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#04 嵐のあとの光



疑いの目が、ハルトに向けられていた。


理子はご飯を口に運びながら、テーブルを挟んだ向かいで静かに食事をするハルトをチラチラと盗み見る。


───我が弟に、姉の後ろ姿を盗撮する趣味があったなんて。


そしてあろうことかその写真を、大事そうにスマホで保管して夜な夜な見ている。

昨夜は完璧に素敵な偽の夫を演じていたのに。

実はちょっとした変態だったとは。

これでは27にもなって女の影がないのも頷ける。


理子は弟を本気で心配しながらも、疑いの目は止まらない。


そのとき───ハルトと目が合う。

理子が不自然に逸らすと、ハルトは眉を寄せた。


「なんだよ、姉ちゃん。さっきから人のことチラチラ見て。」


「え?べ、べつに……」


すこし声が上づった。

ハルトはそう言われたが、納得いっていない様子で食事を続ける。

ふと、ふたりの箸が残りひとつの卵焼きを掴んだ。

理子はさっと手を引いて、別のおかずを食べ始めた。


ハルトは箸を置いて、小さく息をつく。


「なんだよ、なんかあるなら言ってくれよ。気になるだろその態度。」


理子は聞いてしまおうか一瞬悩んだが、言葉を飲み込んだ。

なんとなく聞けない。


「べつに何もないわよ。いつもの私よ」


「嘘つけよ。昔から残りひとつの卵焼き、譲らないだろ。」


見抜かれている。


「た、たまには姉らしく、弟に譲る日だってあるわよ。」


なにか隠している──

ハルトは瞬時に悟り、懐疑的に姉を見た。


「ふーん」


その時────

テーブルに置かれていたハルトのスマホ画面が明るくなってアラームが鳴った。


「あ、やべ。もうこんな時間。仕事行く支度しないと」


ハルトは焦るように立ち上がり、食器をキッチンに片付け始める。

そして寝室の方へ行ってしまった。


途端、理子の目はハルトのスマホへ────


もういちど、たしかめてみようか…

ハルトの意図がわかるかもしれない…


息を飲み、理子の手がハルトのスマホにゆっくり伸びる。


もう少し。あと10センチ…あと5センチ…

あと────


その時────

すっとスマホが掴まれて手の先から消えた。


「俺のスマホになんか用?」


頭上から落ちるハルトの低い声音。

理子は手を止めてハルトを見上げた。


「あー……ティッシュ取ろうと思って」


理子はにっこり笑い、スマホの向こうにあるティシュ箱からティッシュを1枚引き抜いた。


「どうでもいいけど、姉ちゃん早く飯終わらせろよ。そろそろ出よーぜ」


いっしょに歩く駅までの道のり。

理子は一瞬考えた。


「あ。今日は別々に出よ?私、今日の仕事、お昼過ぎからなの」


平静を装って嘘を言った。

突如浮かび上がった弟の盗撮疑惑に、理子はどう接していいかわからず距離を取る。


「ふーん…わかった。いってきます」


ハルトは静かにそう言って、部屋を出た。

その大きな背中は、どこか寂しそうだった。






「ねぇ、盗撮されたことある?」


理子のためらいのない言葉に、鈴原真澄は驚いた表情を浮かべた。


「盗撮?それ、アタシに聞く?」


真澄は片手を胸に当て、自分がゲイであることを主張するかのようにやさぐれた口調で言った。


「ないわよ、そんなロマンチックなこと!」


盗撮をロマンチックと思うのは真澄ぐらいだろう。


「盗撮なんて全然ロマンチックじゃない。気持ち悪くない?」


「それも一種の愛のカタチよ。むしろアタシが盗撮したいわよ。イケメン限定でね」


「やめてよ」


理子が本気で気持ち悪そうな顔をした。


しかしその一方では、“一種の愛のカタチ”という言葉に反応していた。


ハルトの愛のカタチ…

わたしのこと、好きなの?

姉として?それとも女として?


どちらにしても歪んでるわね…


理子は密かにため息をついた。


「イケメンて言えば。聞いたわよ~!あんたの旦那さん、超絶イケメンなんだってね!」


「え?誰から聞いたの」


想像はついた。


「ミチルちゃんからよ~!ね、写真ないの?見せて見せて」


「ない」


理子はバケツに入った花を整えながら、素っ気なく言った。


「え~?つれないわね~、じゃあ盗撮してきてよ」


「しない!」


理子はきっぱりと言ったのだった。






午前中のオフィスには、大きな窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。


朝からパソコンと真剣に向き合っていたハルトは、エンターキーを押すとキーボードから手を離した。

小さく息をつき、椅子の背もたれに軽く体を預ける。

そしてポケットからスマホを取り出した。


謎のアカウントのSNSを開く。


そこにはまた、花屋の外観と女の姿が映った投稿写真。

迷いなく写真をタップする。


ぱっと映ったのは、遠巻きから撮影したと思われる、淡いピンクの服を着て花屋で働く女の姿だった。


今朝、理子も同じ色の服を着ていた。


投稿時間は1時間前。

時計を見ると11時だった。


「……嘘つき」


ハルトは怒るでもなく、低く呟くと、スマホをポケットにしまった。


今朝、理子は仕事は昼過ぎからだと言っていた。

それなのに10時からしっかり働いている。


なぜ理子に避けられているのか、わからない。


ハルトは椅子から立ち上がった────。






車が行き交う大きな道路の向こうに、理子が働く花屋があった。

黒いコートを着て、顔を隠すようにフードを被った白石修司は、少し離れたところから見ていた。

手にはスマホを持って────。


その時───


「何してるんすか、修司さん」


突然、名前を呼ばれて修司が振り向く。

そこにはスーツ姿のハルトが立っていた。


修司は返事もせず、立ち尽くす。


「白石修司さんですよね?」


ハルトの冷静な口調が攻める。

修司が逃げようとしたその瞬間────


「逃げたらこれ、警察に見せます」


ハルトは鋭い視線を修司に向けて、スマホを突きつけた。

そこには謎のアカウントのSNSのページが映っている。


「これアンタのアカウントだろ?映ってるのは俺の姉ちゃん。盗撮に無断投稿、夜のストーキング。普通に犯罪っすよ」


淡々とした言葉で攻めていく。


「こっちが被害訴えれば、警察動きますよ」


わずかな沈黙が流れ、修司は観念したようにフードを脱いだ。


「ハルトくん……なんで俺だとわかったんだ」


その顔は無表情で、感情が読み取れなかった。


「姉ちゃんが言ってたんだよ。花屋の前で黒いコートを着てフードを深く被る男を見たって。」


ハルトが一度言葉を切ると、修司は息を飲んだ。


「で、姉ちゃんを付け回した男も黒いコートだった。それであの日偶然、見たんだよ。姉ちゃんが飛び込んだコンビニ近くで、黒いコートのフードを脱いだあんたのことを。」


「そうか…」


修司はぽつりと言葉を漏らした。


「じゃあ…どうやってそのアカウントを見つけた?」


「偶然…でもないっすけど。いろいろ辿っていったら。」


「…理子も気づいてるのか?」


修司がここでようやく、ふっと笑った。


「気づいてないです。だから言う気もないです」


ハルトは低く、静かに吐き捨てた。

修司は鼻で笑う。


「言えばいいじゃないか。でも言えないだろうな。理子がどれだけ傷つくかわかってるから」


ハルトはすぐには答えなかった。


ふたりの横を車が走り抜けていく。

すこしの間があって、ハルトは静かにぽつりと答えた。


「それだけが理由じゃねーよ…」


ハルトのその言葉に、修司は眉を寄せた。


「姉ちゃん、まだあんたのこと忘れてないんで。そんな状況で聞かせる話じゃないでしょ。」


修司は黙って聞いていた。


「もしまだあんたにも姉ちゃんを想う気持ちがあるなら、アカウントごと写真も全部消して欲しい」


修司はまだ口を開かない。


「消さなきゃ警察に言う。」


じりじりとした息苦しい空気が、修司を覆っていく。


「……わかった。降参だ」


修司は両手を顔の横まで上げて、苦く笑った。


「俺も前科者にはなりたくない。それに…俺が壊したんだ。今さら取り戻せるわけないよな」


修司は目を伏せた。


「なんでこんなことしたんだよ。」


「決まってるだろ。自分の元へ戻ってきてくれない、腹いせだよ。それと…未練とかいろいろだ」


修司は悪びれた様子もなく答えた。

ハルトは黙ったまま修司を睨んだ。


「でも、もうこんな馬鹿げたことは終わりにするよ。これでも理子を思う気持ちは、まだあるんだ。」


修司は、理子との別れを惜しむかのように花屋の方を一度見た。

店内では理子が笑顔でお客に花束を渡していた。


「あぁ…理子…かわいいなぁ。俺はなんて馬鹿なことをしたんだ…」


修司は感極まったように言ってから、ハルトに視線を戻した。


「……理子を頼むよ。ハルトくん」


ハルトは返事をせず、黙って修司の背を見送った。


ふと花屋の方を見ると、理子がバケツをひっくり返していた。

店内に水が広がり、慌ててモップを探している。


その光景を見て、ハルトはふっと笑った。


「……ほんと目ぇ離せねーな」


ハルトは放り出してきた仕事に戻るため、駅へ向かって歩き出した。






修司の問題は片付いた。

だが、ハルトにはまだ片付いていない問題があった。


───なぜ姉に避けられているのか。


わからないまま夜の8時を迎え、ソファに横になりながら、なかなか帰らない理子を心配したそのとき────


玄関の鍵が開きドアが開閉した音が聞こえた。


ハルトは待ちきれず起き上がると、廊下へ続くドアを開け顔を覗かせる。


「姉ちゃんおかえり、遅かったな」


「あ、連絡しないでごめんね、同僚とご飯食べてきた」


靴を脱ぎながら、いつも通りの理子を演じる理子。


「飯食ってきたの?いっしょに食べようと思って待ってたのに」


がっかりするハルトをよそに、理子は申し訳なさそうにしながらもどこかよそよそしい。


「ごめん…食べてきちゃった。あ、今日はもう疲れたからシャワーして寝るね」


理子は足早に浴室へ行こうとする。

ハルトは理子の手首をすかさず掴んだ。


「ちょっと待って。」


「え……?」


振り返るとハルトが真っ直ぐに理子を見ていた。


「俺のこと避けてるだろ?俺なにかした?」


ハルトの低い声は珍しく不安そうだった。

理子はハルトからさりげなく目を逸らした。


「教えてよ。姉ちゃん」


ふたりの間にわずかな沈黙が流れた。


「………盗撮…」


理子が、俯いてぽつりとこぼした言葉を、ハルトは聞き逃さなかった。


「え……」


ハルトはドキッとする。気づいていたのか?


「……ハルトが…わたしを盗撮してるから…」


一瞬の間のあと、ハルトの端正な顔がおもいきり歪んだ。


「……はぁ?んなことしてねーよ!するわけねーだろ!」


ハルトの声が思わず荒ぶる。


「してるじゃない!ハルトのスマホに私の後ろ姿の写真がたくさん保存されてるの、偶然見たんだから!」


理子の声も勢いづいて大きくなった。


「どんな趣味よ、姉を後ろから盗撮って!で、それを夜な夜なひとりでこっそり見返してるなんて!気持ち悪いわね!最低!だからその歳になっても彼女が──」


「入ってねーよ!ほら!」


ハルトはスマホをポケットから取り出すと、理子の言葉を遮ってアルバムを開いて見せた。

すると、そんな写真はどこにもなかった。


「あれ…?」


理子の勢いがおさまった。


「おかしいな…女の後ろ姿の写真がたくさん並んでて…。ハルトがゆうべ、ソファで寝落ちしながらその画面開いてて…」


そう言われてハルトはピンと来た。

SNSに並んだ写真のページを、アルバムに並んだ写真のページと勘違いしたのだろうと。


「…ほんとのこと言うと、最近、姉ちゃんを盗撮してるやつがいた。」


「え?」


思いがけない事実に、理子は眉を寄せた。


「で、そいつがその写真を無断でSNSに投稿してた。多分姉ちゃんが見たのは、その写真が並んだアカウントのページ。」


ハルトは冷静になって言った。

理子は冷静ではいられない。


「え…それで誰なの、盗撮したやつって」


「突き止めたら全然知らないやつだった。でも凄んできたから大丈夫。写真もアカウントも全部消すように言った。」


理子は一瞬、考えるように視線を止めた。


「……もしかしてそれって、あの黒いコートの男?」


真っ直ぐハルトを見据える。


「それって……もしかして修司?」


理子を見るハルトの視線が、一瞬揺らいだ。

ハルトはそのままふっと視線を逸らした。


「違う。全くの他人。もうこの話はいいだろ」


リビングへ戻ろうと背を向けたハルト。


「待って、ハルト!」


その手首を、今度は理子が掴んだ。

視線が重なる。


「…もう、そこまで守ってくれなくて大丈夫だから…。私そんなに弱くない。」


ハルトがいてくれるから大丈夫。

理子はどこか、そんな気持ちで言っていた。


「修司、なんでしょ?」


ハルトの優しい嘘を、理子の真っ直ぐな瞳が見透かした。

ハルトは視線を落とした。

そして──小さく頷いた。


理子は大きくため息をついて、リビングへ入っていく。


「ほんっとろくでもない奴ね、あいつ!」


どかっとソファへ身を沈めた。


「不倫して、嫁を盗撮して、写真をSNSに載せて、ストーカーみたいなことまでして!死刑ものよね!?そう思うでしょハルト!」


理子は勢いよく振り返り、ハルトを睨んだ。


「はいっ!思います!」


怒っている姉には逆らえないハルトだった。

さっきまで犯人と冷静に対峙していた男とは到底思えない。


「ハルト!とりあえずビール!」


「はいっ!」


「なんかおツマミも!!」


「はいっ!!」


「はやく!!!」


「はいっ!!!」


理子の怒った声と、ハルトの従順な返事が、静かな夜に響いていた。





心配の目が、理子に向けられていた。


ハルトはご飯を口に運びながら、テーブルを挟んだ向かいで静かに食事をする理子をチラチラと盗み見る。


────夫に不倫された挙句、その夫が自分にストーカー行為をしていたことも発覚した。


理子はゆうべ、酒を散々煽って、修司の愚痴をこぼした。

「ろくでもない奴!」と何度も言っていたが、時々、目を潤ませて語る場面もあった。

悔しさと悲しみと困惑が取り巻いているのだろう。

そんな理子の気持ちが心配だった。


ハルトの心配の目は止まらない。


そのとき───理子と目が合う。

ハルトが不自然に逸らすと、理子は眉を寄せた。


「なによ、ハルト。さっきから人のことチラチラ見て。気持ち悪いわね」


心配している気持ちをそんなふうに言われ、ハルトは腹を立てた。


「気持ち悪いってなんだよ!姉ちゃんのこと心配で──」


「ふぅん。じゃあウインナーもらうわよ」


理子はハルトの言葉を遮ると、ハルトの目玉焼きの横に添えられたウインナーを箸先でパッと掴んだ。それを豪快に口に放り込み、


「ん~おいしい!」


なんて、満足そうにやっている。


思ったより元気そうなので、ハルトは小さく息をついて安堵してふっと笑った。


わずかに流れた沈黙の後、理子が静かに箸を置いた。


「あのね、ハルト」


ハルトは箸と茶碗をもったまま理子に視線を向けた。

理子は目を伏せていた。


「修司と、離婚しようと思う」


「……そっか。決心ついたんだ」


「うん。やっぱりもう信用できそうにないから…一度壊れたものって修復できない。」


理子の言葉がハルトの胸の奥に深く沈んだ。

もし自分の理子への気持ちを話したらきっとこの姉弟関係は壊れるだろう。

修司との壊れ方とは違う。

それでも、きっと元には戻れない。

ハルトにとっては重い言葉だった。


「それでね、今日の夕方、パート終わったら自分の家に帰って修司と話してくる。離婚届、突きつけてやる。」


そう言った理子の目は闘志に燃えていた。


「ひとりで大丈夫かよ?俺も行こうか?」


ハルトの過保護スイッチが入った。


「大丈夫よ。あ、でも帰ってこなかったら監禁されたと思って」


理子は冗談めいて笑うが、ハルトは笑えなかった。


でも───こないだの修司のあの様子なら大丈夫だろう。そう思おうとした。





テーブルに1枚の紙がすっと出された。

修司はそれを見て、沈んだ声音でぽつりと呟いた。


「離婚届……」


そして一息置いてからゆっくり顔を上げた。


「離婚を決めたのか…」


修司は落胆の色を隠せなかった。

戻れると思っていたわけではないが、この紙を突きつけられると、理子が自分から離れていく現実味が帯びた。

そしてすでに理子の名前が書かれているのを見て、なおさら現実味が増す。


「まぁ、そんな気もしたけど…」


修司は、ハハハ…と力なく笑った。


「あんなことされて、もう元には戻れないわよ…。」


理子の表情はどこか緊張しているようだった。


「あんなことって……」


確かめるように聞いてきた修司を、理子は睨んだ。


「不倫とストーカー行為よ」


理子は強い口調できっぱり言った。


「ああ…ストーカー行為もか…悪かった。ハルトくんから聞いた…?」


「ええ。でもあの子、修司のこと隠してた。それでわたしがしつこく問い詰めたら白状したの。」


「そっか……」


修司は何度か小さく頷いた。


「わかった…。サインするよ。……これでいいんだよな。」


理子は内心で胸を撫で下ろし、表情がすこし和らいだ。

修司はペンを握り、紙の上を走らせる。


「それにしてもハルトくん。ずいぶん大人になったな。」


理子はすこしキョトンとした。


「この前は圧倒されたよ……理子のことを必死に守ってた。」


「なにそれ?」


「昨日、ハルト君とたまたまふたりで話したんだよ。俺が黒いコートで理子をストーカーしてた時にな。ハルトくんに正体がバレてさ。」


修司はそこまで言って苦く笑った。


「その一時間前に、花屋で働く理子の写真を撮ってすぐに投稿したんだ。だからまだ俺が花屋の前にいるって踏んで、仕事抜け出してわざわざ来たんじゃないかな。」


昨日ハルトがそんなことを…────

理子は、自分の知らないハルトの一面に、心をすこしくすぐられた気がした。


修司は書き終えた離婚届に目を通した。

空欄がないか確認しながら、ぽつりと言う。


「理子の気持ちを思いやって必死に守る、かっこいいナイトみたいだったよ…」


理子はすこし照れくさそうに笑った。


「あの子、昔からちょっと過保護なのよ」


───そう、過保護なだけで、意味はない。


理子はそう思った。


修司が離婚届を渡す。


「理子。本当にすまなかった。今までありがとう。」


理子は穏やかな気持ちでそれを受け取った。




足取り軽くマンションの外へ出ると、外はすっかり暗くなっていた。

目の前の大きな道路を走り交う車のライトが煌々と明るい。

まるで、これからの未来が開けた今の自分の心みたいだった。


修司から離婚届を受け取ったあと、すこし荷物をまとめていたら、気づけば2時間も滞在してしまっていた。

時計は20時を回っていた。

もしかしたらハルトが心配しているかもしれない。

ハルトに連絡を入れようと思ったその時────


「理子?」


その声の方に振り向くと、懐かしい旧友がスーツ姿で立っていた。

学生時代の友人、佐藤明子だった。


「明子~!え、久しぶり!」


理子の弾んだ声が上がった。


「今帰り?ここ、理子んちのマンションよね?」


明子がマンションを小さく指した。


「あ…うん、まぁ、ちょっと、ね!」


理子がそう濁すと明子は少し首を傾げた。

だが、すぐにニヤリと笑う。


「ねぇ、時間ある?どこかで飲まない?」


「いいね~!いこいこ!」


理子は楽しそうに笑って、明子と一緒に夜の街へ繰り出した。





「それで、マンションの前で何してたのよ?」


明子がジョッキを傾けながら聞いた。


半個室の居酒屋は、仕事帰りのサラリーマンや家族連れで賑わっていた。

あちらこちらから笑い声が飛んでいる。

ふたりのテーブルにはビールといくつかのおつまみが無造作に置かれていた。


「離婚してきた帰り。今、別居してて。」


理子もジョッキを傾ける。

冷たいビールが爽快に喉を通り抜けた。


「え、離婚!?マジ!?」


明子は身を乗り出しそうになって目を丸くする。


「マジ。不倫に、その後は、離れていく私に腹いせで盗撮してSNSに無断転載、ストーカー行為まで。」


「うわぁ。大変だったね」


「まぁね。それで今は別居中。弟のハルトのとこに転がりこんでるの」


そう言って、ハルトの顔が浮かんだ。


「あ、ハルトに連絡するの忘れてた。あいつ心配してるかも」


スマホを取り出す理子を見て、明子は笑う。


「なんか旦那みたいね」


理子の指が、通話ボタンを押す直前でぴたりと止まった。


「……ま、いっか、今日は飲も!」


スマホをバッグにしまい、ジョッキを仰いだ。


「子供の頃のハルトくん、可愛かったよね。理子のことやけに心配しててさ。」


「それ今も。」


理子は苦笑した。


「ハルトくん今いくつ?」


明子が枝豆を取り、尋ねた。


「27」


「若っ。どんな?いい男に育った?」


明子はニヤニヤしている。


「高身長の…イケメン…かな?」


理子はなぜか少し照れながら、視線を宙に泳がせて疑問形で返した。

明子の顔がパッと華やぐ。


「最高じゃない!いっしょに暮らしてて変な気起きないの?」


「は?弟よ?」


理子は思いきり顔をしかめた。


「血の繋がりないじゃない」


「でも弟よ」


理子はきっぱり言って、ビールを一口飲んだ。


変な気が起きないわけでもない────


理子は時々、ハルトのことを、今までなかった気持ちで見てしまう自分に気づいていた。

それでもやはり“弟”。

そう思えば、まだブレーキはかけられる。


「あーぁ、いい人がいればまた結婚したいな~」


理子の悲痛な叫びに明子は指を鳴らした。


「じゃあ婚活するのもアリかもね!」


「婚活?」


思いがけない言葉に、理子は手に取った枝豆を口に運びかけて止まった。


「そうよー。理子まだまだ綺麗なんだから、ひとりでいるの勿体ない」


明子は傾けたビールをテーブルに置いた。


「結婚願望あって、離婚したなら、次の男探し!」


明子がニヤッと笑った。


「でもこの歳じゃもう相手にされないんじゃない?」


「そんなことないわよ。色んな年代の人いるから。」


明子は肩をすくめた。


「わたしはマッチングアプリで気の合いそうな男を探して、毎週末のデート楽しんでるけどね」


「婚活かぁ…」


喧騒の中、理子は遠くを見つめ、呟いたのだった…。





ハルトは焦れていた。

ソファに横になってスマホをいじって気を紛らわせようとしても、集中できずにいた。


時計を見る。22時。

いくらなんでも、姉の帰りが遅い。


仕事が終わった夕方に修司と会うと言っていた。

それならもう帰ってきていてもいいはずだ。


話し合いがうまくいかず何かあったのか…

修司がなかなかサインしてくれないのか…

それとも、情に流されて────

修司と一線を超えてしまったのか…


ハルトのめくるめく妄想が脳裏をよぎり、

思わず額に手を置いて目を瞑ったその時────


「たっだいま~!」


玄関から、いつにも増して呑気な理子の声が聞こえ、ハルトは勢いよく起き上がった。


足早に玄関へ向かうと、酔っ払った理子がおぼつかない足取りで靴を脱いでいた。


ハルトに気づいた瞬間、理子の笑顔がぱっと弾けた。


「あ、ハルト~!」


完全に酔っ払っていた。


「姉ちゃん、酔ってんのかよ…何かあったんじゃないかって、心配したんだからな!連絡くらいよこせよな!」


「ごめーん、ばったり会った友達と飲んでた。でもね…」


理子は全然悪びれていない様子で言って、バッグの中から離婚届を取り出した。

ヘラヘラと笑いながらそれをハルトに見せる。


「わたくし理子は!無事、ロクデナシ修司と、離婚してきましたー!」


しっかりと記入され印鑑も押されている。

ハルトは一旦胸を撫で下ろし、それから少し冷ややかに笑った。


「よかったな。それ無くすなよ。」


そして1歩、理子が歩き出そうとした時──

理子はふらりとよろけ、ハルトがすかさず理子の細い腕を掴んだ。


体が触れ合いそうなほど近い距離──。

視線がぶつかる。


とろんと、少しうっとりした瞳。

アルコールで赤くなった頬。無防備に半分開いた唇…。


ハルトの理性が大きく揺らいだ。

思わず、喉がごくりと鳴る。


理子がそっと口を開いた。


「ハルト……ありがとう」


ハルトはハッとした。まるで我に返ったように。


「ハルトのおかげで前に進めそう。」


無邪気な笑顔が空気を変えた。

ハルトは理子から手を離すと、視線を逸らして頭をかいた。


「でね、ハルト。わたし、何すると思う?」


理子がニヤリと笑ってハルトを見る。


「はぁ?知らねーよ。なにすんの」


ぶっきらぼうに言うハルトに、理子は耳打ちした。


「こ・ん・か・つ!」


そう言い残して上機嫌な足取りでリビングへ消えていく。


「……はぁ?!婚活!?」


ハルトの短い叫びが夜の静寂に消えていった…。


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