#02 キスの行方
谷底に落ちても、雷に打たれても、人違いで不意打ちのキスをされても、朝はやってくる。
自分のベッドで目を覚ました──あまり眠れてはいなかった──ハルトは、ぼんやりと昨夜のことを思い出し、唇に指先を当てる。
───長年片思いをしている姉にキスされた。
あの瞬間の光景も、唇の感触も、頭から離れない。
ほんの一瞬の、重ねるだけのキスだったけれど。
修司の代わりのキスだったけれど。
理子は無意識だったけれど…。
喜びと戸惑いと悔しさが混ざり合い、整理がつかない。
突如、転がり込んできた10歳年上の姉に、完全に振り回されている。
ハルトはゆっくり息を吐き、目を伏せると額に手を置いて小さく笑った。
まるで、処理できない無理難題を突きつけられているかのようだった。
どんな顔をして姉と顔を合わせればいいのか…
そう思った時───
ガチャガチャガッチャーン!
朝の静寂を破るかのように、キッチンの方から大きな音が響いた。
ハルトは慌ててベッドから飛び降りた。
キッチンへ行くと、理子がしゃがみこんで「あーやっちゃったー」となにやらゲンナリした声をあげていた。
「…どうした?」
背後から怪訝そうな顔でハルトが尋ねると、理子は振り返った。
「あ、ハルトおはよ。ごめんね、朝から大きな音立てちゃって。」
理子はスッと立ち上がり肩をすくめた。
「朝ごはんの目玉焼き作ってたんだけどね、フライパンを持ち上げた瞬間に手が滑ってフライパンが床に落ちちゃったの。それでこのザマ。」
ハルトは思わず目を丸くした。
「え、なんだこれ…!? 朝からフライパン落とすとか、姉ちゃんさすがすぎるだろ…」
床の上には、フライパンとぐちゃぐちゃになった目玉焼きが転がっていた。
ハルトは苦笑いしながらため息をつく。
「しょうがねーな…片付けるか」
「ごめーん♡」
語尾にハートマークでもついているかのような、ゆるっとした謝り方だった。
いくつになっても愛嬌たっぷりで、姉らしい。
ハルトはこのちょっとしたハプニングに、なんだか救われた気持ちになった。
でもそれも束の間。
「あ、でも仕事間に合う?わたしがやるよ」
しゃがみ込むハルトの隣に、理子も腰を下ろして手を差し出した。
手が触れ合い、視線が重なる。
その瞬間―ハルトの頭に昨夜の出来事がふっとよみがえった。
至近距離。
理子の口元に視線がいってしまう。
胸が高鳴り、思わず動揺する自分に気づいた。
ハルトは慌てて視線を落とす。
床に広がった半熟の黄身がやけに鮮やかだった。
「……ほら、危ないから触んなって」
ハルトはぶっきらぼうに言いながら、理子の手を少し手荒く押し戻す。
触れた指先が、じんわりと熱を帯びる。
「えー?わたしのせいなんだからやるよー」
理子は悪びれもせず笑う。
その無邪気さに、また胸がざわつく。
昨夜のことを、覚えている様子はない。
それが少しだけ、救いで。
少しだけ、寂しかった。
目玉焼きが失敗に終わった朝食は、ハルトが用意したトーストに代わった。
理子は申し訳なさそうに笑いながら、「ハルト、ありがとー♡」とまたも愛嬌たっぷりに言う。
そんな理子が朝食の片付けをしている間、ハルトは仕事へ出かける支度を始めた。
ワイシャツに袖を通し、ネクタイを締める。
普段なら淡々とこなす身支度も、今日はままならない。
ネクタイの結び目を直すたび、昨夜の理子の寝顔や、一瞬触れた唇、さっきの至近距離で胸が高鳴った感覚が蘇る。
自分でもわかるほど余裕がない。
ハルトは大きく息を吐いた。
「あー…まじダセーな俺…」
シュッとネクタイを抜き、もう一度結び直していると、理子が唐突に寝室に入ってきた。
「わたしも仕事だから支度しなきゃ~!」
そう言ってキャリーケースから荷物を出して着替えようとする理子の姿に、ハルトの手が止まる。
「は!?ちょっと待て。俺いるのに?」
慌てて声を上げる。
理子は振り向きもせず、あっけらかんとした表情で服を脱ごうとする。
「え?何言ってるの、弟でしょ?」
ハルトは、思わず後ろから無防備な理子を抱き寄せた────
「俺、男なんだけど?」
低く言い放つ。
理子は驚いて肩越しに振り向く。
「え…ハルト…」
大きなたくましい体に包み込まれた理子のその目は、かすかに動揺に揺れていた。
「全然、男として意識されてねーのな‥どうしたら意識してくれんの?」
「…今、ハルトにドキドキしてる…」
理子の頬は赤く、目は虚ろ。すっかりハルトに心を奪われた様子……
──というのは、あくまでハルトの妄想である。
「ハルト?」
心配そうに名前を呼ぶ理子の声で、ハルトは我に返る。
「あーもうっ、リビングで着替えてくれよ!」
ハルトはすこし怒り気味の口調で言いながら、理子とキャリーケースを寝室から追い出す。
「えっ、ちょっと、ハルトー!」
ドアの向こうの声を背に、ハルトは頭を抱えた。
昨日のキスも、今のこの状況も、すべて頭の中でごちゃ混ぜになる。
心の中で「無理だ…どうしろってんだ…!」と呟き、片手で顔を覆うと大きくため息をついたのだった。
今朝のハルトは、なんだかおかしかったな……と、理子は店内の花の水やりをしながらぼんやり思っていた。
床に落ちたフライパンと目玉焼きを片付けるため、ハルトの隣にしゃがみこんだ時のことを思い出す。
あの時、ハルトの視線はなんとなく、自分の唇を執拗に見つめていたような……そんな気がした。
その後すぐ、手伝おうと差し出した手は、ぶっきらぼうに手荒く押し戻された。
着替えの時も、寝室から追い出されたことを思い返す。
でも、よく考えてみれば、あれは自分の配慮が足りなかったのかもしれない。
ハルトはたしかにに男だし……と、理子は少し恥ずかしくなり、申し訳なく思った。
それにしても……と、理子は考える。
今朝の出かけ間際、「いっしょに駅まで行こ!」と誘ったら、ハルトは素っ気なく「急いでるから。あと今夜帰り遅い」と言って、先に出かけてしまったのだ。
私、なにかしたかな……?
理子は宙を見つめて考え込む。
「ちょ、水、溢れてるよ」
聞き慣れた男のその声にハッとして手元を見ると、バケツから水が溢れていた。
慌ててジョウロの口を上げると、思わず声が出た。
「わー!ごめんなさい!」
謝ると、店長の中村佑介は人の良さそうな笑顔で言った。
「ハハハ、理子ちゃんらしいね!なにか考え事かい?」
「えへへ……ちょっと、うっかりしてました」
理子は照れ笑いをしながら花の世話を続ける。
でも心の奥では、今朝のハルトの様子がぐるぐると渦巻いていた。
ふと窓の外を見ると、人通りの向こう側で、黒いコートを着た人物の姿がちらりと目に入る。
スマホを手にしてこちらを見ていたが、理子に見られたのを気にしたのか、さっとどこかへ行ってしまった。
理子はあまり気にしなかった。
理子は結婚当初から、この花屋でパート勤務をしている。
自宅から自転車で15分ほどの場所にある店だ。
花の知識があるわけでも、特別に花が好きなわけでもない。
時給が良くて家から近いこと、そして店長の人柄が良かったことが理由だ。
数人いる幅広い年代の同僚とも仲が良く、楽しいパート勤務をしている。
幸い、ハルトのアパートからも近く、電車で20分ほどの距離だった。
「あらあら、理子ったら、今日はいいオーラが飛んでるわね~」
零した水を拭いていると、同僚の鈴原真澄が花を抱えてやってきた。
見た目は性別そのままだが彼はゲイである。
「このお花みたいに華やかなオーラよ!」
大袈裟に言った。真澄はスピリチュアルオタクでもあった。
「本当に見えるの?その華やかなオーラ」
両手でジェスチャーを加えて大袈裟に言ってみると、真澄は理子の顔に自分の顔を近づけて数秒じっと見つめた。
あまりに距離が近いので、理子は一歩引く。
「あらやだ。アンタ、キスしたでしょ?」
その言葉に理子は目を見開いてぱちぱちさせた。
「キス?」
間抜けな声が宙に舞う。
「そりゃするわよね~!アンタ、既婚者だものね!でも最近にはなかった、キスのオーラが出てるのよ!」
真澄の言うことに信ぴょう性はないが、そういえば昨日、キスをした夢を見たような記憶が蘇る。
理子は真剣な顔になって片手を顎に当て、記憶の端を手繰り寄せた。
相手は……修司で、10年前に挙げた結婚式の夢だった。
その中でキスをして…でもなんとなくリアルで、現実味を帯びていて。
本当に唇が重なったような………
そこでハッとする。
まさか、ハルトと?────
昼下がりのオフィス。
すこしの緊張感に包まれていた。
会議室のガラスの向こうに、ハルトの姿。
黒いスーツを着こなした高身長で姿勢のいい佇まい。整った顔立ちはどこか冷静だが、笑うと少年のような人懐っこさが滲み出る。
色気と無邪気さが同居するギャップのせいか、社内で女子社員から密かに人気があることを本人だけが知らない。
姉に振り回されて取り乱していた男には到底見えないのであった。
会議室では、プロジェクターの横に立ち、淡々と資料を説明していた。
「この施策の場合、初期投資は抑えられます。ただし回収までに約二年。短期で結果を出すなら、こちらのプランの方が現実的です」
指先でスライドを切り替える。
声は低く、安定している。無駄がない。
クライアントが頷く。
上司も何も口を挟まない。
──完璧だ。
少なくとも外から見れば。
質疑応答の最中、ふと視界の端に映る自分の手がわずかに強くリモコンを握っていることに気づく。
頭の奥に残るのは、昨夜の記憶。
───「修司……」
寝ぼけた声。唇の感触。
スライドを切り替えるタイミングが一瞬遅れた。
「三浦さん?」
クライアントの声で、ハルトは我に返る。
「あ……失礼しました」
すぐに表情を整え、淡々と説明を続ける。
そして会議は、何事もなかったかのように成功で終わった。
席に戻ると、隣の席の同期の相澤拓真が小声で言う。
「今日鋭いな。なんか怖いぞ」
「別に」
ハルトはパソコンを開いたまま答える。
理子は今頃、パート先で笑っているのだろうか。
それとも、まだ修司のことを考えているのか。
そんなことが気になった。
「なになに?彼女と喧嘩でもしたか?あれ?でもおまえ、彼女いないよな?できたか?ついにできたのか?」
お調子者の拓真は隣から身を乗り出して楽しそうに聞いてくる。
「うるせーな、仕事しろよ」
一喝するが、口元は思わず笑ってしまう。
拓真のようなお調子者は嫌いではないが、今はふざける気になれない。
「わかった、じゃあ今夜飲みいこーぜ、そこで聞く」
拓真は一方的に言って体の向きを直した。
ハルトは小さくため息をつき、集中しようとする。
でも心のどこかで、あの不意打ちのキスを思い返してしまうのだった。
修司の何がいいのか、ハルトにはわからない。
いかにも女を何人も泣かせてきたかのような軟派なイケメンで、ダメ男の素質もありそうな修司。
それでも、愛してると言われれば嬉しくなり、寝ぼけて名前を呟き、キスをしたくなる衝動に駆られるほどの男なのか───
ハルトにはどうにも理解できない、姉の闇である。
「すまないね、残業させてしまって」
中村祐介は申し訳なさそうに笑う。
「外はもう暗いね。気をつけて帰ってね。」
そう言われた理子は肩越しに振り返り、
「はい、お疲れ様でした!」
と人当たりのいい笑顔で言って頭を下げた。
車のライトとネオンが滲んでいるとはいえ、空はすっかり夜だった。
腕をまくって時計を見る。20時を少し過ぎていた。
理子は足を止め、バッグからスマホを取り出した。
ディスプレイの白い光が、暗闇の中でやけに明るい。
ハルトからの着信はない。
胸の奥が、ほんの少しだけ沈む。
もし本当に、ハルトにキスをしていたのだとしたら──
ちゃんと謝らなくちゃ。
仕事中も、ずっとそのことが頭から離れなかった。
いくら家族の絆があっても、ハルトとは血の繋がらない他人だ。
土足で心に踏み込んではいけない。
ちゃんと靴を脱いで、姉弟としての距離を保たなくてはいけない。
もっと姉らしく。もっと配慮しなくては。
ハルトはもう、1人前の男なのだから。
電車に揺られ、最寄り駅で降りる。
改札を抜けると、人通りはまばらだった。
昼間は見慣れた道も、夜になるとどこか心細い。
街灯の下、理子の足音がアスファルトに小さく響く。
そのとき──
背後に、もうひとつ足音が重なった。
誰かが後ろを歩いている。
一瞬、心強い気もした。
自分ひとりじゃない、という安心。
けれど。
理子がスマホを確認しようと立ち止まると、背後の足音も、ぴたりと止まった。
……え?
偶然かな、と自分に言い聞かせる。
再び歩き出す。
コツ、コツ。
また、重なる。
鼓動が速くなる。
理子は歩幅を速める。
背後の足音も、速くなる。
胸の奥がざわついた。思いきって駆け出す。
──足音も、走った。
角を曲がる。それでも、背後の足音は途切れない。
一定の距離を保ったまま、ぴたりとついてくる。
──間違いない、ついてきている。
確信した瞬間、背中がひやりと冷えた。
怖い。静かに息が上がる。
思い切って小さく振り返ると、視線の端で黒いコートを来た人物がチラリと見えた。
理子はすぐに向き直る。
昼間、花屋を見ていた人物と似ている。
そう思ったとき、視線の先に明るい光が見えた。
コンビニだ。
理子はほとんど駆け込むように、自動ドアの前へ走った。
その頃───
仕事を終えたハルトは、相澤拓真に半ば強引に連れられ、サラリーマンで賑わう居酒屋にいた。
油と煙の混じった匂い。グラスのぶつかる音。
あちこちから笑い声が上がる。
普段なら断っていただろう。
だが今日は、ちょうど良かったのかもしれない。
このままの気持ちで帰るより、少し酒で神経を鈍らせてから帰ったほうがいい。
そのほうが、無害だ。
理子にとっても。自分にとっても。
「今夜は遅くなる」
今朝そう言って家を出てきた。
だから、問題はない。
「で、なにがあった?苦楽を共にした同期だろ。教えろよ」
目の前で拓真がジョッキを傾け、豪快に喉を鳴らす。
恋してる姉にキスされた──
そんなこと、口が裂けても言えるわけがない。
「結婚してる姉がさ。旦那と揉めたらしくて、うちに転がり込んできたんだよ」
できるだけ感情を乗せずに言う。
姉が不倫されたことまでは話さない。
「それで、ちょっとペース崩されてるだけ」
淡々と付け足し、グラスに口をつける。
すると拓真の目が急に輝く。
「へえ、お前、姉ちゃんいんの!?何歳?かわいい?」
「食いつくところ、そこかよ。お前には関係ねーだろ」
ハルトは眉をひそめ、グラスをテーブルに戻した。
拓真は面白そうに笑う。
「なにそれ、過保護か?よっ、シスコンシスコン~!」
「うるせーよ」
ぶっきらぼうに返しながら、視線を逸らす。
守りたいのか。
それとも、触れられたくないだけなのか。
自分でも、よくわからない。
「人妻の姉か~、いいな~!」
まだ面白がって言っている拓真を横目に、ハルトは視線を落とす。
「10歳上で、血は繋がってねーんだ」
「は!?それってただの男と女じゃん」
「はぁ?」
あまりにも短絡的な言い分に、ハルトは呆れたように小さく笑った。
「ただの男と女がひとつ屋根の下って、やばいなお前。おいしいなお前!」
ふざけた口調のまま、拓真はにやりと笑う。
けれど、その目だけは妙に真剣だった。
たしかに───
ただの男と女。
ハルトにとっては、そうなのかもしれない。
だが、姉にとっては違う。
自分は所詮、弟だ。
修司の代わりにはなれない。
「そっかぁ、ハルトはその姉ちゃんのことが好きなんだな」
突然、核心を突かれ、ビールを飲んでいたハルトはむせた。
「っは?!俺、そんなことひとっ言も言ってねーだろ!」
「顔に書いてある。家帰る前に拭いて帰れよ」
拓真は見透かしたように笑う。
「あのなぁ──」
言い返しかけた、その瞬間。
ポケットの中で、スマホが震えた。
止まらない。
ゆっくり取り出すと画面に浮かぶ名前は─理子。
なんで今。謝るつもりか?泣いてるのか?
それとも、何もなかったみたいな声で話すのか。
出たら、また振り回される。
……無視するか。
ハルトの親指が、ほんの数秒、画面の上で止まる。
振動がやけに長い。
「ん?誰?出ねーの?」
拓真の声で、ハルトははっとする。
「あ、いや……」
視線を落とす。
スマホはまだ、震えている。
結局は放っておけない。
ハルトは自分でも呆れるが、通話ボタンを押した。
「もし──」
“もしもし”と言い終える前に、切羽詰まった理子の声が耳の奥に飛び込んでくる。
「ハルト!助けて!!」
「は?どうした?」
一瞬で、ハルトの表情が変わる。
「今、仕事帰りなんだけど……誰かにつけられてて……怖くてコンビニに飛び込んだの……」
途切れ途切れの声。
震えが、はっきりと伝わる。
「まだ外にいるかも……こわくて…アパートに帰れない……」
泣き出しそうな声音が、ハルトの心を強く刺激する。
さっきまでの迷いも葛藤も、全部どうでもよくなった。
「わかった。今行く。そこ動くな。電話も切るな」
ハルトは立ち上がり、バッグを掴む。
「悪い、拓真。帰るわ」
「お、おう……」
呆気にとられた拓真の声を背中で聞き流し、ハルトは足早に店を出た。
眩しいネオン街。夜風が頬を掠める。
ハルトは走って駅前のタクシー乗り場へ向かう。
まだ繋がっているスマホを耳に当てた。
「姉ちゃん? 大丈夫か?」
「う、うん……大丈夫。ハルトの声聞けて、安心した……」
さっきとは違う、胸を撫で下ろすような、少し落ち着いた声音。
それに、ハルトもわずかに息をつく。
「ごめんね、仕事中だった?」
「いや、大丈夫──」
言いかけて、少しだけ言葉を飲み込む。
本当は酒を飲んでいた。
本当は、さっきまで葛藤していた。
でもそんなことは、もうどうでもいい。
ハルトはタクシーに乗り込み、自宅近辺へ向かう。
「姉ちゃん、まわりに怪しいヤツいるか?」
「わからない……いなさそう。あ、でも……」
理子の声が一瞬止まる。
「え、なに?」
「怪しいヤツって言えばね…、昼間、パート先の花屋の通りの向こうに、黒いコートを着てスマホを持った人がこっちを見てたの。
あんまり気にはしなかったんだけど、ちょっと不審な感じだった…。私が目を向けるとどこかに行っちゃったの……。それで今、わたしの後をつけてた人がその人に似てて…その人も黒いコートを着てて…」
ハルトの視線が鋭くなる。
「黒いコートの男……」
頭の中で状況を組み立てる。
偶然か?それとも────
「わかった。コンビニから絶対出るな。俺が着くまで店内にいろ」
声が、さっきより低い。
タクシーは赤信号で止まった。
焦れたハルトは小さく舌打ちして、窓の外へ目をやる。
その時。
深くフードを被る黒いコートを着た人物がハルトの目の前を横切った。
足早に歩くその背中を、無意識に目で追った。
落ち着け…とハルトは自分に言い聞かせる。
黒いコートを着た人間なんて山ほどいる。
だが次の瞬間───
その男がふと立ち止まり、フードに手をかけた。
ゆっくりと、脱ぐ。
信号が青に変わり、タクシーは走り出す。
ゆっくりと流れ出す景色。
すれ違いざまに見えた、街灯に照らされた横顔。
───修司。
ハルトの呼吸が一瞬止まる。
ハルトは振り返り、窓越しにもう一度後方を確認する。
あの顔は修司に間違いない。
ハルトはゆっくりとおもむろにスマホを耳に当てた。
「……なぁ、姉ちゃん。さっき言ってた不審なヤツ、フード被ってたか?」
「…え? うん…たしかかぶってた、顔が見えないくらい深く。どうして?」
一致する。
花屋を見ていた不審な人物、理子がコンビニに飛び込む直前、後ろを振り返った時に見えた黒い影。
同じ格好をしていた修司──。
「……いや、なんでもない。」
ハルトは静かに低く、それだけ言う。
「え? 何? ハルト?」
「大丈夫だ。もう着く。」
ハルトはそれだけ言って通話を切った。
タクシーの窓に映る自分の目が、いつもより鋭く見える。
───少し、様子を見るか。
あいつが本当に修司なら、また動くはずだ。
ハルトの奥で、静かに何かが動き始めた。
家の近くのコンビニ前でタクシーが止まると、ハルトは足早にコンビニの中へ入った。
両手でスマホを握り、スナックコーナーで落ち着きなくうろうろする理子の姿があった。
理子がハルトに気がつく。
「ハルト!」
安心しきった顔でハルトに駆け寄る。
それはまるで、飼い主に再会できて尻尾をブンブン振って喜ぶ迷い犬のようだった。
「姉ちゃん、無事でよかった~…」
ハルトは理子の笑顔を見た瞬間、緊張感が解け力が尽きてその場にヘナヘナと膝を立ててしゃがみこんでしまった。
「ちょっと、大丈夫? ハルト?」
理子は驚いて、しゃがみ込むハルトを覗き込む。
「すげー心配した……姉ちゃんに何かあったらどうしようって」
まだ顔を上げないまま、ぼそりと呟く。
「大袈裟ねぇ!」
理子はケラケラと笑った。
「なんだよ、大袈裟って!」
ハルトが勢いよく立ち上がる。
その目は怒っているというより、必死だった。
「姉ちゃんがあんな泣きそうな声で電話かけてくるからだろ!」
「仕方ないでしょ!本当に怖かったんだから!」
すこし強気に言い返す理子のその顔にもう怯えは見えない。
「だったら警察にでも電話しろよ!」
ハルトはまだ怒り混じりの声だが、目は理子をじっと見つめている。
「そんなに大袈裟にする必要ないでしょ!ハルトがいるんだから!」
「はぁ!?俺をこき使うなよ!」
ハルトは思わず声を荒らげる。
「勝手にひとりで危ない目にあって、俺に頼んなよな!だいたいいい歳しても、まだそんな短いスカート履いてるから狙われるんだろ!」
「はぁ!?」
理子も声を荒らげ、心外だとばかりに目を見開いた。
「狙われたのはスカートのせいなわけ?!わたしのこの生まれ持った魅力のせいでしょ!?」
両手を広げて、反論する理子。
ハルトは呆れて笑う。
「魅力とか関係ねーだろ!姉ちゃんは隙があって無防備すぎるんだよ!」
「べつに隙があったって、ちゃんと守ってくれるハルトがいるんだからいいじゃない!あんたどうせ暇でしょ!」
理子は腕組みをして強く言った。
その偉そうな姿に、ハルトの眉がぴくりと動く。
「暇じゃねーよ!振り回すなよ!っていうか、なんで俺がこんなに姉ちゃんの安全気にしなきゃなんねーんだよ!今度怖い目にあったら警察に電話しろ!今からでも遅くねーよ」
そう言い切るとハルトはヒラヒラと片手を振りながら、くるっと向き直る。
理子に背を向け、そのまま歩き出そうとする。
「だから、いやよ!」
理子はそう言って、目を伏せた。
そしてそっとハルトに近づき、スーツの裾を指先で掴む。
「だって…ハルトがいい…」
理子のその一言で、ハルトの荒ぶった気持ちがすっとほどけた。
胸の奥がぎゅっとなる。
単純な男である。
思わず理子を抱き寄せたくなる衝動に駆られたが、どうにか抑えた。
「…わかった。とりあえず、今は俺がいるからもう大丈夫だ」
低く、でも優しい声でそう言うハルトの目は、ほんの少しだけ笑っていた。
理子は小さく笑い、ハルトの存在に安心する。
こうして姉弟喧嘩は幕を閉じ、二人の間に静かで優しい時間が流れ始めた。
コンビニを出ると、夜風が二人の頬を撫でた。
ふたり並んで歩きながら、夜の静寂を理子がそっと破った。
「ねぇ、ハルト…」
「んー?」
ハルトは遠くを見つめながらぶっきらぼうに答えた。
「わたし…もしかして、ゆうべ…」
理子はそこで言いにくそうに沈黙した。
その瞬間、ハルトは思い出した。
黒いコートの男騒ぎですっかり忘れていたが、今朝から昼間の間中ずっと、あの不意打ちのキスのことを考えていたのだと───
理子の言葉に、胸がざわつきはじめる。
「わたし…ハルトにキスした…?」
理子の声に、ハルトの心が一瞬高鳴る。
思い出したのか?それとも、意識があったのか?
ハルトは混乱しながらも、冷静を装う。
「……した。『修司』って呟いてた」
理子は気まずそうに笑った。
「ごめんね…変なことしちゃって…。完全に寝ぼけてしたことなんだけど…」
ふと、声のトーンが落ちる。
「私まだ…修司のことが忘れられないみたい…」
二人の間に冷たい夜風が吹く。
そしてハルトの胸が不穏に揺れる。
修司──
タクシーの窓越しに見たあの男の姿が、頭に鮮明に蘇る。
理子をつけ回していたのは、きっとあの男だ。
裏切った上に、恐怖まで与えてくる…
そんな男だと知ったら、理子はまた傷つく。
ハルトは事実を言えなかった。
だが、その代わりに……
「ったく。俺のファーストキス、返せよなー」
ふざけて不貞腐れたように言い、重い雰囲気を壊した。
すると、理子にふっと笑顔が戻る。
そして次の瞬間、ニヤリと笑った。
「ファーストキス~?へぇ~そうなんだ~!」
「んなわけねーだろ!俺27だぞ!」
ハルトは思わず声に出して言った。
理子がからかうようにくすっと笑う。
「え?でもハルト、女性経験なしでしょ?」
「んなわけねーだろ!俺27だぞ!って、さっきも言ったわ!」
二人の間のわだかまりが、まるで嘘のように消えた夜だった。
理子が眠った深夜。ハルトはベランダに出た。
柔らかい夜風に吹かれ、手すりに腕を預けながら遠くを見つめる。
──私まだ、修司のことが忘れられないみたい…。
理子の言った言葉が、頭の中で静かに反芻される。
ハルトは覚悟を決めたかのように、大きく息を吐く。
そして今度は手すりに背中を預けて寄りかかり、ポケットからスマホを取りだした。
昼下がり、スマホ片手に花屋を見つめていた黒いコートの男──
───もし、盗撮していたとしたら……
ハルトは直感に従い、スマホを操作する。
検索ワードを入れたり、偶然フォローもしていない匿名アカウントの投稿を辿ったり───
すると目に飛び込んできた。
理子が働く花屋の外観が写った数枚の写真。
そしてそれにいっしょに写る女の姿…。
顔は加工でぼやけているが、体型や雰囲気で間違いない。
───理子だ。
「なんだこれ……」
ハルトは絶句したのだった。




