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#08 すれ違う心



その朝は、毎日と変わらない日常のようなのに、ハルトの心はまるで違っていた。


玄関先で靴を履き、振り返る。

小さな笑みを浮かべた理子が立っていた。


「いってらっしゃい」


パートへ行く時間が遅い時や休みの日は、いつもこうしてハルトを送り出す。


いつもなら「おう」と言って出かけるハルトだったが、今朝は違った。


暗い表情を浮かべて、理子を見つめたまま動かない。


「本当に出てくの…」


「うん。」


短い返事だったが、理子からは躊躇いも迷いも感じられなかった。


「どこ、行くの…」


ハルトは気になって仕方がない。


「友達のところ…それからどこか部屋探す」


「連絡…くれる?」


「そのうちね」


別れの空気に耐えきれず、ハルトは目を伏せた。


「姉ちゃん…俺……」


そう言うとハルトは小さく息をつき────

理子を抱きしめた。


「……ハルト?」


ハルトは、戸惑う理子の髪に顔を埋める。


「行かせたくない……もう会えなくなるみたいで…スゲーやだ…」


「大袈裟ね、あんた…。家族なんだから…永遠の別れじゃないわよ」


ふっと笑いながらもどこか弱々しい理子のその言葉に、ハルトの胸が少し和らいだ。


こういう時は姉弟という関係に、ハルトは心を救われる。


「あー。俺、ダセーなー……」


埋もれすぎていて声がくぐもっている。

ハルトはギュッと抱きしめてから、名残惜しそうに体を離した。


「姉ちゃん…俺……姉ちゃんのこと、諦める努力するよ…」


目を伏せるハルトの顔には切なさが滲んでいた。

顔を伏せていた理子は一瞬、物悲しい表情を浮かべた。だが、ハルトを見つめると、明るく笑ってみせた。


「ハルト。いろいろありがとう。」


「……おう。」


いつものようにハルトは、口の端で小さく笑い、玄関の扉のノブに手をかける。


「じゃあ、いってきます」


それはいつもの日常のように。

理子はハルトの背中を見送った。






オフィスには様々な音が溢れていた。

コピー機の音、パソコンのキーボードを叩く音、人々の話し声。

なのに、パソコンと向き合うハルトの耳にはほとんど何も入ってこなかった。


「おっはよー、ハルト」


隣から声がして振り向くと、朝から機嫌が良さそうな拓真がデスクにカバンを置き、椅子に座ろうとしていた。


「いやぁ、昨夜さぁ、ミチルちゃんが帰りたくないってすがるもんだから俺困っちゃって。結局またお泊まりよ」


だらしなく鼻を伸ばした拓真の笑顔は止まらない。

ハルトはキーボードから手を離すと、睨むように拓真を見て立ち上がった。


「拓真。ちょっと来いよ。話がある」


普段よりも一段と低い声に、拓真の笑顔は嘘みたいにすっと消え、怯えたのだった。




「姉ちゃんに俺の気持ちバラシやがって。そのせいで出てくことになったんだぞ!どういうつもりだよ」


誰もいない休憩室の扉を閉めたと同時に、ハルトは拓真に向かって牙を向いた。


「ああ、あれな…悪かったよ。」


そう言いながら拓真は悪びれもなく笑う。


「つーか、お前が告ったって言ってたから、理子さんも知ってるもんかと思って。告ったんじゃねーのかよ?」


「あれは……」


ハルトは恥ずかしそうに口元を手で覆い、視線をそらした。


「婚活してる姉ちゃん見てたらちょっと感情的になったんだよ…それで……」


「あー。嫉妬して思いの丈ぶちまいたのか」


拓真はニヤニヤとハルトを見た。


「ハルちゃん、嫉妬深いでちゅねー」


「茶化すな」


ハルトは拓真をギロリと睨んだ。


「で、なに。お前から好きってちゃんと伝えたのかよ?」


拓真はコーヒーマシーンに紙コップをセットした。スイッチを押すとコーヒーマシーンが低い音を立て始めた。


「ああ…。自分は姉だから、弟の俺の気持ちには応えられないって……。ハルトの気持ち知ってていっしょにはいられないって……」


ハルトは目を伏せた。


「でもおまえ、諦めるんだろ?」


「……諦めきれねーよ」


ハルトは吐き捨てるようにポツリと呟いた。

小さく息をつく。


「姉ちゃんには諦める努力するって言ったけど…。フラれても何があっても、一生諦めきれねーよ」


その言葉には、強い気持ちが込められていた。


「往生際の悪りー奴だな。姉ちゃんも出て行っちまうことだし、諦めて次行けって」


注ぎ終わったコーヒーを手にした拓真は、ハルトの横に並びハルトの肩に手を回した。


「来週、合コンやるから、お前も強制連行な。30代の丸の内OLだって。いい響き。年上のお姉様方だぞ、お姉様方」


拓真は盛大に鼻の下を伸ばした。


「はぁ?行かねーよ」


ハルトは思いきり顔をしかめ、冷めた目で拓真の手を振り払った。


「ミチルちゃんに怒られるぞ」


「内緒内緒、バレねーって。」


拓真は真剣な顔で、ハルトの肩にポンと手を乗せる。


「女を忘れさせてくれるのは、女だぞ。ハルト」


名言でも言うかのように言って、拓真はコーヒー片手に休憩室を出ていった。


ハルトは拓真の背中を、視線だけで見送った。


合コン……。

ハルトはその言葉に、ほんの少しも心を揺らさなかった。







ほんの少しの間、暮らしていただけなのに。


ダイニングの椅子に座り、マグカップを両手で包み込むように持ちながら、理子は名残惜しそうにリビングやキッチンを見渡した。


押し掛けたその夜に一緒にカレーを作って食べたこと。楽しく朝食を囲んだこと。

リビングのソファでネクタイを渡したこと。指輪を貰ったこと。

そんな思い出がふっと蘇った。


静かにマグカップを置く。

小さく息をつき、立ち上がった。

玄関脇に置かれたキャリーケースを持って、靴を履く。

一度振り返ってからドアのノブに手をかけた。

外へ出ると、合鍵を鍵穴に差し込んで鍵をかける。ガチャッという重たい音は、理子の心にもかけた鍵音と重なった。

ドアも心も、もう開けてはいけない気がした。

理子はその鍵をポストに入れて、ハルトのアパートを後にした。







「明子、ごめんね。急に押しかけちゃって」


理子は申し訳なさそうに言って、ゆっくりとソファへ腰を下ろした。

目の前の散らかったテーブルに、コトッと缶ビールが置かれた。


「全然いいわよ。独り身だし。たまには賑やかなのも悪くない」


明子は仕事帰りのスーツのまま隣に座り、手に持っている缶ビールをプシュと音を立たせて開けた。

豪快に喉に流し込む。


「ッハー!仕事終わりのこの1杯ために生きてるわー!」


背もたれに体を預け、満足そうな声音で言う明子を見て、理子は小さく笑った。


「…で、どうしたのよ突然。しばらく泊めて欲しいなんて。ハルト君と喧嘩でもした?」


明子の声のトーンが落ち着きに変わった。

理子は少しだけ視線を落とした。


「……実は…ハルトが私に…好意を寄せてて…」


「えっ!?なにそれ!」


明子は目を丸くし、思わず理子の方へ前のめりになった。


「告白されたの……昔からずっと好きだったって……」


理子は一呼吸おいて、俯いた。


「びっくりした…。それで…このまま一緒にいたらいけないと思って出てきたの……」


「え……理子はなんて返したの?ハルトくんのこと好きなの?」


「ハルトの気持ちには応えられないって言った…私はお姉ちゃんだからって……」


明子はビールをテーブルに置くと、両手で理子の顔を包んで、グイッと自分の顔へと寄せた──


「え?ちょっと、なに!?」


明子は、驚いて見開かれた理子の目を真面目な目でじっと見つめる。

黒目と黒目のぶつかり合い、理子はパチパチと瞬きをした。


「あんた…ハルトくんのこと……」


理子は息を飲む。


「好きなのね!?」


明子の顔がデレッと緩み、理子の顔は赤くなった。


「は!?」


明子は理子の手を離すとまたビールを飲んだ。


「なんだー、両思いなんじゃない。だったらなんで素直に言わないのよ」


「べ、べつに、す、好きなんかじゃないわよ!か、勘違いしないでよ」


理子はしどろもどろに早口で言い、テーブルの上の缶ビールに手を伸ばした。

プシュ、と音を立てて開けると、そのままグッと煽った。


「だってあんたの目がそう言ってる。態度も。」


明子の見透かすような視線に、理子は目を伏せて黙った。


「しばらく置いてあげるんだから、白状しなさいよ」


それでも黙ったままの理子に、明子は呆れたように小さく息をついた。


「ねぇ。私たち、高校からの友達でしょ。……私に嘘つかないで」


明子は理子の手にそっと自分の手を重ねた。

味方だから────そう言うように。

理子の心が絆されていく。


理子は視線を伏せたまま、どこか穏やかな表情でゆっくり口を開いた。


「……うん。ほんと言うと……好き。姉弟としてじゃなく、ハルトのことが好き。」


「なんでハルト君にそう言わなかったの?」


「わからないのよ…境界線を超えていいのか。だって、血の繋がりはなくても、姉弟として何年も一緒に過ごしてきたから……」


理子の表情が少しずつ、戸惑いの色に変わる。


「他人なんだから、超えても問題ない思うけどな~。」


明子は宙を見つめながら、背もたれに沈んだ。


「…うまくいかなかったら?家族なのよ?この先、気まずいじゃない……。年の差だってあるし……。付き合って、それを感じたハルトが、“やっぱり無理”って、そう思うかもしれない……」


そこまで言うと、理子はビールをひと口飲んだ。


「ハルトと気まずかったり、自分を否定されたり…わたしそんなの耐えられない……」


ビールを持つ理子の両手の指先に、わずかな力が入った。


「臆病者ー」


明子は口元に手を添え、からかうように言った。

理子は、フン!とそっぽを向いた。


「じゃあさ、気分転換に合コン行こう!」


「合コン…?」


理子は不思議そうな顔で反芻した。


「そう。仲間内でそういう話が出てんのよ。理子も参加してよ。30代のいい男達らしいわよ」


明子は最後の1滴まで飲み干すようにして、残りわずかのビールを煽った。


「新しい男見て、頭をリセットさせるの。ハルト君には悪いけど、普通に恋愛できる人が現れるかもしれないでしょ?」


そう言って立ち上がると、明子は背伸びをした。


「さ、シャワーしてよこーっと」


そう言って明子は理子に背を向けたが、「あ…」と短い言葉をこぼして向き直った。

明子は真剣な顔で、理子の肩にポンと手を置く。


「男を忘れさせてくれるのは、男よ。理子」


名言でも言うかのように言って、明子はリビングを出ていった。


理子は明子の背中を、視線だけで見送った。


合コン……。

理子はその言葉に、ほんの少しだけ心を揺らした。






「ただいま…」


暗闇でぽつりと呟いたハルトの言葉は、宙に彷徨い消えていった。

明かりも音もない、寂しさが露呈する部屋。

慣れていたはずなのに。それが当たり前だったのに。

誰もいないことが、こんなに寂しいなんて。


靴を脱ぎ部屋に上がる。

暗闇の廊下を歩いてリビングに入ると、電気をつけた。

パッと明るくなった部屋はいつもと何も変わらない。理子の姿がないだけで────。


ふとダイニングのテーブルに目をやると、マグカップがぽつんと置かれていた。

近づいてみると、理子のものだった。

椅子も少しだけズレていた。

それはズボラな理子が、いつもしていたことだったが、朝見た時のズレ方とは違っていた。

家を出る前にここへ座って、このマグカップで何か飲んでいたのだろうか……

ハルトは理子の余韻が残るその椅子を引き出して、ゆっくりと腰を下ろした。

苦悩した表情を浮かべ、手のひらで額を抑える。


言わなきゃよかった─────

ずっと、心に秘めておくべきだった。


ハルトは目を閉じると、自分を呼ぶ、愛しい声が聞こえた気がした……。







筆記体の赤い字でLOVERSと書かれた看板が掲げられたその店は、 賑わう夜の街の中でひっそりと店を構えていた。


ビルの2階に佇む、大人の雰囲気漂うイタリアンレストラン。


赤を基調とした店内は、オレンジ色の照明に照らされ、グラスの触れ合う軽やかな音があちらこちらからあがっていた。

スーツを着た若いサラリーマンやOLたちが、仕事終わりの開放感に身を任せていた。


「いや~、皆さんお綺麗で。テンションあがるな~!」


拓真はそう言って、たった今、乾杯し終えたワイングラスに口をつけた。


「店も雰囲気良いし食事も洒落てる」


対面型の、8人がけの長テーブルに7人が集まっていた。

彩り豊かなサラダやおいしそうなカルパッチョが丁寧に並べられていた。


「それよりいいんすか、そちらまだ揃ってないのに始めてしまって……」


端に座る拓磨が、反対の端の椅子がぽっかりと空いているのを見て言った。

赤いレザーのシートがライトに照らされ光っていた。


その隣に座る佐藤明子は、ビールを飲むようにワインを煽ってから、グラスの口元を指先でさりげなく拭った。


「ええ。ちょっと遅れてるみたい。先に始めてましょ」


「いやいや、それにしても今夜は楽しい夜になりそうだな~!そう思うだろ、ハルト」


拓磨が弾んだ声音で言い、ハルトを腕で突っついた。


「……ハルト?」


明子が反応すると、ハルトは不思議そうに明子と目を合わせた。


「あ。ごめんなさい。友達の弟と同じ名前だったから」


明子の言葉にハルトの胸の奥が引っかかった。

何かを感じ取り、一瞬目を伏せた。


「ん?ん?世間て狭いな」


拓真は、明子とハルトの顔を交互に見てそう言った。


「あの、その友達って────」


ハルトが顔を上げて言いかけた、その時だった。


「遅れていたお連れ様がいらっしゃいました」


空いている席の方にウエイターが現れる。

その隣に立っていたのは───理子だった。


思わず、ハルトの息が止まる。


コーラルピンクの膝丈ワンピースを、白の短めのカーディガンと合わせて上品に着て、まとめた髪がうなじをすっきり見せていた。


理子もまた、驚いた様子でハルトを見つめている。

ウエイターは一礼すると、足早に去っていった。


「え、理子さん?」


目を丸くしている拓真の隣で、ハルトは驚いて言葉を失っていた。


「ハルト……拓真くんも…」


理子は立ち尽くしたまま言った。


「拓真、お知り合い?」


空いた席の前に座っている爽やか風イケメンが、拓真に向かって聞いた。


「俺の姉です」


ハルトが静かに答えた。

久しぶりに聞いたハルトの声に、理子はすこし心が解された。


「え、お姉さん?」


爽やか風のイケメンが理子に視線を向けると、理子は愛想笑いを浮かべて小さく会釈した。


「理子、座りなよ」


明子が促すと、理子はハルトから目を逸らしてゆっくりと腰を下ろした。


「ねぇ、理子、ハルトくんさ、」


明子が小声でコソッと耳打ちする。


「めちゃくちゃかっこいいじゃない!あのフェイスライン、最高!」


理子は、興奮気味に言う明子を呆れた様子で見て、小さく息をついた。


「あれ~?でも理子さん、丸の内のOLさんじゃないっすよね」


拓真が気まずそうに言うと、明子が口を挟んだ。


「一人、欠員が出たから私がこの子を誘ったんです。丸の内ではないですけど、もともとはOLだったので大目に見てください。」


「そういう拓真くんも30代じゃないでしょ」


理子は負けずに言い返すと、拓真は毅然と返した。


「そうっすよ、30代よりも若い27ですよ。ピチッピチですよ。なぁハルト、俺らは旬の27歳!文句ありますか~?」


ワイングラスを持つハルトの首に腕を回し、ハルトを巻き込んだ。

ふたりの前に座る女性陣が思わず笑う。


「拓真……、離せって」


ハルトのワインがグラスの中で傾いた。


「僕は39歳。瀬戸文哉といいます。仲良くしましょうね、理子さん」


そう名乗った爽やか風イケメンは、ワイングラスを手に取って、理子の前に小さく掲げた。

理子は恥ずかしそうにワイングラスを手に取ると、グラス同士をチン…と軽く合わせた。


ハルトはその光景を一瞥して、ワインをひと口飲んだ。






大人たちの夜は盛り上がりをみせていた。

向かいの相手と目を合わせ、酒を飲み、食事をしながら言葉を交わす。

ハルトもそうだった。

「水島塔子、30歳です」と自己紹介をして向かいに座る、黒髪をハーフアップにした清楚な女と、それなりに楽しく話していた。


それでも、理子のことが気になって、塔子の目を盗んではそちらをチラチラと見ていた。

当の理子は、文哉と楽しそうに笑いあっているのだが。


すると────。


「ハルトさんは?」


「え?」


理子に気を取られて塔子の質問の意味がわからず、ハルトは聞き返した。


「趣味、なにかありますか?」


「あ……部屋の掃除とか…かな」


「そんな感じする。清潔感に溢れていますもんね」


塔子がそう言った時、理子が席を立ったのを視界の端で拾った。

化粧室の方へ歩いていく。


「すいません、ちょっと…御手洗行ってきます」


ハルトも立ち上がった。







フロアから死角になったところで、化粧室へ向かう理子の背中に近づいて腕をのばした。


「姉ちゃん!」


ハルトはそう言って、理子の腕を強く掴んだ。

理子は立ち止まり、思わず振り返る。


「ハルト……」


「……何してんだよ。」


ハルトは手を離し、すこし冷ややかな目で理子を見た。


「俺の気持ち知ってて合コンで男漁りかよ」


「漁ってないわよ!」


理子はすかさず言い返した。

そして平静を装って、目を伏せた。


「……べつに私たち、付き合ってるわけじゃないんだからいいでしょ」


一瞬、沈黙が流れた。

気まずそうに、理子が口を開いた。


「ハルトこそ……私のことはもうすっかり忘れて次の女探し?あんた年上好きね~」


呆れた口調で言うとハルトはムッとした。


「うるせーよ、そんなんじゃねーし。拓真に無理やり連れてこられてんだよ」


「わたしだって明子に……」


そこまで言って理子は口を閉じた。

そしてまたゆっくり話し始める。


「今、明子のところに居るの……。高校の頃からの友達。」


また、ふたりの間に沈黙が落ちる。

今度はハルトがそれを破った。


「姉ちゃん……俺……」


「ハルト。これでいいと思う。」


ハルトの言葉を遮って、理子が言葉を重ねた。


「普通の相手、探そ」


理子の瞳には拒絶の色が滲んでいた。

ハルトは目を逸らした。


「……おう。俺も、もう完全に諦めるって言おうとした。だから姉ちゃん、俺に構わず好きに恋愛しろよ」


ぶっきらぼうに言って、ハルトは静かにその場を離れていった。


理子は何かを言おうと小さく口を開いたが、すぐに閉じて化粧室へ入っていった。








────これでいい。これでいいの。


理子はその言葉を何度も心で繰り返して、席へと戻った。

それでもハルトが気になってしまう。

椅子に座りながら、そっとそちらに目をやった。

すると────ハルトと目が合った。

互いに慌てて逸らす。

理子は小さく息をついた。


「それで、さっきの話の続きですけど…」


瀬戸文哉は、持ち前の甘いマスクで微笑んだ。


「理子さんはどんなお仕事をされているんですか?」


理子は嘘を言おうか一瞬悩んで口をつぐんだが、正直なことを話した。


「……今は花屋でパートをしています」


「へぇ。お綺麗な理子さんにお似合いですね」


瀬戸はサラリと言った。


「以前はOLをしていたんですけど、結婚して辞めてしまいました。それで花屋でパートを」


「え、ご結婚されているんですか?」


瀬戸が思わず驚いた表情を浮かべて言った。


「いえ、離婚しています。バツイチなんです……すみません」


なんとなく悪い気がして、理子は謝ってしまった。


「謝ることではないですよ。少し驚きましたけど。それじゃあ今日は出会いを求めて?」


瀬戸はワインをひと口飲むと、カルパッチョを箸の先で丁寧に掴んだ。


「はい…まぁ……」


理子もワインをひと口飲んだ。

甘くて酸っぱい口当たりが心地よかった。


「理子さん、お酒は飲める口ですか?」


「ええ、大好きです」


「じゃあ、この後よかったら……」


瀬戸は前のめりになって片手を口元に添えた。

つられて理子も、前のめりになって顔を近づける。至近距離にドキッとする。


「ふたりで飲み直しませんか?」


瀬戸は小声で言って、理子をジッと見つめた。

理子は照れ笑いを浮かべながらコクリと頷いた。



諦めると言いつつも、その一部始終を目で追っていたハルトは、大きく息をついた。


「あ、ごめんなさい、つまらない話でしたよね」


水島塔子が申し訳なさそうな顔で謝った。


「えっと……」


塔子の話を集中して聞いていなかったハルトは、急いで言葉を探した。


「私と妹の話、ハルトさんには退屈ですよね。すみません」


「あ、いや、そんなことないです。すみません、ちょっと深呼吸したくなって」


ハルトは、大きく息を吸って吐いた。

塔子は口元に手を添えてクスッと笑った。

その女性らしい仕草に、ハルトはすこし心をくすぐられた。


普通の相手────。

家族じゃなくて見知らぬ他人。

こういう事なのだろうか。


「あの、ハルトさんはお姉さんと仲良いんですか?」


「あ……いや……」


言葉に詰まった、その時だった。


「仲良いっすよ~、こいつね、シスコンなんですよシスコン!」


酔っ払った拓真がハルトの首に腕を回してきた。


「姉ちゃんのことが大好きなんです!ひとりの女として!もう愛してやまないくらいに!」


声が大きくなり、理子と瀬戸にまで聞こえてしまう。理子は固まった。

瀬戸はハルトたちの方を見た。

明子も、その向かいに座る男も、拓真の向かいに座る女も。

塔子も驚いたようにハルトを見つめていた。

一同の視線がハルトと拓真に集中した。


ハルトは慌てる気持ちを押し隠し、一同に向かって口を開いた。


「あ、そんなことないっすよ、ほんとに。姉ちゃんとは普通です。べつに……特別な感情とか、そういうのじゃないです」


苦笑を浮かべて拓真を引き剥がす。


「こいつ、酔っ払ってるんすよ」


「いや、俺は酔ってない!」


拓真はハルトにしつこく絡んだ。


「ハルト、堂々と胸を張れぃ!いいじゃねぇか、姉ちゃんのことが好きでも!血の繋がりはねーんだから!」


テーブルが騒つき始める。


「拓真、もう黙れって。お前どんだけ飲んだんだよ」


ハルトは拓真の口を抑えようとするが、なかなかうまくいかない。


「姉ちゃんには諦めるって言ったみてーだけど!フラれても何があっても一生諦められねーって、俺にそう言ってただろーが!シスコンを貫け!」


拓真はそう言い切ると、力が抜けたように背もたれに倒れ込み、眠ってしまった。


ハルトは一瞬、口元を手で覆い、小さく息をついた。


テーブルが水を打ったように静まり返る。

店内の賑わいだけが、やけに遠くから響いていた。


理子はもう、平常心ではいられなかった。

また、拓真の口から聞かされたハルトの気持ち。

それは理子の胸に大きな爪痕を残した。


どうしていいかわからない。

そんな表情を浮かべていたのを、瀬戸は間近で見ていた。


「そろそろ、お開きにしましょうか」


そう言ったのは明子だった。

ほかの男女も、うんうんと頷いて帰り支度を始める。


ハルトは動けず、生気の抜けた顔でぼんやりしていた。


傷口を隠していた絆創膏を剥がされた。

強がって吐いた言葉の裏に隠した気持ちを、あっけなく拓真にさらけ出されてしまった。

姉を好きだということも、このテーブルの全員に知られてしまった。


「ハルトさん、私、帰りますね。今日は楽しかったです。さようなら」


淡い恋の期待を抱いた塔子は、足早に店を出て行った。


理子は俯くハルトを心配そうに見ていたが、


「理子さん、行きましょう」


そう瀬戸に手を引かれ、足早に、店の外へ連れ出されてしまった。


続々と帰っていく。

テーブルには眠りこける拓真と呆然とするハルト、そして明子だけになった。


明子はハルトの向かいの椅子に座り直した。


「ハルトくん」


名前を呼ばれ、ハルトは我に返った。

ハルトの視線が明子を捉えた。


「理子はあなたのこと好きよ。弟としてじゃなく、特別な感情で。そう言ってたわ」


明子は落ち着いた口調で言った。

突然告げられた朗報は、耳だけが感じとり、ハルトは頭も心もついていかない。


「でもね。臆病になってるの。うまくいかなかったらどうしよう、家族だから気まずくなるのは嫌、それに年の差もあるから不安だって」


ハルトは何かを考えるようにゆっくり視線を落とした。


「弟だからっていう気持ちの影に隠れてる、見えない本音があるの。自信がないのよ。だから安心させてあげて」


明子の言葉がハルトの心にスッと落ちていく。

ハルトは立ち上がり、店の外へ出ていった。

強い覚悟を胸にしまって────。



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