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#01 姉ちゃんと同居!?


初めて執筆した作品です。

一話ごと、少し長いです。

拙い部分もあると思いますが楽しんでいただけたら

嬉しいです。




───ピンポーン



閑静な住宅街。アパートのインターホンの音が静まった深夜にやけに大きく響いた。


白石理子はすこし深刻な表情を浮かべていた。

キャリーケースの取っ手を握る手が少しだけ汗ばんでいる。


「……誰」


モニター越しの低い声。


「私。あんたのお姉ちゃん」


「……は? 姉ちゃん?」


三浦ハルトの声色が、はっきりと動揺に変わった。


「ちょっと話があるの。部屋に入れてくれない?」


わずかな沈黙。


次の瞬間、オートロックが解除される音がして、自動ドアが静かに開いた。




ドアの向こうから近づいてくる足音。

開いたドアの隙間から、室内の光がこぼれる。


──私の心にも、光が差せばいいのに。


「ハルト、久しぶり」


理子は、力なく笑った。


ハルトと呼ばれた青年の形の整った目は、わずかに見開かれている。


「ああ……なんだよ、突然こんな時間に……」


視線が、理子の横にあるキャリーケースへ落ちる。


「どうした、それ……」


「あんた、今付き合ってる人っている?」


「は? いねーけど……」


「じゃあよかった。おじゃまします」


するりと玄関に踏み込もうとした瞬間――


「ちょ、ちょっと待て」


反射的に伸びてきた腕に遮られ、理子はぶつかりそうになる。


「え、なんでそーなる」


ハルトは明らかに動揺している。


コンサル会社に勤め、一日にプレゼンを三本こなしたこともある“デキる男”が、突然キャリーケースを持って現れた姉ひとりに、完全にペースを乱されている。


理子は一度目を伏せた。

それから、ゆっくりと顔を上げる。


「……家出、してきたの。ハルトお願い、しばらく泊めて」


ふと、ハルトの視線が落ちる。

キャリーケースを握る左手。

薬指には、いつもあったはずの指輪はなかった。


咄嗟に、理子は手のひらでそっと隠す。

ほんの一瞬の動き。

そのわずかな仕草を見逃さなかったハルトは、何か言いかけたけれど、口を閉じる。


静かな沈黙。


「……入れよ」


低く、短く。


理子は小さく息を吐いて、玄関に足を踏み入れた。

ハルトは理子を招き入れると、静かに鍵を閉める。

理子は背を向けたまま、そっと口を開いた。


「修司、不倫してたの……」


眉を寄せ、ハルトは怪訝そうに呟く。


「マジかよ……」


理子は力なく、ふふっと笑った。


「私に魅力が足りなかったのかな……」


背中越しの言葉は、あまりに物悲しくて、かける言葉が見つからずハルトは沈黙する。


その空気を察して、理子はくるりと振り返り、笑顔を見せた。


「わたし、こんっなに可愛くてチャーミングなのにね!昨日だって大学生の男の子にナンパされたんだから!」


たしかに可愛い。家族という欲目を差し引いてもハルトは理子を可愛いと思っている。

小柄で童顔。センター分けにした艶のある黒髪は胸の上まであり、緩く巻かれている。

シワやシミのない白い肌は、30代後半とは思えないほど若々しかった。


ハルトは思わず、ふっと笑った。


「調子乗んな、ばーか」


「ひどい!不倫された姉に向かってバカとは何よ!」


理子はムッとしたかと思えば、すぐに目を伏せる。


「これでも……すっごく落ち込んでるんだから……」


姉の儚い姿を見て、ハルトの中で燻っていた気持ちがじわりと動き出す。


「じゃあさ……」


壁際に追い詰め、片手を壁につき、顔を近づけるハルト────


「俺が慰めてやろうか……?」


理子は驚いて目を見開く。


次の瞬間───ハルトの首に両腕を回し、情熱的なキスをした────


……というのは、完全にハルトの妄想である。


「ハルト?何ボーッとしてるの?キャリーケース運んでね」


落ち込む姉を見て妄想を膨らませてしまったうえに、しっかり現実では使われているハルトであった。



こじんまりとしたリビング。

理子はふたりがけのソファに腰を下ろす。


ハルトがキャリーケースを壁際に置くと、


「ハルト、とりあえずビール」


と、追い打ちがくる。完全に使われている。


やれやれと冷蔵庫を開け、缶を二本取り出すと理子に手渡す。

プシュッ、と小気味いい音が重なった。

二人は並んでソファに座り、同時に一口。

五臓六腑に染み渡る快感のため息を漏らしたあと、少しだけ沈黙が落ちる。


その静けさを破るように、理子が口を開いた。


「ねぇ、覚えてる? 私たちが初めて会った日のこと」


「何突然。忘れるわけねーだろ」


ハルトが小さく笑う。


「親の再婚。わたしが高校二年生で……ハルトが小学二年生、だっけ? あの頃のハルト、小さくて可愛かったな〜」


目を細める理子に、ハルトは照れたように鼻で笑う。


「うるせーよ。今でも可愛いわ」


「私が彼氏に振られて泣いてると……あ。わたし振られてばっかりだね」


情けなさそうに笑って、理子は息をつく。


「そうするとハルトがさ、“俺が姉ちゃん守るから泣くなよ”って言ってくれて……」


「そんなこと言ったっけ?」


ハルトは恥ずかしそうに片手で顔を覆う。


「うん。それがどんなに心強かったか……」


理子は缶を見つめたまま、ぽつりと続ける。


「血は繋がってなくても、不思議な縁だよね…」


「ディズニーランド行ったの、覚えてる?」


ハルトがそう聞くと、理子の顔がぱっと明るくなって隣に座るハルトのことを見た。


「覚えてる! あんたグーフィー見て泣いたよね。“グーフィーもっと可愛いと思ってた〜”とか言って」


理子はケラケラと笑う。


「でかくて怖かったんだよ。ガキの頃だったからな」


「せっかく来たのに、“もう帰る〜!”ってわんわん泣いてさ」


理子の笑いは止まらない。

そんな楽しそうな横顔を見て、ハルトはすこし安心する。


「あとさ、あんたよく私のあとくっついてきてたよね。友達と遊び行くの付いてきたり、合コンまで来ようとしてた」


「姉ちゃん抜けてるとこあるから子供ながらに心配だったんだよ。反対方向の電車乗ったーとか道に迷ったーとかしょっちゅうあったろ」


「それ今もある」


理子は恥ずかしそうに小さく片手をあげる。


「だろ?合コンも変な男に騙されないか心配で。ああいうの、飢えた男の集まりみたいなもんだからな」


「そんなことないわよ。修司とだって合コンで出会ったんだから」


言った瞬間、理子ははっとする。


「あ……」


さっきまで弾んでいた声が、そこで沈んだ。

修司の名前を出したことを、理子はすぐに後悔した。


理子は視線を落とす。

部屋の空気が、わずかに重くなる。


「まだ愛してんの?旦那のこと‥」


ハルトの問いに、缶を包み込んでいた理子の両手の指先にわずかな力が入る。


「わかんない‥‥大っ嫌いになれたらいいのに」


沈んだ言葉が2人の間に落ちる。


その時───


理子のスマホが鳴り始めた。


バッグからスマホを取りだして見るとディスプレイには『修司』の文字。


理子は悲しげな表情でしばし眺めている。


「旦那?」


ハルトの声でハッとする。


「うん…」


「噂なんてするもんじゃねーな」


ハルトが鼻で笑う。

静かな部屋に着信音だけが鳴り続ける。


「…俺が出てやろーか?」


姉のことが心配で過保護になってしまうハルト。

理子は心配かけさせまいと小さく笑う。


「大丈夫、自分で言う。」


通話ボタンを押す。


「もしもし‥‥もうかけてこないで。ふたりのこれからのこと考えたいから。」


そう言って一息つく。


「今はあなたの顔、見たくない。」


理子は静かに、きっぱりと言った。


ハルトは横目で理子を見ながらくっとビールを飲み干す。


わずかな沈黙。


「…今、ハルトの家にいるから。心配しないで」


ほんの少しだけ、言葉が───心が揺れた。


「じゃあね……」


通話を切る。


ふっと視線を上げると、ハルトと目が合った。

何か言いたげな顔をしている。


「なに?」


「……いや。居場所教えたら迎えに来るんじゃね? それとも来てほしくて言った?」


わずかに冷たい声だった。


「無駄な心配はかけたくないから教えただけよ」


「姉ちゃんを裏切ったんだぞ。心配くらい、させとけよ」


ハルトの口調が荒くなる。

理子は少しだけ目を伏せた。


「十年も一緒にいたの。情が……あるのよ」


ハルトは小さく息をついた。


「……わかった。じゃあ好きなだけここにいろよ。旦那とのこと、ゆっくり考えな」


投げやりにも聞こえる言い方だったが、声はどこかやわらかい。


理子は、その響きにほっとする。


「ありがとう、ハルト」


「おう」


短く答え、ハルトはわずかに笑った。

まっすぐな視線。

理子も小さく微笑み返し、立ち上がる。


「もう一本、飲みたいな」


夜は、まだ終わらない。


「おう。飲もーぜ。」


ビール片手に仲のいい姉弟の夜が更けていく。






誰かが亡くなっても、大金を失っても、最愛の人に裏切られても、朝はやってくる。


弟の、少し大きいベッドで目を覚ました理子は、まだ覚めきらない頭でぼんやりと思った。


夫の不倫が夢だったらいいのに、と。


愛されていなかったのだろうか。

そう考えると、胸の奥がすうっと冷える。


小さく首を振り、ベッドを降りる。

ひやりとした床が足の裏に触れた。

昨夜は気づかなかったが、床にはほこりひとつ落ちていない。

よく見ると寝室もきちんと整っていた。




キッチンからはコーヒーのいい匂い。

ハルトが淹れていた。


理子はハルトの高長身に似合う大きな背中が密かに頼もしく感じた。


「おはよ」


理子はまだ眠そうな声。

ハルトは振り向いて、思わず笑った。


「おう、おはよ。朝弱いの変わってねーな」


その言い方が昔と同じで、

理子の胸の奥がくすぐったくなる。


「ハルトは相変わらずきちっとした性格してるんだね、どの部屋も綺麗。」


理子はそう言いながら、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。


「真面目で綺麗好きが売りのA型だからな」


「へぇ。あ、わたしお砂糖……」


「2個、だろ?」


ハルトがニヤリと笑う。


「姉ちゃんが甘党なのも覚えてるよ」


「さすが。ありがとう」


理子がコーヒーカップを受け取ると、指先がハルトの手にほんのわずか触れた。

ハルトの指先から愛しさが溢れ出す。


その瞬間───ハルトは思わず理子の頬を両手で包み込み、優しくキスをした。

唇をゆっくり離すと、理子は目を見開いた。


「え‥ハルト‥今のなに‥‥」


ハルトは少し照れたように微笑み、低く甘く囁く。


「姉ちゃん甘党だから、砂糖より甘いキスの方がいいかと思って」


赤面した理子は俯き、そっとハルトの袖をキュッと掴む。


「……もっと…甘いの欲しい…」


その上目遣いが、ハルトの心を熱くさせる──



────という、妄想だった。


現実では、ハルトはただ静かにカップを手渡すだけ。

理子は気づかず、そっと息をついた。



「ねぇハルト、その格好…仕事なの?今日、日曜日なのに?」


ワイシャツ姿のハルトに気づいた理子が、軽く首をかしげながら聞いた。


「そっ、日曜出勤。今度のプレゼンの準備で。デキる男は日曜も忙しいんだよ」


ハルトは楽しげにふっと笑う。


「ふーん?ご立派ね。じゃあ私は買い物でも行ってリフレッシュしてこようかな~」


理子が腕を上に伸ばして背伸びをしながら言う。


「…なら、俺が付き合ってやろうか」


傷心している姉が心配で、ハルトは少し照れくさそうに言うが、目は真剣だった。


「えっ、いいの?荷物持ちくんがいてくれると助かる!」


その“荷物持ち”という言葉に、ハルトは少し引っかかる。


「また大学生の男にナンパでもされて、調子づかれても迷惑だしな」


憎まれ口を叩きながらも、ハルトの目は理子から離れない。


「もぅ、うるさいわね!じゃ、メイクして着替えてこよーっと!」


理子は不貞腐れながらもどこか楽しげに言って立ち上がる。

ハルトはやれやれと小さく笑い、コーヒーをひと口すすった。






「わぁ、日曜日はやっぱり混んでるわね」


街は賑わっていた。

若い子、カップル、家族連れ。ありとあらゆる年代が凝縮されていた。


「で、どこ行く?姉ちゃんの好きなとこ見て回ろうぜ」


「うん、ありが、と‥‥」


けれども、カップルや夫婦を見掛けると理子の胸がざわついた。


手を繋いで歩く男女。ともに左手薬指にはキラリと光る指輪をし、笑いあって仲睦まじそうに歩いている。なんだか落ち込む。


「どうした?」


様子がおかしい理子の顔を覗き込むハルト。


「ごめん。やっぱり帰ろうかな?カップルや夫婦を見ると落ち込む‥」


理子の視線の先にいる男女ふたり。

ハルトは察して、理子の手を握った。


「じゃあ今日は俺たちもカップルで」


「え?なにそれ」


理子は怪訝そうに眉をひそめたが、


「傍から見たら、そう見えるだろ?」


ハルトの優しげな顔とつながれたその手の温もりに、ふっと安堵し、自然と頬がゆるむ。


手元を見ると自分の手が、ハルトの大きな手に包まれている。

そしてスーツ姿のハルトを見て、理子は不覚にもドキッとした。


いつの間にこんなに大人になったのだろう。

グーフィーを怖がって泣いていたあの小さな子は、もうどこにもいない。





傷心している理子を癒すかのように、優しい時間がゆっくりと穏やかに流れていった。


洋服に雑貨、本、コスメ…


ハルトの持つショッピングバッグはどんどん増えていく。

途中で団子も食べ歩き、そしてカフェへ入って一息つく。


「あ~!楽しかった~!」


理子の明るい声に、ハルトも自然と笑みを浮かべた。


「姉ちゃん、買い物しすぎ」


「これぞ買い物セラピーよ。買い物はね、傷ついた心を癒してくれるの」


理子はドヤ顔でそう言ったあと、少し照れくさそうに付け加える。


「でも半分はハルトのおかげ。ありがとう」


その言葉に、ハルトも思わず照れ笑い。


「ところでハルト、そろそろ会社行かなくて平気?」


理子に促され、時計を見ると13時を回っていた。


「あー、そうだな。そろそろ行くか。姉ちゃん、1人で平気?」


「うん、もう大丈夫。ありがとう」


さっきまでの弱った理子はいなかった。


「あ、そうだ。これ、合鍵」


カバンから合鍵を取り出すと理子に渡した。

驚いた様子の理子に、ハルトは軽く笑う。


「鍵なきゃ部屋入れねーじゃん。失くすなよ」


理子も笑みを返して、小さく「ありがとう」と呟く。

理子は合鍵を大事そうに握った。


「今夜、帰り遅いの?」


「もしかしたら。連絡する」


「わかった、気をつけてね」


「おう」


ハルトが背を向けて去ったあと、理子はふと思った。

まるで恋人同士の会話のようだ、と。

思わずクスッと笑いが零れた。



そして、カラン‥とストローでアイスコーヒーの氷を弄ぶ。


それにしても、今日は楽しかった。

心がすっと軽くなったのは、間違いなくハルトのおかげだ。


そう、ハルト───


いつまでも可愛い弟だと思っていたのに、いつの間にか大人っぽくかっこよくなっていて驚いた。


少しの間、世話になるんだ。ハルトのために、何かしてあげたい。


「夕飯作って待ってようかな‥」


そう呟いたあと、理子は手元の荷物に目をやった。


「さて、1度帰るか‥」





重厚なドアの前で、理子は鍵穴に合鍵を差し込み、回す。


カチャン──無機質な音だが、今の理子にとっては嬉しい音だった。


弟の部屋とはいえ、合鍵を持たされていることが、なんだか誇らしく思えた。


玄関に入ると、荷物をドサッと下ろす。


「ふぅ」と小さく息をつき、


「よしっ、夕飯の買い物行こっと!」


そう意気込むと、再び外へ向かった。






今晩はカレーにしよう。

サラダとスープもつけて。

昔、ハルトはカレーが大好きだったから。


主婦の思考回路が、楽しそうに働き出す。


じゃがいも、にんじん、たまねぎにお肉、カレーのルゥ。

サラダはレタスとキュウリ、彩りにミニトマトも必要ね。

スープはコンソメスープにしようかな……。



思えば、こんなふうに誰かのために料理をするのは、理子にとって久しぶりのことだった。


夫である修司は、結婚当初は家で食事をしていたものの、数年もすれば「残業だから外で食べる」と家で食事をとらなくなった。


朝は食べずに出勤し、休みの日はひとりで出かけてしまう。

ここ数年、料理を作る隙もなかった。

そして、蓋を開ければ──不倫発覚。


逃げるように家を出てよかったのかもしれない。

今こうして弟のためにする料理の買い物をしている理子の口角はニコッと上がっているのだから。




ふふっ、ハルト喜ぶかなぁ──


大きな買い物袋を下げて歩く理子の足取りは、楽しい気分で軽やかだった。


しかし、その楽しさも束の間。

アパートの前で、見慣れた背格好の男の姿に目が止まる。


「…修司?」


眉をひそめ、口にするのも嫌そうに言った。

男は振り向くと一目散に駆け寄ってきた。


「よかった、理子。会いたかったんだ。会いに来たんだよ!」


修司はまくし立てるように言い、買い物袋で手が塞がった理子の手を握った。


「いやっ、やめて!」


理子は必死に手を振り払う。


「話がしたい。しないと帰らない」


修司は真っ直ぐ理子の目を見つめ、声に力を込めた。その瞳は汚れきった瞳に見えた。


理子は顔を強ばらせたまま、小さく「わかった」と呟き、しかたなく近くの公園へ歩き出した。






人気がまばらの公園。


シンボルの時計塔は午後3時を指している。

その下のベンチに、理子と修司は少し間を空けて腰を下ろした。


修司が静かに口を開く。


「悪かった。理子を傷つけることをして」


理子は視線を落としたまま、抱えていた買い物袋をぎゅっと握る。

胸の奥がざわつき、言葉がすぐには出てこない。


「理子に落ち度があったわけじゃないんだ。魔が差したんだ…本当にすまない」


修司は小さく頭を下げる。理子はちらっとその姿を一瞥する。


「変わるって約束する。もう傷つけない。俺のことを嫌いにならないでくれ!」


汚れた瞳が潤みを帯び、真っ直ぐ理子を見つめている。

理子は渾身の思いで答える。


「修司を信じたいけど…どうしても信じられない自分がいるの…」


過去の記憶が胸の奥を刺す。苦しい。


「愛してるんだ…理子を愛してる」


その言葉に、理子の心は強く揺れ、視線が修司に釘付けになる。

鼓動が早くなり、息が上手くできない。


「どうして…どうして今更そんなこと言うの…」


震える声で、やっと言葉にした。


「理子を失いそうになって気づいたんだよ。愛してる」


修司の声は静かだった。


「もう嫌、聞きたくない!」


理子は泣きそうになりながら両手で耳を塞いだ。

その拍子に買い物袋が崩れ、ジャガイモやにんじんが地面に転がり落ちる。


しばしの沈黙。


修司が静かに言った。


「とにかく、帰ろう」


「嫌…ひとりで帰って…わたしは帰らない。もう行って……」


震える唇で、理子はどうにか言葉を紡ぐ。

修司は諦めたように立ち上がった。


「また来るから…」


「もう2度と来ないで…」


理子は静かに強く言い放つ。

修司は無言でその場を後にした。


修司が去った瞬間、理子の大粒の涙が溢れ出す。

肩を震わせ、呼吸もままならない。




愛してる───


それが、理子が今一番欲しかった言葉だった。


でも、裏切られた後に得た真実。

そんなものは嬉しくもなんともないはずなのに、すこしだけ、ほんの少しだけ、嬉しい自分もいて嫌気がさした。

裏切らずに、素直に与えてほしかった。



涙が止まらないまま、バッグの中でスマホが震える。

ハルトからの着信だ。その音に、理子の胸はさらにざわついた。


こんな状態では、涙声で電話に出ることもできない。理子はそっとスマホをバッグに戻し、静かに泣き続けた。






姉に連絡がつかない。

ハルトはただならぬ焦りを感じていた。


19時半。

15時過ぎから3回電話をしたが出ない、折り返しもして来ない。


──何かあったのか?


心配性のハルトの胸がじわじわと騒ぎ出す。


アパートの前に着くと、急いでオートロックを開け、部屋がある3階まで階段で駆け上がる。

息を切らしながら玄関の前まで来ると、鍵を開けて玄関へ入る。

暗い玄関には昼間買い物をしたショッピングバッグが無造作に置かれていた。


「姉ちゃん!」


シーンと静まった室内。応答はない。

ハルトは一心不乱に靴を脱ぎ、部屋中を探し回った。


リビング、キッチン、寝室、浴室───

どこにもいない。

もう一度、電話をかけてみる。


コール音は鳴っているが、着信を知らせるそれらしい音はどの部屋からも聞こえてはこない。


キャリーケースは部屋の隅に置かれたままだった。

出て行ったわけではなさそうだ。


いや、いっそキャリーケースがなくなっていたほうがよかったのかもしれない。


「家に帰っただけだ」と、自分に言い聞かせることができたはずだから。


「どこ行ったんだよ、姉ちゃん…」


ハルトは髪をかきあげ、深く息を吐くと、もう一度靴を履いた。


迷う時間はない。

勢いよくドアを開け、外へ飛び出した。




外はもう暗い。

街頭やネオンが照らす街中をハルトは走って理子を探す。


昼間、賑わいを見せていた街中も、違う顔を見せている。人の気配はあるのに探している姿だけがどこにもない。


胸の奥のざわつきは止まらない。


その時、視線の先に姉らしき人物を捉えた。

黒髪のセミロング、小柄な後ろ姿。よく似ている。


「姉ちゃん…!」


走って行って思わず肩に手をかけた。


「え…?」


と、振り向いたのは全く知らない顔で、


「あ…すみません…」


人違いだった。


舌打ちを飲み込み、ハルトはもう一度、理子に電話をかけてみる。


長いコール音。やはり出ない。


ハルトは深く息を吸った。

そしてネクタイを緩める。


感情に任せて走り回っても仕方ない。

状況を整理する。


買い物袋は家に置いてあった。

ということは、一度は帰ってきている。

そしてスマホは持って出ている。


帰ったのに、また外に出た。

───誰かと会うため?


脳裏に浮かぶのは、ひとりしかいない。

修司。


もしあの男と会っていたとしたら。

話をするなら人目のある場所だろう。


カフェだと人が多すぎる。

感情的な話をするには向かない。


……となると。

ハルトの視線が、通りの先にある公園へ向いた。


あそこなら適度に人目がある。

それでいて、落ち着いて話せる。


「……頼むから、いてくれよ」


低く呟くと、ハルトは迷いなく公園へと走り出した。






夜の公園はひっそりと静まり返っていた。

人の気配はなく、いくつかの小さな街灯が頼りなく足元を照らしている。


ハルトは公園に足を踏み入れた瞬間、歩みを緩めた。


街灯の下のベンチ。

俯き気味に座る人影。

その横顔に見覚えがあり、胸の奥がわずかに緩む。


「……姉ちゃん」


近づいて静かに呼ぶ。

理子はゆっくりと顔を上げた。


その目は赤く、腫れている。

泣くだけ泣いた後の目だった。


ハルトは胸の奥が締めつけられるのを感じる。

だが、表情は崩さない。


「……何があった?」


そう聞かれて、理子は力なく笑った。


「あ……今夜、ハルトにカレー作ろうと思って買い物したんだけど……すっかりこんなに暗くなっちゃった。ごめんね」


理子はそう言うと視線を落とす。


よく見ると、ベンチの横に大きな買い物袋が置かれていた。

野菜が街灯の明かりに照らされ、淡く光っている。


「そうじゃなくて……」


ハルトの声が低く沈む。

次の瞬間、抑えていた感情が溢れた。


「心配したんだぞ!電話かけても出ねーし、部屋にもいねーし!何があったんだよ!」


理子の肩を強く掴む。


「なんで出ねーんだよ!どれだけ探したと思ってんだ!」


理子は一瞬驚いたように目を見開き、わずかに顔を歪める。


「ハルト……痛い……」


小さな声。

その一言で、ハルトの理性が引き戻される。

はっとして手を離した。


「……悪い」


視線を逸らす。


「修司と会ったの……」


理子が、ぽつりと呟く。


やっぱり───

ハルトは一度、宙を仰いだ。


怒りをそのまま顔に出さないための、ほんの数秒。

そして、静かに視線を理子へ戻す。

理子は俯いたままだ。


「話がしたいって会いに来たの……それで、公園で話した……」


ハルトは何も言わずに聞いている。

表情は硬いが、遮らない。


「すごく謝ってた。やり直したいって。

あと……」


理子は1度沈黙する。


「愛してるって言われた……」


その言葉のところで、理子の声がわずかに揺れたのをハルトは聞き逃さなかった。


夜風が、ふたりの間を抜けていく。

数秒の沈黙が流れる。


「……姉ちゃんは、なんて答えたの」


声は低い。

けれど、さっきのような荒さはない。

ただ、核心だけを問う。


「もう信じられないって言った……でもね」


理子は視線を落としたまま、小さく息を吐く。


「愛してるって言われて……すこしだけ嬉しかったの……バカだよね」


最後は、自嘲するような笑みだった。


夜の静けさが、やけに重い。

低い声が落ちた。


「……バカじゃねーよ」


理子が、はっと顔を上げる。

ハルトは理子の隣に静かに腰を下ろした。

さっきまでの荒さは消えている。


「欲しかった言葉なんだろ。それ」


責める口調ではない。

ただ、事実を確かめるような、落ち着いた声音。


理子はただ、目を伏せた。


「それで……姉ちゃんはどうしたいんだよ」


ハルトが未来を問う。


「帰ろうって言われたの……でも、帰りたくないって言った」


小さな声。けれど、はっきりしとていた。

理子なりの意思表示だった。

それでも、どこか迷いは残っている。

決意と未練が、まだ胸の中でせめぎ合っているようだった。


ハルトは一度、静かに息を吐く。

そして立ち上がった。


「じゃあ、帰ろうぜ」


重たい空気を一掃するような明るい前向きな声音。

理子はその言葉をゆっくり噛みしめる。


───帰る場所。

それはもう、あの家ではない。


ふたりの視線が重なる。


「…うん!」


自然と、理子の口元に笑みがこぼれた。




「あ、荷物。持ってやるよ」


ハルトは買い物袋をひょいと持ち上げる。


「え、ありがとう、重かったんだ~」


「……重っ!」


思わず顔をしかめるハルトに、理子は笑う。


「じゃがいもにニンジンにキャベツにレタス、お姉ちゃんの愛情がたっぷり詰まってるのよ!」


「じゃあそれが無駄にならねーように、帰ったらカレー作ろうぜ」


「いっしょに?」


「おう。楽しそうじゃん」


理子の心に、光が差した気がした。

胸がじんわりと温かくなる。

理子の心がこんなにも暖かくなったのは久しぶりだった。


ふたりは肩を並べ、公園を後にする。

さっきまでの重たい空気が嘘のように、他愛ない会話が夜に溶けていく。




その姿を、見ている影があった。

街灯の光の外側。

暗がりの、さらに奥。


修司は黙って立っている。

理子が笑った瞬間を、見ていた。


自分といるときには見せなかった表情。

隣に立つ、ハルトの姿。

その光景を無表情で見つめていた…。






「ねぇ、もっと適当でいいんだってば。きれいに剥きすぎ!」


理子は隣で、真剣な顔でじゃがいもの皮をむくハルトを見て笑った。


「姉ちゃんが適当すぎんだよ!だいたい俺のために作るカレーを適当に作るなって」


半分怒ったような口調。

でも、口元はしっかり笑っている。


「なによ、それ。愛情はちゃんと入ってますー」


「だったらもっと丁寧に入れろ」


ふたりのやりとりが、キッチンに弾む。

公園での重たい空気が、嘘のようだった。



鍋の中で炒められる玉ねぎの甘い匂い。

アパートのキッチンに、明るさが満ちていた。


「ねぇ、ハルトの初恋っていつ?」


突拍子もない理子の問いに、ハルトの包丁を握る手が一瞬ぶれた。


「は? なんだよ急に」


「ハルトが17になるまで一緒に住んでたけど、女の子の話はしたことなかったなぁって思ってさ」


玉ねぎを鍋に入れながら、理子は何気なく続ける。


「誰でもいいだろ」


ハルトはぶっきらぼうに言って、じゃがいもの皮むきに視線を落とす。


「いいじゃない、教えてよ。どんな子だったの? 同級生? 幼稚園の先生とか?」


少し間を置いて、悪戯っぽく笑う。


「あ……それとも、わたし?」


ハルトは動揺を隠せず盛大に包丁を握る手をブレさせて指を切ってしまう。


「イテッ、姉ちゃんが変な事言うから指切った」


ハルトが苦笑いを浮かべると理子が慌てて近づく。

ハルトの指先にうっすら赤が滲んでいた。


「大丈夫?冗談よ、冗談!」


「笑えねーって」


そう言いながらも、口元は少し緩んでいた。


ハルトはどこからともなく絆創膏を取り出し、指に巻くと、ふっと笑った。


「まぁ、ぶっちゃけるとさ、俺の初恋、姉ちゃんだよ」


理子が目を丸くする。


「え?」


「ガキの頃な。あんま覚えてねーけど」


さらっと言って、何事もなかったように鍋をかき混ぜる。


「まぁ、すぐ冷めたけどな」


「え、なにそれ」


「でっかいイビキかいて寝てる姿見てさ。子どもながらに幻滅した」


ハルトは意地悪っぽく笑う。


「ねぇ、それ恥ずかしい!」


理子は笑いながら、ハルトの腕を軽く叩く。


「姉ちゃんほんと隙だらけなんだよ」


「うるさい」


キッチンに、また明るい笑い声が広がった。







「おー、うまいな! すげぇうまい!」


ハルトはまるで子どもみたいに、無邪気な顔でカレーを頬張る。

その様子が懐かしくて、理子はふっと笑った。


ダイニングテーブルを挟んで向かい合うふたり。

食卓にはカレーとサラダ、スープがきちんと並んでいる。


さっきまで暗い公園にいたことが、嘘みたいだった。


「ハルト、変わらないね。昔もそうやって“うまい”って言いながらカレー食べてた」


「なんか好きなんだよな。家で作る、こういう家庭的なカレー」


スプーンを止めて、少しだけ真面目な顔になる。


「……落ち着くし」


ハルトの心の落ち着きが理子の心に伝染する。


落ち着く場所。帰る場所。

それが今、ここにある。


理子はスプーンを置いた。


「ありがとね、ハルト。置いてくれて、本当に感謝してる」


改まった言い方に、ハルトは少しだけ照れたように笑う。


「全然いいよ。頼ってもらえて嬉しかったし。……まぁ、最初姉ちゃんが来たときは正直テンパったけどな」


「慌てたんだ?」


ふふっと理子が笑う。


「そりゃあな。何年かぶりに会っていきなり“泊めて”だろ。心の準備ってもんがあるだろ」


「なによ、それ」


理子が小さく吹き出す。


「だってそうだろ。俺、独り身の男だぜ? いろいろ焦るだろ」


ハルトが冗談めかして肩をすくめる。


「へえ。なにが焦るの?」


理子がにやりと笑う。


「……いろいろだよ」


「ふーん、どこに隠してあるの?」


「ないしょ」


「健全な男で安心した」


理子が笑うとハルトもつられて笑う。

ふたりの笑い声が楽しそうに響いていた。





シンと静まり返った、薄暗いリビング。

リビングと廊下を繋ぐドアの飾りガラスから、廊下の明かりがかすかに漏れている。

遠くの浴室からのシャワーの水音だけが響いていた。


理子はソファでうたた寝をしていて夢を見ていた────


純白のドレスに身を包み、凛と立つ自分。

黒のタキシードを纏った修司が、まっすぐこちらを見つめている。


大切な人たちに見守られながら、牧師の前に立つ。


愛を誓い合い、指輪を交わす。

これから始まるはずだった、幸せな未来。

疑いもしなかった永遠。


祝福の拍手。

鳴り響く鐘の音。

降り注ぐ光。


甘く、あたたかく、満ち足りた世界。


───そんな夢の中に、理子はいた。




風呂から上がったハルトが、髪を拭きながらリビングへ戻ってきた。

ソファで丸くなっている理子に声をかける。


「姉ちゃん、風呂あいたぞ」


応答はない。


「姉ちゃん、まじで寝てんの?」


近寄って顔を覗き込むと、無防備な寝顔がそこにあった。

寝息をたてて気持ちよさそうに眠っている。


「…ったく。かわいい顔して」


小さく呟き、クローゼットから毛布を取り出す。


「風邪ひくなよ」


そっと体にかけた瞬間、


「…ん……」


寝息混じりの声。


「あ、姉ちゃん起きた?」


顔を覗き込んだ、その時。

理子が薄く目を開け、掠れた声で呟く。


「修司……」


次の瞬間────


理子の顔が近づき、

柔らかな唇が、ハルトの唇に触れた。


ほんの一瞬。

ハルトの思考が、止まる。


理子はすぐに力を抜き、

何事もなかったかのようにソファへ沈み、また静かな寝息を立て始めた。


ハルトは、しばらく動けなかった。

唇に残る感触を、無意識に指でなぞる。


「……は?」


眉を寄せてこぼれた低い声は、

眠り続ける理子には届かなかった。



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