風の行方
優美、高校三年生の秋
かつ、あらあらうふふ系のお姉さん登場。この手の女性はいくらでもいるのに、使い古されない不思議
優美の心理描写は、最近の柊ノキの心情とリンクしています
もちろん優美みたいに、なにかをやり遂げた過去も、綺麗な思い出も、まだ無いんですが…。創作物の中くらいは、理想を描かせてくれよ、ってことでね
雨粒が、優美の傘と地面に、容赦なく降り注いでくる。
優美は水たまりを避けながら、慣れ親しんだ道を歩く。
ソフトボール部のグラウンドに行くには、小さな丘を越えないといけない。コンクリートで舗装されていない土の林道だから、雨が降ると、すぐに水たまりができてしまう。
「よく降るなぁ」
優美の独り言を、雨音がかき消す。
世界と隔離されたみたいなさみしさが、きゅっと胸を締めつけてくる。
(なんで、天気と気分って、リンクしやすいんだろう)
その解釈は、たぶん自分で勝手にそう決めつけているだけ。
だって、気分が良いときは、雨が降っていても気持ちが落ち着いているし、気分が乱れているときは、晴れていても心がざわついている。
結局は、自分の心の問題なのだ。
でも、ぜんぶを自分で背負いたくないから、自分以外のなにかに原因を求める。
(ちゃんと決めたはずなのに、なんで、くよくよしてるんだろう)
夏の大会が終わったとき、優美は、ソフトボールを辞めると決心した。
それなのに……。
夏の熱気が過ぎ去り、風が冷たくなる秋の訪れとともに、優美の頭も冷えてきた。
大会が終わってしまった感傷に任せて、衝動で重大な決断をしてしまったような気がしてきたのだ。
全国大会で活躍をした優美は、去年の沙耶と同じように、たくさんのチームからお誘いをいただいた。
第一線でプレーすることから身を引いて、穏やかに大学生活を送ることを決めた優美だけど、ここにきて、迷いが生じたのだ。
あの、ひりついた勝負の場を、また経験してみたいという気持ちが頭をもたげてきてしまった。
しかも、大学のチームに所属すれば、その後の就職までめんどうを見てもらえるし、運が良ければ、チームのスタッフやコーチとして、ソフトボールにたずさわりながら、お給料をもらうことができるかもしれない。
そもそもプロのお誘いを受ければ、ソフトボール漬けの生活をしながらお給料をもらえるという、夢みたいなことが現実になるし……。
夏の間は、大学に進学することだけに固執していたけれど、いろんな条件を提示されて、優美の心は揺らいだ。
(冷静に、もうちょっと考えてみても……。いやでも、こういうことは、直観に従っちゃったほうがいい場合もあるし……)
グラウンドのまえに立った。
雨天だから、後輩たちの姿は無い。今日は旧校舎でトレーニングをしている。
こういうときでもないと、思い出に浸ることはできない。
下手に後輩たちに顔を見られて、過去の栄光に引っ張られていると思われるのが、イヤだった。
(まぁ、実際、未練に脚を引っ張られてるわけだけど)
そういう心の弱さを、他人に悟られるのを優美は極端に嫌う。
悪い癖だった。それが行き過ぎて、優美自身が本心を見失いかけた経験があるのに、また同じことをしてしまっている。
グラウンドを一望すれば、みんなで練習に励んでいた日々を、鮮明に思い出すことができる。あの日の、風の匂いも、風がどこから吹いて、どこに吹き抜けていったかまで。
思い出は鮮明すぎて、美しすぎる。だから頼りたくなってしまう。
「沙耶先輩は、こんなふうに迷わなかったのかな」
わかりきったことだ。
沙耶は、後ろを振り返ることをしない。
こうと決めたら、自分の判断を信じて進むだけだ。
それに比べて、優美の心は弱い。弱くて、不安定だ。
「でも、さ」
誰もが、一回こうと決めたからって、スパッと気持ちをきり替えられるのなら、マリッジブルーなんて言葉は存在しないわけで。
最愛の人同士でも、本当にこの人と結婚していいのかと迷うこともある。
だいたい、優美に言わせれば、自分が信じた道を、まっすぐに突き進むことができる沙耶が常人離れしているのだ。
(どうしようかな)
グラウンドに来れば、気持ちが治まるかもしれないと期待していたけど、そんなことは無かった。
むしろ、現役時代のことが思い出されて、心がざわめいてしまった。
思い出が美しいから、さらに思い出が美化されて。美化されるから、思い出にすがって、離れたくなくなる。
ソフトボールを続けたいという気持ちは、前向きなものじゃなくて、過去に甘えたがっている、自分の弱さからくるものだ。
それとわかっていても、過去から離れたくないと思ってしまうのだから、とんだ甘ちゃんである。
「なんて意志が弱いんだろう、あたしは」
チームのキャプテンを務めて、いろんな経験を経て、進むべき道も決めて……、すっかり心が安定したと思っていたのに、ぜんぜん、そんなことは無かった。
「とにかく、もう下校しよう」
じきに後輩たちが、部室に戻って来る。
グラウンドのまえで、未練がましくたそがれている姿なんて、誰にも見られたくない。
そうやって弱みを隠すから、悩みが深くなってしまうとわかっているのに……。
優美は、雨の中に姿を消すように退散した。
※
(ああ、なんか、なんかなぁ……)
学校から出て、駅に来るところまでは成功した。
ところが、そこで後ろ髪を引かれて、電車に乗ることができなかった。
うだうだと、あても無く駅の構内を散策する。
意味も無く本屋に立ち寄って、興味も無い文庫本や雑誌を手に取ってみる。
無駄に時間だけが経過していく。
(やだなぁ、こういうの、本当に嫌だ)
この感情を、言葉というはっきりとした形として表すことを、ためらう。
そうして、自分にすら本心を明かさない。
悪循環。
優美がダメになっていくパターンをなぞっているとわかっているのに、助けを求めることもしない。
モヤモヤっとした気持ちだけを抱えて、解消しようとしない。
(なんだかなぁ)
これっぽっちも内容が頭に入ってこなかったファッション誌を、棚に戻す。
しっかりしろと喝を入れるように、少しだけ伸びた髪に、右のてのひらをあてがう。
(帰ろう。さすがに)
そう決めたなら、そう行動するべき。いつかは、後ろ髪を引いている手を、すっぱりと振りほどかなくちゃいけないのだから。
「きゃっ」
「わっ!」
店の出入り口で、女の人とぶつかりそうになった。
早足で、直線的に歩いていたから、避けるのが遅れてしまった。
「す、すみません……!」
ヒールを履いていた女の人が、バランスを崩しかけたのを、両手で支えた。
「あら。優美ちゃん?」
「えっ!? 千鶴、さん……?」
ようやく、その顔に見覚えがあることに気づいた。
一本に結んだ長い黒髪。
細長い瞳に、おっとり穏やかな顔つき。
宮崎千鶴さん。
優美が高校に入学したときの三年生で、ソフトボール部のキャプテンだった人。
「こんなところで会うなんて、奇遇ね」
「そ、そうですね……」
「なにか、欲しい本があったのかしら?」
千鶴さんは、緩やかに口角を上げた。
「あ、はい。そうなんです」
「そうなの? でも、本を買ったようには見えなかったけれど」
「それは……」
「場所、変えましょうか? 出入り口で立ち話していたら、他の方に迷惑だわ」
「はい……」
優美は千鶴さんに従って店から出た。
世の中、不公平だ。
年下の人間は、年上の人間に勝てないようにできている。
予想外の人に出会ったということもあるけれど、それは相手も同じだったわけだから、スマートに反応できなかったことへの言い訳にはならない。
(でも、千鶴さんが特別なのかな)
宮崎千鶴さんは、最初に会ったそのときから、すごく大人だった。同級生からも、「千鶴お母さん」とか「女将」とかあだ名をつけられるくらいだった。
見ためだけじゃなくて、立ちふるまいも言動も余裕が感じられるし、他人への目配り気配りができる、頼りがいのある、素敵なお姉さんだ。
「優美ちゃん。時間、どうかしら。良かったら、寄り道していかない?」
なんだかなー。と優美は思った。
いまさっき、もう帰ろうと決めたのに、こんなことですら一本調子にはいかないのだ。気持ちが落ちているときっていうのは、こんなにも、いろんなことがうまく運ばないものなのか。
「ああ、年上からの誘いだからって、気を遣わなくてもいいわよ。私が、話し相手が欲しかっただけだから」
などという台詞を、さらっと言ってのける。いったい、どんな訓練を受けたら、こんな女性になれるのだろうか。
「いえ。大丈夫です。お供します」
なんだかもう、抵抗するのが馬鹿らしくなってきて、優美は、素直に流れに乗っかることにした。
「それじゃあ、行きましょうか。駅からすぐ近くなのだけど、素敵な喫茶店を見つけたのよ」
コツコツと、ヒールの音を鳴らしながら歩く、千鶴さんの隣についた。
(千鶴さん、また大人っぽくなったなー)
歩きながら、千鶴さんを観察した。
ベージュのロングスカートも、長袖のニットもヒールも、良く似合っている。
必要以上に飾らないコーデであることが、千鶴さんの魅力を引き立ていた。大学生っていうより、社会人みたいな貫禄すらある。
(っていうか、あたしが子どもなんだろうなぁ)
千鶴さんは、怒ることがあるのだろうかと思うくらいに穏やかな人だった。
現役時代、ピッチャーを務めていた千鶴さんは、とにかく、粘り強い投球が持ち味だった。ピンチの場面でも顔色を変えない彼女の姿は、チームメイトを安心させてくれた。どうしたら、そんなに心を安定させることができるのか、教えてほしい。
優美なんて、一回、こうだと決めても、ふらふらふらふらと迷っている。表向きは顔色を変えないようにするので精一杯で、揺れ動く心のコントロールに、いつも苦労している。
「優美ちゃんは、大学に進学するの?」
「はい。そのつもり、だったんですけど……」
「つもり、だったけれど?」
「……」
千鶴さんの声色が、あまりにも優しくて身に染みたので、気を許して、心の中を見せてしまいそうになった。
黙りこくってしまった優美の顔をのぞきこんで、
「雨、あがったわね」
千鶴さんは、開きかけた折り畳み傘を、バッグの中にしまった。
まだ雲が空をおおっているけれど、空はかすかに明るくなっていた。
駅の周りには、ファミレスやファーストフードのお店、チェーン店のカフェがある。優美や千鶴さんと同世代の学生たちが、お店の中で談笑しているのが目にとまった。
(ああいうふうに、なにも考えずに楽しむくらいで、あたしはちょうどいいんだろうけど)
自分の欠点を自覚していて、対処法もわかっている。でも、上手く自分を操ってあげることができない。
「人間の性分って、変わらないわよね」
「はぇっ!?」
びっくりして、変な声を出してしまった。
心の中を見透かされた。そう思った。
「ど、どうかしたの?」
「い、いえ。なんで急に、そんなことを言うのかなって」
千鶴さんは、苦笑して、歩き出す。
「せっかく大学生になったんだし、私も、ああいうふうに遊んでみようかしらって思ったのよね。でもやっぱり、騒がしいのは肌に合わないみたい。それで、人付き合いが悪いとか、ノリが悪いって陰口を言われたらどうしようって、ちょっと悩んだのよね」
「千鶴さんが?」
優美が意外そうに眉を上げると、千鶴さんは、小さく舌を出した。
「ここよ。入りましょう」
古ぼけた木製の扉を開けると、入り口のベルが揺れて鳴った。レトロな装置だ。
「いらっしゃいませ。テーブル席へどうぞ」
お店に入ると、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。
店主らしき中年男性は、カウンターの中で、コーヒーを作っていた。
十人くらいが座れるカウンター席は、ほぼ満席だったけれど、お店の中は静かだった。
先客たちは、じっくりとコーヒーの香りを堪能したり、本を読んだりして、独りの時間を過ごしている。
(なんだか、急に時間がゆっくり流れ出したみたいだ)
優美は、千鶴さんと向かい合わせで、窓際のテーブル席に座った。
「素敵なお店ですね」
お世辞ではなくて、本当にそう感じた。
千鶴さんは、うれしそうに笑って。
「せっかく見つけたから、誰かに自慢したかったのだけど、なんとなく、大学のお友達は誘いにくくて……。だから、優美ちゃんと会えて良かったわ」
「そうなんですね」
たしかに、人を選ぶお店だ。わいわい仲間と騒ぎたい人には、窮屈に感じるかもしれない。もちろん優美は、ぜんぜん窮屈だなんて思わなかった。
「良かったら、注文、同じものでいいかしら?」
「はい。お願いします。でも、お会計は別々ですよ」
「あら。私がつき合わせたのだから、私が払うわ」
「ダメです。ちゃんと払います」
「たまには、先輩ぶらせてくれてもいいのに」
千鶴さんは、手を挙げて店員さんを呼んだ。
こんな素敵なお店を教えてもらったのに、お会計まで甘えるわけにはいかない。優美だって、今年で高校を卒業して、来年は……。
(来年、は……)
どうするのだろう。
心に冷たいすきま風が吹きこんでくる。
大学に進学するなら、もう、後ろを振り返っている時間は無い。
無いってわかっているのに、心が定まらない。
お店の中は、ひっそりと静まりかえっていた。
テーブルの向かい側では、千鶴さんが穏やかに笑っている。
(いっそ、千鶴さんに相談しちゃおうかな)
なんて、できもしないことを考えてしまう。
信頼に足る相手にすら、優美は弱みを隠してしまう。強がって、大人ぶって、でも、根っこのところは、子どもなのだ。
(歳をとったら、もうちょっとマシになるのかなぁ)
千鶴さんは、優雅にコーヒーカップを傾けている。
そんな千鶴さんが、優美はうらやましくてたまらなかった。
※
「すっかり晴れたわね」
お店を出た優美と千鶴さんを、太陽が出迎えてくれた。
空が晴れたのと同時に、優美の心も晴れてくれればいいのに。と思ったけれど、現実は、そんな簡単じゃない。
「思い出って……」
おもむろに、千鶴さんがつぶやく。優美に聞かせるふうでは無いみたいに。
「思い出って、はっきりしているから、つい、寄りかかりたくなるわよね」
「……!」
学校にいるとき、優美が考えていたことと、同じだった。
(そういえば、なんで千鶴さんは、駅にいたんだろう)
千鶴さんが通う大学から、自宅に行き帰りするのに、あの駅にいる必要は無かったはずだ。
なんの目的で、千鶴さんは、高校から最寄りの駅にいたのだろう。
「過去は形を変えない。形を変えないものに、変わってしまった、いまの自分を重ねることはできないのよね」
「そう、ですね」
「それなのに、やっぱり過去に寄りかかりたくなる。思い出が美しければ、なおさら」
風が吹いて、一本に結んだ千鶴さんの長い髪が揺れた。
この風はどこから来て、どこに行くのだろうか。
「大丈夫よ」
千鶴さんは、自分に言い聞かせるように、言った。
「過去に心を引っ張られちゃうときもあるけれど、前に進もうと決めたら、自然と過去から遠ざかっていく。すぐにここから離れようとする必要は無いのよ」
「千鶴さんは、もしかして……」
「優美ちゃん。虹よ」
千鶴さんが、空を指さした。
遠くの空に、虹がかかっていた。
「綺麗ね」
「はい」
二人、立ちすくんで、空にかかった七色の橋に見とれていた。
今日、わたしは、この空に虹がかかることを知らなかった。だからこの虹は、こんなにも美しい。
風が吹く。
明日は、どんな風が吹くのだろう。どこから来て、どこへ行くのだろう。わたしは、それを知らない。だから不安になる。
でも、吹き抜けた風は、思いのほか、冷たくはなかった。




