変わらずに咲き続ける桜
・大学編に戻ります
・沙耶をさらに深掘りする回
・そのために、観察眼に優れた人物を創造
(1)
電車を降り、改札を抜けて、駅の東口に向かった。
「くぁ……」
口を開けてあくびをしながら。
目的地の街が終点だったので、油断をして、うたた寝をしてしまった。しかし、家にいるときにように、大口を開けてあくびをしたのは、油断しすぎだ。
いけない、いけない。これでは、かの友人と同類になってしまう。
右手で口をおおい隠して周囲を気にしたけれど、仕事終わりのサラリーマンたちや、自分と同じように友人と待ち合わせをしている若者たちは、どこに呑みに行こうかなんて、楽し気に話をしていて、他人のあくびなんかを気にかける人はいない。
(それもそれで、人間関係が淡泊で、味気が無い気もするけどね)
そう思ってしまうのは、自分が、細かいことを気にする性分だから。
普通の人は、目のまえにあるものを追うので忙しいのだ。
ノンフレームの眼鏡を外し、目じりに溜まった涙をぬぐった彼女は、悠然と歩みを進めて改札を抜けた。
暦のうえでは春なのだが、陽が沈んでしまうと肌寒い。この時期は、どういう服を着て外に出れば良いのか判断が難しい。
小さく身を震わせ、グレーのテーラードジャケットのポケットに、両手を突っ込んだ。
どこに視点を合わせるでもなく、ぼんやりと人の波を眺め、肩まで伸びる、薄くブラウンに染めた髪を揺らしながら、ゆったりと歩を進める姿は大人びていた。
目つきは鋭く、表情は変えない。そこに眼鏡をかけている彼女は、いかにも頭が切れそうだという印象で、優秀な社長秘書のようなオーラをかもし出している。
改札を抜けると、すぐにお目当ての人物が見つかった。
その人は、改札を抜けた先にある旅行代理店のパンフレットに見入っていて、こちらに気づかない。
「旅行の予定でもあるの?」
彼女は、ひとたびなにかに夢中になると、自分の世界に入り込んでしまって、戻って来なくなってしまう。
だから、こちらから声をかけてあげる必要がある。
「そういうわけじゃないけど、ここに行ってみたいなとか、あそこにも行ってみたいなとか空想してたら、楽しくなっちゃって」
「変わらないわね」
あきれて笑えてくる。
なにかに熱中すると、とことんまで突き詰めようとする。
その特性は、いまだ健在のようだ。
「ともかく、おひさしぶり。さきっちゃん」
「ええ」
彼女が開いた両腕の中におさまって、身体を密着させた。
お互いに、相手の肩にあごを乗せ、背中をぽんぽんと叩く。
顔を合わせるのもひさしぶりだけど、このハグもひさしぶりだ。
他人に無関心な道行く人たちも、これには目を止めたかもしれないけれど、抵抗は無い。
うれしいことがあったとき、誰かを励ますとき、お互いに気持ちを奮い立たせるときには、こうしてよく、みんなとハグをしていた。
それは、仲間に心を許した証なのだから、恥ずかしくなんて無い。
「さきっちゃん、あい変わらず、いいラインしてるわねぇ」
するりと彼女の手が肩に回ってきて、左手の人差し指で、胸を指さした。
パープルのタートルネックセーターは、鎖骨の下から美しい曲線を描いていて、スタイルの良さをはっきりと目視できる。
そこに指をさして、突っつくような仕草をしてくる。
「もう酔ってるの?」
オッサンのような言動にも、慣れたこととばかりに逃れ、手の甲をつねってやった。
「いたっ……。なによもう。ひさしぶりのスキンシップってやつでしょ」
「本当に、変わらないわね」
この、天川沙耶という女は、まったく変わらない。
なにかに夢中になると、お気に入りのおもちゃでずっと遊んでいられる子どものように、飽きもせずに熱中できるところも。
オッサンみたいな言動も。
他人との距離の詰めかたが、おかしいところも。
「そうかしら? 自分じゃ、大人っぽくなったと思うんだけど」
「変わらないわよ、沙耶は」
高校時代を懐かしみ、万感の思いを込めて、言った。
変わらない。ということになると、沙耶の体型も変わらない。
ソフトボールを引退してからも、運動をしているという話は聞いていたが、それにしても、スラリとしていて、ひき締まっていて、しかも長身ときている。まるでモデルだ。
沙耶が、
「けっこう変わったと思うんだけどなぁ」
と目線を落として自分の体を眺めてみたり、体をひねってみたりすれば、それだけでポーズをとっているようで、魅力的だった。思わず、絵として描き留めておきたくなるほどに。
しかし、いまは絵を描くための道具を持っていない。
だから高校時代にしていたように、しっかりと沙耶の姿を焼きつけておいて、家に帰ってから描くことにした。
「あら?」
沙耶を観察しているうちに、あることが気にかかった。
「ちょっとあんた。そのコート、高かったんじゃないの?」
「これ? なんかブランドものらしいんだけど、よくわからん」
「やっぱりそうなのね。どうやって買ったのよ」
沙耶の家は、貧しいというわけではないが、とりたてて裕福というわけでもない。
親からもらった予算や、バイトで稼いだ資金をやりくりしながら、できるだけ自分に合った服を選び、おしゃれを楽しむのが基本であるはずだ。
それなのに、沙耶が着用しているブラウンのニットコートは、シンプルなデザインながら、そんじょそこらのコートとは、素材が段違いであった。
「こないだの誕生日に、お父さんが買ってくれたのよ」
「誕生日プレゼントで、ブランドもののコートを……。沙耶、そのお父さんって、本当のお父さんなんでしょうね」
「下世話な詮索はやめていただきたい。正真正銘、うちの父です」
事情を聞けば、そんなたいそうなものでは無かった。
沙耶が、ぼけーっとしながら通販番組を見ていて、なんとは無しに、あのコートいいわねとつぶやいたら、父親が、大枚をはたいて購入してくれたそうだ。
「それで納得したわ。沙耶が、おしゃれに目覚めたと思ったのね」
高校時代の沙耶は、学校の制服、ジャージ上下、Tシャツ、短パン、靴はサンダル(つっかけの意)とスポーツシューズがあればこと足りた。
なにせ、外出は近所のコンビニに行くか、自主トレーニングの二択だったのだから、おしゃれな服など不要だったのだ。
沙菊は、風の噂で、沙耶はしばらくの間、大学へ登校する際は、上下ジャージ、裸足にサンダル(もちろん、つっかけの意)といういで立ちで、堂々と登校していたという逸話を耳にしていた。
そんな沙耶が、服を見て、いいなぁとつぶやいたのだ。
親からすれば、雷に打たれあほどの衝撃であっただろう。
「それにしても、さすが、目のつけどころが鋭いわね。宗谷沙菊の観察眼、いまだ健在ってところかしら」
「性分なのよ。沙耶と同じで、変えたくても変えられないのよ」
自然と笑みをこぼした二人は、もう一度、抱擁を交わした。
(2)
「立ち話もなんだし、行きましょうか」
「そうね」
沙耶にうながされて、歩き出した。
立って話すには、沙耶との思い出話は多すぎる。
(それにしても、身長が高いわね)
沙菊も、女性の中では身長が高いほうだが、沙耶のほうが、沙菊よりも顔半分くらい背丈が高い。
ボーイッシュな顔立ちをしていて、瞳はぱっちりまつ毛は長い。顔のパーツもバランス良く配置されている。
そんな沙耶は、仮に男として見れば、中性的な顔立ちのアイドルのようで、性別どおりに女性として見れば美形のモデルという、あまりにも恵まれた容姿をしていた。
(最初は、なんだったかしら?)
天は二物を与えず、などと言うが、あれは嘘だと沙菊は思う。
沙耶は、端麗な容姿に加え、運動神経もあり、ソフトボールを引退してからは、勉学の成績も優秀ときている。
こんな天才と、どうやって知り合いになったのだろう。
―――沙菊って名前、呼びにくいから、さきっちゃんでいい!?―――
さきっちゃんだって、語呂がいいわけじゃ無いでしょ。
とツッコミを入れるまえに、沙耶は、沙菊への呼びかたを固定させてしまった。
まだ沙耶とは、仲が良いというわけでは無かったころの出来事であった。
というか、このことで、沙耶に対するイメージは最悪になった。
親からもらった名を、呼びにくいなんて、失礼すぎるだろうと。
だから沙菊は、沙耶とはかかわらないようにした。
会話も必要最低限にとどめたし、話しかけてきても、冷たくあしらうように心がけた。
それなのに、沙耶はしつこくつきまとってきた。
根負けをした沙菊は、ソフトボール部のマネージャーにされてしまったのだ。
後で知ったことだが、沙耶は、沙菊の観察眼の鋭さを見抜いていて、ぜひマネージャーにしたいと、目をつけていたそうなのだ。
(それにしてもね……)
一気に距離を詰めて来すぎだろう。
性格的に古風な沙菊は、順序など気にせず、自分が見込んだ人間に対して、いっさいの垣根を設けようとしない沙耶のやりかたが、好きでは無かった。
駅の東口出口にあたる長い階段を降りた二人は、左へ進路を取り、カラフルな石畳が敷かれている繁華街へと向かった。
夕暮れどきということもあって、あちらこちらで、沙菊たちと同年代の女の子が、呼び込みのバイトを行っていた。
それらのほとんどはチェーン店の居酒屋で、呑み放題などのサービスがあるので、学生にとってはありがたい。
しかし沙耶は、呼び込みバイトたちに、
「ゴメンね」
と気さくな笑みを向けて謝りながら、素通りしていった。
沙耶に声をかけた女の子たちは、はっと目を見張り、ぽっと頬を染め、きゃっと黄色い声をあげ……、行く先々で、沙耶は女子たちを魅了していった。
(そうよね。沙耶の本性を知らなければ、そういう反応になるわよね)
沙菊だって、最初に沙耶の顔を見たときは、こんな綺麗な顔の人間がいるのかと仰天した。しかも、高い運動能力を有しているときた。
「あっちこっちから、いい匂いがするわね」
沙耶は、これは焼き鳥の匂いかな、とか、こっちは揚げ物の匂いね、とか、鼻を利かせて、左右に揺れながら歩いた。
千鳥足で歩く、酔っぱらいのオッサンのようであった。
その姿がまた、端麗な容姿とはミスマッチなはずなのに、どうも似合っているのだ。
おそらく神様は、沙耶の容姿や能力を決めたときに、やりすぎたと反省して、性格をオッサンぽくしてバランスをとったのだ。
そうで無かったら、沙耶のオッサンくさい言動の説明がつかない。
だって、沙耶のお父さんも、ここまでオッサンくさくは無いし、お母さんも、いたって普通の人だ。
遺伝で無いのなら、神様の采配でしか、こんな破天荒な人間が世に産み落とされるわけが無い。
「今日は、どこに連れて行ってくれるの?」
お店のチョイスは、沙耶に一任してある。
冒険ではあるが、沙耶には、冒険を託す価値がおおいにある。
「着いてからの、お楽しみ」
「焦らすわね」
沙菊は表情を変えない。しかし、心はワクワクと弾んでいた。
沙耶はいつもそうだった。
いったい、なにをしてくれるのだろう? という期待を他人に抱かせてくれて、そして、期待以上のものを見せ続けてくれた。
この才能は、神さまが気まぐれに指をさした者だけが持つことができる荷物なのだ。
「咲いてるわね」
沙耶が足を止めた。
繁華街には、円状にベンチが並んでいる一角があって、そのまん中で、桜が見事に咲いている。
周囲は、コンビニや、ドラッグストアや、ファミレスや、さきほどから二人に呼び込みをかけてくる、チェーン店の居酒屋などで囲まれている。
そんな環境でも、桜は堂々と咲き誇っていて、都会の中の桜というミスマッチも美しいと思わせてしまう魅力があった。
「桜を見ると、誕生日が来たんだなって思うわよね」
沙菊も足を止めて、桜の花を見上げた。
休憩所の近くには、昔ながらのレトロなまんじゅう屋があり、軽い行列ができている。
まんじゅうを購入した人たちは、ベンチに座ってそれを頬張りながら、うっとりと桜の花を眺めていた。
「そうねぇ……」
目を細めてつぶやいた沙耶は、まるでこの桜のようだと沙菊は思った。
都市開発が進み、近代的な建物に囲まれてもなお、桜は誇らしげに咲いている。
どんな場所でも桜は咲く。
それが桜と沙耶の宿命なのだろう。
自分たちのソフトボールチームは、最悪な状態から始まった。
それでも沙耶は、自分の理想が叶うと信じ続けた。
たまにの休みがあったとはいえ、遊びたい盛りの女子高生が、掴めるかもわからない夢を追いかけ、土にまみれ、手にマメを作りながら練習に励み続けるのは、簡単なことではない。
それは、とても良い思い出であることは疑いようが無いが、同時に、いばらの道であったことも間違い無い。
沙耶は、先頭に立っていばらを引っこ抜き、さらに、道に花を咲かせながら進むことができる、底抜けの明るさを持っていた。
「そろそろ、行きましょうか?」
「そうね」
沙菊は、沙耶の隣を歩いた。
花咲かせ名人のオッサン女子高生は、いまや、オッサン女子大生となって、悠々自適の生活をしていた。
(3)
この街は、昔に街道が通っていた名残で、飲食店や宿泊施設が充実している。
(たしか、エッチなお店もあったわよね)
沙菊と沙耶は、今年の誕生日で二十歳になった。
だから、年齢だけ考えれば、そういうお店に入れないこともない。子どもではないので、男性用だと知っている。
しかし、知的好奇心が強い沙菊は、あくまでも……、そう、あくまでもひとつの知識として、いったい中でなにが行われているのかと空想したくなるのであった。
「ここよ」
沙耶が得意顔で店の看板を指さした。
看板は古ぼけていた。お店の名前がかすれていて読みにくい。
店の歴史の長さを感じさせた。
周囲には、ここ数年のうちに建ったのだろうと思われる、小綺麗な飲食店が並んでいるが、このお店は、時代の波にも負けず、生き残ってきたのだ。
お店は地下にあった。コツコツとブーツの音を鳴らしながら階段を下り、戸を開けて暖簾をくぐる。
「こんばんは~」
と、沙耶が声をかければ、店長さんらしき、白髪のおじいさんが迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「はい」
「では、あちらのお席にどうぞ」
店長さんが二人がけの席を示すと、沙耶と沙菊は、それぞれ、壁にかかっているハンガーに上着を引っ掛けて、正対する形で席に着いた。
「どうよ。いいところに目をつけたでしょ」
「敵わないわね」
沙耶が得意満面で唇を吊り上げると、沙菊もわずかに唇の端を吊り上げて応えた。
渋みのあるお店だ。
落ち着いた明るさの照明が、店内を照らしている。
ざっと店内を見回すと、お客さんたちが、のんびりくつろいで、飲酒を楽しんでいる。
飲酒未経験の沙菊だけど、第一印象で、良いお店だと感じた。
さすがはオッサン女子大生。こういうお店を見つけるのは、お手のものというわけか。
「さきっちゃん、なににする!? なににする!?」
しかし、対面に座っている沙耶が、雰囲気を台無しにしてしまう。
メニュー表を持っては置き、また持っては置きを繰り返し、体はうずうずと揺れている。
気持ちはわかる。
これから、沙耶と沙菊は、人生で初めての飲酒にチャレンジするのだから、浮ついた気分になるのは理解できる。
ただ沙耶は、それを自己完結で済ませようとせず、沙菊にもぶつけてくる。
沙耶は、気を許した相手には、どこまでも距離を詰めて来ようとする。
沙菊とは、まったく逆の価値観。沙耶のこういうところは、いまでも好きになれない。
でも、なぜだか沙耶に惹かれてしまう。この女のことを、好ましいと思ってしまう。
ひどい自己矛盾だった。
「ご注文は」
店長さんが、注文伝票を手に、テーブルにやって来た。
お歳にもかかわらず、所作がきびきびとしていて清々しい。
居酒屋の店主というより、バーのマスターとか、ホテルのベテランシェフとか、そんな風体だった。
「生で」
沙耶は、当然のことだと言わんばかりに、人差し指を立てながら、生ビールを注文した。
「生ですね。そちらは?」
店長さんはペンを走らせると、続いて沙菊に尋ねてきた。
「ちょっと待っていただけますか?」
沙菊は、小さなカレンダーのような、テーブルに立てるタイプのメニュー表を持つと、高速で眼球を動かした。
もしも自分が、自分が思っている以上にお酒に弱かったら大変だ。
よく、新入生の歓迎会で無茶な呑みかたをして、アルコール中毒になる大学生がニュースになるが、自分だって、ああなってしまう可能性がある。
(でも、人生初の飲酒なのよ)
無難にサワーなどで終わらせるのは、おもしろみに欠けるのではないだろうか。
しかしだ。
とりあえず生ビールというのは、年ごろの女子としていかがなものか。
沙耶は、そのほとんどがオッサン成分で形成されているから良いとしても、沙菊としては恥ずかしい。
上手く自分の気持ちを満足させられるものはないか。
そのとき、沙菊の眼鏡の縁が、きらりんと光る。
(うん? ハイボール?)
ハイボールというのはたしか、ウィスキーのソーダ割りだったはずだ。
沙菊の父も、よくそうやってウィスキーを嗜んでいる。
(これだわ)
沙菊は決断する。
「ハイボールでお願いします」
店長さんに注文を告げた。
ここまでの所要時間、わずか数秒。
常人とはかけ離れた思考能力と集中力だった。
沙耶が目をかけるだけあって、沙菊はただ者では無かった。
「お食事はどうされますか?」
また店長さんが尋ねてきた。お店も徐々に混んできたので、食事の注文があれば、先に言ってもらったほうが早く提供できますよ、ということだ。
沙菊が、任せると言うまでも無く、
「厚揚げ焼きと、ほうれん草の胡麻和えと、枝豆をお願いします」
やはり沙耶は、人差し指を立てながら、つらつらと店長さんに注文をした。
店長さんは、沙菊のように表情は変えなかったが、一瞬だけ固まって、沙耶と沙菊の顔を確認したのを、沙菊は見逃さなかった。
(若いのに、渋いもんを食うなぁ……)
と思ったことだろう。
お店の壁には、絵画と共に、多用なメニューが張り出されてある。
焼き鳥もあるし、唐揚げもあるし、揚げ餃子とか、ベーコンとニンニクの芽の炒めものとか、若い人が好みそうな料理もある。
それなのに、沙耶が注文したのは厚揚げ焼きとほうれん草の胡麻和えに、枝豆である。
なんと言うかもう……、場になじみすぎているのだ。
「沙耶。本当に、こういうお店は初めてなんでしょうね? まさか、高校のときから……」
「変な勘繰りしないでよ。頭が回りすぎて深読みするの、さきっちゃんの悪いところよ」
「だって、さっきから、お店になじみすぎよ」
「下調べしたのよ。ネットで。そしたらレビューで、厚揚げ焼きが絶品って書いてあったのよ。ホントよ」
「ふぅん……」
沙菊は、敏腕の女検事のように沙耶に質疑をした。しかし、事前に下調べをしてくれたことからもわかるように、なんだかんだで、沙耶は律義者なのだ。
腑に落ちないところはあるが、今日のところは、沙耶の言いぶんを信じることにした。
「それにしても、タイムリーに連絡してきたわね」
沙菊はスマホをいじって、沙耶から送信されてきたメッセージを見た。
〈呑みに行こうぜ! いいお店を見つけたぜ!〉
沙耶らしい文面だと沙菊は思った。
沙耶は先のことを見据える余りに、起承転結の承転を飛ばして、結論から語るところがあった。
常に未来に目を向けている前向きな性格、と好意的に解釈することもできるけれど、過程がずり落ちているので、行動の意図するところがわからないことも多々ある。
どういう因縁なのか、沙菊と沙耶は、四月三日の同日に生まれていた。
家族から、ニ十歳の誕生日を祝ってもらったその日、父親から酒を勧められたのだが、ふと、脳裏に沙耶の顔がよぎった。
父には悪いけれど、初めてお酒を飲むのなら、沙耶と一緒がいい。
と思った矢先に、あのメッセージが届いていた。
沙耶も沙菊と同じことを考えたのだろうが、そこに至るまでに、沙耶がなにを思ったのかを推理しないといけないので、ひと苦労である。
沙耶は高校時代から、終始、こんなだった。
周りの人間を巻き込んで振り回し、でも結局、自分の思い描いていた未来にたどり着いてしまう。
台風のような破天荒さと、純文学のような予定調和を併せ持つ。
そんな沙耶に、いつしかみんなが魅了されていった。
沙菊も、そのうちの一人だった。
(4)
「お待たせしました」
いよいよ、お酒が運ばれてきた。
まずテーブルに置かれたのは、ジャガイモと豚肉の煮ものが配膳された小鉢だ。
これはたしか、お通しと呼ばれるもので、席に座った料金をいただく代わりに提供される、一品料理だったはずだ。
煮汁を吸って茶色くなったジャガイモが、おいしそうだった。ちゃんと手をかけて調理しているのがわかった。
(こういうところに、お店の性格が出るのね。こういう細かいところに目を向けるのも、居酒屋の楽しみなのね)
まぁ、そんな細かいところに着目するのは、嫌味な小姑か、食に対して変態的にこだわりを持っている者か、鋭い観察眼を持て余している沙菊くらいなのだが、本人が楽しければ、それで良いんじゃないでしょうか。
沙耶のまえに生ビール、沙菊のまえにハイボールがそれぞれ置かれると、二人はごくりと喉を鳴らした。
おなかが空いているということもあるのだけど、初の飲酒を控え、緊張と興奮を抑えられない、という意味合いのほうが強かった。
「すみません。念のために、冷たいお水をいただいてもよろしいでしょうか?」
ごゆっくりどうぞ、と言い残して、他の客の注文をとりに行こうとした店長さんを、沙菊が呼び止めた。
「かしこまりました」
店長さんは注文を書き留めて、近くにいた店員に、水を持ってくるように指示した。
なにが念のためなのかは聞かない。
そういう野暮ったいことを口にしないところに、沙菊は好感を抱いた。
(誰かさんとは大違いね)
誰かさんときたら、気になったことがあったら、突き詰めないと気が済まない。
そして、気が済むまで、しつこくまとわりついてきて、ウザったいったら無い。
沙菊はいつしか、沙耶を蔑むような視線を送っていた。
「なによ?」
「別に。お水が来たわよ。乾杯しましょう」
お冷が運ばれてくると、二人は再び唾を飲み込んだ。
さすがの沙菊も表情が強張っている。
「そ、それじゃ……」
「え、ええ……」
沙耶がジョッキグラスを持ち上げると、沙菊もハイボールが注がれたジョッキを持ち上げた。
そして。
「誕生日、おめでとう」
声を揃え、カチンとジョッキを重ね合わせた。
お互いに力が入っていたこと、初めての乾杯で、力加減がわからなかったことで、お酒が波打ってこぼれそうになってしまった。
でもそのおかげで、
「危ないっ!」
前屈みになった二人は、ためらっている暇も無く、グラスに口をつけることができた。
まず沙菊。
ごくん。ひと口ハイボールを流し込んだ。
(あっ。これ、いいわね)
ソーダのおかげで、ウィスキーの香りがひき立っている。
炭酸の喉越しも、爽快で気持ちが良い。
ちょっとレモンを絞っているのだろう。後からレモンの香りが追いかけて来た。
サワーっぽくて飲みやすいのに、お酒を飲んでいる感も味わえる。
「おいしいわ」
消去法的に選んだハイボールだったけれど、正解だ。この飲みかたは、沙菊に合っている。
素敵な出会いに感謝をして、沙菊は、グラスと口づけを交わした。
続きましては、沙耶。
んくっ、んくっと喉を鳴らしてビールを流し込み、
「くっはぁ~……!」
と、心地良さげに息を漏らしてジョッキを置く。
鼻の下には、ビールの白い泡がくっついていて、まるで季節外れのサンタクロースのようだった。
その泡を、手の甲でぐいと漢らしくぬぐう。
「いやぁ、五臓六腑に染みわたるわねぇ」
一連の仕草は、およそ女子大生とは思えないようなオッサンくささだったが、なぜだか妙に絵になっている。
そして、手慣れた仕草で酒を流し込んだ沙耶に、沙菊の勘繰り虫がうずく。
(やっぱり、昔から飲酒してたんじゃ……)
沙耶に懐疑的な視線を送った。
「……。なによ?」
「別に……」
沙耶は、そんな沙菊を見咎めたが、沙菊は自然に視線を逸らしながら、ジョッキに口を寄せた。
(それにしても……)
改めて沙菊は疑問に思った。
いったい自分は、この人間のどこが好きなのだろう。
なぜ、こんな人間と、初の飲酒を共にしたいと思ってしまうのだろう。
(価値観は真逆だし、言動はオッサンみたいだし、最近はましになってきたみたいだけど、子どもっぽくて、落ち着きが無いのに……)
それでも、この人間が好ましいと思ってしまうのだから、おそろしい。
高校時代は、なぜかこうして沙耶に惹きつけられてしまう現象を、「沙耶の毒が回ってきた」と称して、チームの中で恐れられていた。
人間、根拠の無いものは怖い。
でも、その毒が回らないように、なにかの対策をとろうとする者はいなかった。
怖がりながら、結局、みんなが沙耶について行った。
部員は少なく、試合することすらおぼつかない。それに、ソフトボールなんて、体育の授業でしかやったことが無いので、ルールから覚えないといけない素人もいた。
(あのころの沙耶は、狂人にしか見えなかったわね)
ゆっくりと、グラスをかたむける沙菊。
あんなに壊滅的な状況で、まずはなんとか、部として活動できるようにするのが先決だと、みんな考えていた。
沙耶を除いては。
沙耶は、そのときから、全国大会に出場すると公言していた。
(夢じゃなくて、目標。だったかしら)
それは、運動部に所属したからには、全国大会のような、大きな舞台に立ってみたいとは、誰だって夢を見る。
ところが沙耶は、沙菊に言ってのけたのだ。
全国大会出場は、夢じゃなくて、この部の当面の目標だと。
沙菊だけじゃなく、他の部員たちだって思ったはずだ。
この女、イカれてやがる。と。
ところが、なのだ。
厳しい道を歩む途中で、沙耶を見限ったり、沙耶から逃げたりする人は、一人もいなかった。
このことが、沙耶の底知れぬ才能を語るうえで欠かせないと、沙菊は思っている。
(5)
「どうぞ」
二人のお酒が、三分の一くらい減ったところで、店長さんが、厚揚げ焼き、ほうれん草の胡麻和え、枝豆をテーブルに置いた。
この店長さんは、言葉が簡潔で、余計なことを口にしない。といって無愛想というわけでも無く、常連らしき他のお客さんから話しかけられると、慎ましく笑みを返していた。
沙菊は、そんな店長さんの慎ましさを、好ましいと感じた。
「ほらほら。早く食べないと冷めちゃうわよ」
そして沙耶は慎ましくない。
慎ましくないくせに、好ましいと感じさせる。
良くわからない奴だ。
沙菊は、左手を口の下に添えながら、厚揚げ焼きを咀嚼した。
「おいしい」
焼き加減が絶妙だ。
厚揚げの表面の油が、ほんのりと焦げるくらいまで焼いてあり、カリっとした触感がたまらない。中身のお豆腐の、とろりとした食感とのギャップもいい。
薬味は奇をてらわない、ネギ、鰹節、おろしショウガ。そこに生醤油を少し垂らして食べる。飾らない。純朴な味わい。さっきの店長さんを連想させる。
ネットの海に落ちている情報は、信用できるのかできないのか、いまいち疑わしい。
責任をもって情報を置いていく人もいれば、好き勝手にいろんなことを書き込む人もいるので、半信半疑で、ちょうど良いと沙菊は思っている。
だから、厚揚げ焼きが絶品というレビューも、あんまり信用していなかったのだが、沙耶が拾った情報は正確だった。
昔から、沙耶は本物を見抜く能力に優れていた。
そんな自分の能力に、絶対的な自信をもっていて、これだと直感したものに、まっすぐ駆けて行く。
そうやって、沙菊を始め、優秀な人材を確保していった。
「そういえば、今日は夏恋ちゃんは大丈夫なの?」
ほうれん草の和えものに箸を伸ばしながら、沙菊は沙耶に尋ねた。
「あん? なんで夏恋の話?」
沙耶は歯の間に挟まったほうれん草を取ろうとしうて、口の中に指を突っ込もうとしていたところだった。
「沙耶」
テーブルに置いてある爪楊枝をさし出す。
いくらお店の雰囲気がアットホームだからといって、油断しすぎ。
ここは家の外なのだから、最低限のエチケットは守ってほしいところ。
だが、
「あんがと」
爪楊枝を受け取った沙耶は、大きく口を開けて爪楊枝を持った指を突っ込むと、間の抜けた顔で、どこだどこだと、隙間に挟まっている青菜を探している。
「ちょっと、沙耶」
「んぁ? あっ。しまった」
沙菊が注意をすると、沙耶はすぐに表情を引き締め、左手で口を隠した。
「見てる私まで恥ずかしくなるんだから、気をつけてよ」
「じゃあ、いちいち見なければいいじゃない」
「見ちゃうのよ。性分なのよ」
「それは私の責任じゃないでしょ。さきっちゃんの価値観を押しつけないでよ」
「む……」
沙耶の言動が、エチケットを守れているのかというところは置いておいて、この論戦だけに着眼すれば、沙耶の勝ちだった。
もともと頭の回転が早い沙耶だが、部活を引退してからというもの、落ち着きが出てきて(当社比)論理の整理ができるようになった。
頭脳戦は、沙菊の大事なアイデンティティなのに、それですら沙耶に適わないとは……。
しかも、女子とは思えない、オッサンみたいな言動が目立つこの女に言い負かされると、さらに悔しい。
論戦に勝った沙耶は、勝利の美酒とばかりにビールを呑んでいた。
「うぅ゛~。炭酸は腹に溜まるわね。次は焼酎にしようかしら」
と、沙菊の父と同じことを言いながら、薄黄色のセーターの上からお腹をさすっている沙耶を見て、沙菊は左右に首を振った。
(6)
「そういえば、さっき、夏恋がどうのって言ってなかった?」
メニュー表を持ち上げながら、沙耶は、さきほど途切れてしまった話題をぶり返した。
夏恋というのは、高校時代、沙耶とライバル関係にあった他校のエースだ。
お互いに激しく意識をし合い、異常なまでに、相手に勝つことに執着していた。
沙耶と夏恋は、よほど強い縁で結ばれているらしく、現在は、ルームシェアをして同じ大学に通っている。
「ええと。今日は、夏恋ちゃんも誘わなくて良かったのかしらって」
視線を泳がせながら、どこか言い訳がましく、沙菊。
「さきっちゃん、そんなに夏恋と仲が良かったっけ?」
「そ、そうでもないけれど……。でも、一人にしたら、寂しがるんじゃないかしらって……」
沙菊がそう言うと、
「だはははは! 夏恋が!? ありえないわよ。そんなタマじゃないって、そのくらい、さきっちゃんも知ってるでしょうに」
沙耶は大口を開けて高笑いをしたが、慌てて右手で口を覆った。
と、同時に、
「なんで、耳塞いでるの?」
沙菊も慌てて両耳を手で覆った。
「気にしないで」
「はぁ?」
沙耶は、解せぬ様子で眉をひそめて訝しがったが、店員さんがテーブルの近くを通りかかったため、呼び止めて注文をしているうち、沙菊から意識が逸れた。
(危ないところだったわ)
沙菊は安堵しつつ、ジョッキをかたむけた。
この頭の中にある、自分だけが持つイメージは、なにがあっても穢してはならない。
例えそれが、出発点となっているモデルから、かけ離れたイメージだったとしても、気にかけてはいけない。
沙菊はずっと、脳内にある大事なイメージを、守り、温め、磨き、育て続けてきた。
そんな沙菊の脳内にあるイメージとは、可愛い女子同士が、なんやかんやしている絵だった。
もともと沙菊は、女子たちが仲良くしているところを観察し、脳内で百合色に染め上げるのが得意だった。それが女子校に進学すると決めた動機のひとつでもあった。
さらに彼女は、若き乙女たちが、部活動を通して絆を育み、壁にぶつかりながらも仲間と協力して乗り越えるという美しい絵を、マネージャーという特等席で観察することで、脳内にある世界を、さらに広げることができたのだった。
そんな沙菊に影響を受け、チームのマネージャーは、百合色な趣味を持つ者が務めるというのが、人知れない伝統になっていた。
(みんな、元気にしてるかしら?)
沙菊は、いろんな意味でかわいい女子マネの後輩たちに想いを馳せた。
マネージャーの間だけで、密かに開祖様と呼ばれている沙菊は、沙耶と並ぶ伝説的な存在として、いまもマネージャーたちの語り草となっている。
(7)
時間が深まるとともに、お店が賑わってきた。
お店には、数十人が来店しているわけだが、そのほとんどがスーツ姿の社会人か、長く地元に住んでいる老人で、学生は、沙耶と沙菊の二人だけだった。
しかし二人は、居心地の悪さを感じるどころか、この雰囲気を楽しんでいた。
沙耶はそもそもオッサンだし、沙菊は精神年齢が高いので、大人たちが作り出している空気が肌に合うのだ。
「大学生活は、順調?」
「まずますってところかしら」
沙耶に尋ねられたので、沙菊は応えた。
沙菊と沙耶の大学生活は、対照的だ。
大学生にして、すでに隠居生活のような気分でいる沙耶と違い、沙菊は、その先を見据えて大学に入学した。
沙菊は美大生だった。
将来は、漫画家を志望している。
幼いころから、絵を描くだけでなく、物語を創るのも好きだった。
それをさらに高いレベルで昇華するべく、美術大学に進学して、絵の技術を磨きながら、
いろいろなものを視て、物語を練るための感性も磨いている。
「絵のほうは?」
「そっちも、まずまずね」
沙耶は、こうしてたまに会うと、必ず創作活動について聞いてくる。
沙耶も、沙菊が漫画を描いていることは、高校のときから知っていたし、それを活かした職業に就きたいと考えていることも知っていた。
だが、沙菊が創り出す世界の具体的な内容は、たとえ沙耶であっても、いや、沙耶だからこそ口外することはできない。
沙菊が描く漫画は、女性同士が友達以上恋人未満の距離を保ち、イチャイチャしている世界観であり、その世界に住まうキャラクターたちは、沙耶ら、友人たちをモデルにして生み出しているからである。
大切な友人をネタにして、女の子同士があれこれしている話を描いているなんて、
(絶対に、知られるわけにはいかない)
沙菊は、そのことに過敏であった。
頭に浮かんだ物語を描くのは、自室に、独りでいるときだけ。
友人に絵を見せるときは、無難な一枚絵しか見せない。
細心の注意を払い、この秘密を守り抜いてきた。
とりわけ沙耶は、ひとたび興味を抱けば、真相を解明するまで納得しないだろうから、特に警戒していた。
ただ、沙菊が心配するほど、沙耶は踏み込んだ質問はしてこない。
今日の天気の話をするように、深いところまでは尋ねてはこず、すぐに話は終わる。
「そう? なんかあったら、いつでも相談に乗るからね」
「ありがとう。そう言ってくれるだけで助かるわ」
なぜなら、好きなことと向き合うのは、心身共に、体力がいることだから。
好きというのは、後戻りができないことだから。
いつでも沙耶に相談できるというのは、とてもありがたい逃げ道だった。
(もしかして沙耶は、自分がああいう経験をしたから、まめに気を遣ってくれるのかしら?)
沙耶は昔から、好きなものにまっすぐだった。
子どものように、好きという気持ちに正直だった。
ソフトボールが好き。だから上手くなりたいし、勝ちたい。勝つならとことん勝ちたい。そして全国大会の舞台に立ちたい。
そんな希望を、平然と口にしていた。
学校の先生や大人は、よく、夢を持ちなさいと言うけれど、それは、とても覚悟がいることだ。
(もしも、夢が叶わなかったら……?)
という怖さが、常につきまとう。
沙耶だって、ソフトボールで挫折を味わったことがある。
そのときの沙耶は、もうソフトボールを辞めてしまうのでは無いかと心配するほど、落ち込んだ。
沙耶ですら、そんな状態に陥ってしまう。もし自分がそんな経験をしたらと想像すると、背筋が寒くなる。
好きという気持ちは、純度が高いほどに、裏切られたときのショックが大きいのだと、沙耶を見て学んだ。
その気持ちをにごしたいとか、ごまかしたいとか、目をそらしたいとか考えてしまうときもある。
だけど、絵を描き続ければ続けるほど、気づけてしまう。
私は、これをしているときが、とても幸せなんだと。
その確かな事実が、好きという気持ちと、中途半端に向き合うこと拒否するのだ。
だから、抱えるより他に無い。
「あと二年か……」
沙菊は、ぽつりとつぶやいていた。
大学生活は、残り約二年。
それを消化するまでに、将来への道筋は見えるのだろうか。
好きという気持ちを表現するための場所を、与えてもらえるのだろうか。
保証も確証も無い。
「不安?」
沙耶がはにかんだ。
めずらしく控えめに笑んだのは、友人の胸中をなんとなく察し、安心を与えてあげたいと思ったからなのだろう。
でも沙菊は、むっとした。
「沙耶だけ楽隠居気分なのは、不公平だわ」
沙耶に対して、こんなことを考えるなんて、お門違いだということはわかっている。
「そんなことは無いわよ。わたしゃ、高校時代に、もうその気持ちを味わってるんだから、遅いか早いかだけの違いでしょうよ」
と言われてしまえば、そのとおりでしか無いので、言い返すことができない。
沙耶に連れられて、初めてソフトボール部のグラウンドに行った日のことは、昨日のことのように思い出せる。
部員は少ないし、部室はぼろぼろだし、道具も無いし、ソフトボールのルールを知らない初心者はいるし……。散々なありさまだった。
そんな状況下で、絶対に全国大会に出場すると唱え続けたバカが一人いた。
バカは最初、自分の実現能力に、絶対の自信を持っていた。
ところが、途中で挫折を味わい、もしかしたら、自分の頭の中にあるものが、実現できないかもしれないという怖さや不安を覚えて、自信が揺らいだ。
でも、それでもこのバカは、怖さや不安とつき合いながら、ずっとみんなの先頭に立ち続けてくれた。
高い運動能力、美しすぎる容姿……。
沙耶のことを褒め始めるとキリが無い。
でも、みんなが沙耶に惹かれる、本当の理由は。
「さきっちゃん。大丈夫よ。私だって、このとおり立ち直ってるんだから。そのときは、すごく不安で怖いけれど、意外になんとかなるもんなのよ」
沙耶が、笑う。
満開の桜のように。
この底抜けの明るさは、無敵だ。
この、まばゆいまでの笑顔に、みんな、惹きつけられるのだ。
「沙耶は、変わらないわね」
改めて実感した。




