・か・ね・も・ち!」
言い終わると姿勢を戻し、
「なーんてね~!冗談でーす」
と笑って付け加え、ビールを飲んだ。
「掴めない人だな~」
短髪の男が笑ってそう言った時だった───
「こんなとこにいた」
聞き慣れた低い声。
振り向くと、ハルトが不機嫌そうな顔で立っていた。
「そろそろ帰ろうぜ」
見知らぬ男たちと顔を寄せ合い、楽しそうにしている理子を見て、ハルトは静かに苛立っていた。
「あ、ハルトー。まだいいじゃん。あんたも座っていっしょに飲もーよ」
理子が呑気な声でそう言って、自分の隣の空いてる椅子を軽く叩いたが、ハルトは無視をした。
「え、理子さん、誰?彼氏?」
オールバックの男がハルトをちらりと見て、不思議そうに言った。
「え、でも彼氏いたらここには来ないでしょ」
短髪の男も不思議がっている。
「弟ですよ、弟!お互いフリーだからいい人見つけにいっしょに来たの」
理子は胸元をかすめるように右手を延ばし、左耳に髪をかけた。
その仕草にでさえ、男たちは釘付けになっている。
「へぇー、仲良いねぇ。こんな綺麗で色っぽいお姉さん、弟くんが羨ましいよ!」
オールバックの男のこの言葉に、理子は嬉しそうに笑う。
「え〜、ありがと~!」
そしてふざけるように男たちに向けて投げキッスをした。
男たちは喜んでいる。
ハルトは小さく息をついた。
「いい加減にしろよ」
ハルトの声がさっきよりも低くなる。
そして理子の腕を掴んで立ち上がらせた。
「え、ちょっと、ハルト!?」
ハルトは何も言わず、引っ張るように理子を連れ去った。
ハルトにとって、姉を色目で見られるのも、男に浮かれている姿を見るのも、我慢の限界だった。
ハルトの指先が理子の柔肌に食い込んでいた。
「ねぇ、ハルト、痛いってば!離して!ちょっと、なに…どうしたのよ?」
男たちから理子を引っ張るように連れ去って、しばらく経った。
街コンが開催されていた大きな商店街を抜け、気づけば人通りの少ない路地裏に来ていた。
ハルトはようやく腕を離した。
掴まれていた部分を理子が触ると、そこはすごく熱かった。
「ハルト、どうしたのよ…」
「ムカつくんだよ!」
間髪入れないハルトの勢いある言葉に、理子は息を飲んだ。
「男に浮ついてチャラチャラした態度見せたり、色目で見られたり!俺の気持ちも知らないで!」
溜め込んでいた感情が、一気に溢れ出した。
「……ハルトの気持ち…?」
理子は戸惑った。
「そうだよ!なんで姉ちゃんは気づかないんだよ!」
ハルトはそこまで言ってハッとした。
「気づかないって…何に…?」
すっかり酔いも覚め、ハルトの様子に少し圧倒されている理子は眉をひそめた。
本当にわかっていないようだった。
静寂に包まれる。
それはふたりの温度差を認識させられるものだった。
「…ごめん。今言ったこと忘れて…。」
ハルトはそう言って小さく俯いて目を伏せた。
そして振り絞るかのように口を開いた。
「俺ももう…こんな気持ち忘れる…。」
叶ってはいけない想い。
伝わってはいけない気持ち。
それでいて走る嫉妬心。
もう全部、
手放した方がいいのかもしれない───
静かに深く息をついて、ハルトは宙を見上げた。
「ごめん姉ちゃん。帰ろうぜ」
ハルトはいつもの顔に戻って理子に笑いかけた。
理子は一瞬、何かを言いかけて、その口をニコッと結んだ。
地面には、月明かりに照らされたふたりの影が、長く伸びていた。




