雨のち、桜
優美が大学に入りたてのころのお話
身の回りの環境が変化しても、変わらないものがある。
「ん……」
優美はベッドから起き出した。
スマートフォンのアラームが鳴るよりもまえに。
これはもう、優美の性質と言う他に無いだろう。
友人と遊ぶ約束をしたら、集合時間よりも早くに到着している。
外に出かけるときには、決めていた出発時間に、余裕をもって間に合うように準備する。
誰かにそう教え込まれたとか、強制されたわけでは無い。自然とそうしているのだ。
強いて理由を考えるならば、父親が慎重で神経が細いタイプだから、その血を受け継いでいるのかもしれない、というくらいか。
「雨……」
カーテンを開けると、昨夜から降り続いている雨が、ベランダを濡らしていた。
雨足は弱まっているけれど、これは、傘を持って出かけないといけないだろう。
あくびをしながら部屋を出て、鎖骨まで伸びている黒髪を払って、背中に回した。
空気が湿っていても、優美の黒髪は秩序をしっかり保ち、乱れることは無い。天然のキューティクルである。
トイレを済ませたら、歯磨きをする。
鏡を見ながら、セミロングの髪をブラッシングする。
髪質が良いのは、優美の自慢だ。軽くブラシをあてただけで、反発すること無く、優美に従ってくれる。
朝食を摂ったら、身支度を整える。
高校生のときは、制服にシワが寄っていないかとか、そのくらいしか気を遣っていなかったけれど、いまは、着ていく服を、自分で選ばないといけなくなった。
これが楽しくもあるけれど悩ましい。
選択肢が広まるのはうれしいけれど、そのぶん、考えないといけないことが増えるわけで。
(高校生のときは、楽をさせてもらってたんだな)
なんて思いながら、部屋の壁を見る。
以前までは、そこに、ハンガーにかけられた学校の制服があった。
化粧鏡のまえに座って、ファンデーションを肌に塗る。アイブロウでまつ毛を整えてから、チークを塗る。
最後に、リップで唇を彩って、外出の準備は完了。
高校生のときから、おしゃれや化粧には興味があったけれど、もろもろの事情で、実行に移すことはしなかった。
優美が通っていた高校の先生は、おおらかな人が多く、生徒があまりに逸脱した行為をしなければ、優美たちを口うるさく指導することは無かった。
そのため、要領の良い人は、華美では無い色の化粧品を選んで、こっそり化粧を楽しんでいた。
優美はまじめな生徒だけど、優等生でも無い。だから、そうした生徒のまねをしても良かったけれど、所属していたのはソフトボール部。
せっかくお化粧をしても、絶対に練習で汗をかくので、崩れてしまうのである。
髪にしてもそう。あんまり長いと、運動するときに邪魔になるから、ずっとショートヘアで通してきた。
だから、大学生となってようやく、優美は晴れて化粧を楽しむことができるようになった。
大学での生活には、満足している。でも、
(沙耶先輩みたいに、家を出たかったんだけどな)
ということだけが不満だった。
父が大反対したため、独り暮らしをすることができなかったのである。
(どうせ、いつかは独り立ちしないといけないのに)
と、優美と母は思った。
いよいよ、優美が結婚でもすることになって、家を出るときがきたら、父は、どれほど取り乱すのだろう。いまから怖い。
(ま、いまんところ、そんな相手もいないんだけどね)
グレーのジャケットを羽織って、バッグを肩にかけた。
全国大会をねらう強豪チームのキャプテンなんてやっていたせいで、高校の三年間で、精神年齢が、ぐんと上がった気がする。
おかげで、同じ大学に通う男の子たちが幼く見えてしまい、異性として意識できない。
ということを、こないだ食事のときに話したら、父は、心の底からうれしそうにしていた。
「いってきます」
愛用している、コバルトブルーの傘を手に取って、マンションのドアを開ける。
エントランスを掃除していた管理人さんに挨拶をして、ひと言、ふた言、言葉を交わして、外に出る。
傘の花を開く。
ぱつ、ぱつっ、と、雨粒が傘をノックしてくる。
マンションから駅までは、徒歩で向かう。
高校時代からそうしていた。徒歩で移動する、ということを前提にして動けば、時間計算に狂いが生じないのだ。だから優美は、学校生活はもちろん、プライベートでも、遅刻をしたことが無い。
もうちょっとルーズに生きてもいいんじゃないの、と自分に対して思うところもあるけれど、遅刻している自分を想像するだけで、全身がむずむずしてしまう。
雨が生み出した朝靄が、街に立ち込めている。
白く染まる街の中に、薄桃色を見て取ることができた。
桜の花びらだった。
雨が花弁を濡らし、あるいは花弁を叩いて、花びらを舞わす。
歩道には、桜の花びらが散っていた。
優美は、足を止めて、桜の花を見上げた。
(いつ、咲いたんだっけ?)
つぼみが膨らんで、そろそろ桜の花が咲きそうだ、と思っていたら、いつの間にか花が咲いていた。それで、いつの間にか散っている。
そこに儚さを見出す人もいるのだろうけれど、優美は、桜というのは奔放で自由な花だと思う。
「やっほー。優美―」
駅の入り口のまえに立っていた沙耶は、優美に手を振った。
複数の路線が乗り入れるこの駅は、それなりに多くの学生や社会人が往来している。
しかし彼女は、そこに満開の桜が咲いているかのように、よく目立つ。
長身で、日本人離れした美しい顔立ち。こんな人は、明るく手を振っているだけで、周囲の人の視線を惹きつけてしまう。
それが、大学に通い始めたころは、上下スポーツジャージ、つっかけのサンダルといういで立ちで登校していたのだから、なおさら目立ったことだろう。
「おはようございます。沙耶先輩」
「優美さ、部活の上下関係は解消してるんだから、堅苦しいのはやめにしない?」
「でも、あたしにとって沙耶先輩は、沙耶先輩ですから」
廃部同然だったソフトボール部を立て直した、伝説のキャプテン。
大好きで、尊敬していて、嫉妬と憎悪の対象でもある人。
沙耶のおかげで、いまの優美があって、沙耶のせいで、優美は苦しんだ。
「まー、まだ高校生の気分も残ってるでしょうし、少しずつ慣らしていきましょか」
あっけらかんと言って、駅の中に入って行く。
重ね着の長袖のTシャツにジーパン、スニーカーというコーデの沙耶は、中世的な顔をしているため、性別の区別がつきにくい。
(並んで歩いてたら、恋人同士とか、勘違いする人もいそう)
優美のほうは、髪も長いし化粧もしてきたから、見てすぐに女性だとわかる。身長も、女性としては平均の部類。
二人が並んで歩いていたら、つき合っている男女のように、見えなくも無い。
実際、二人の交友関係は深い。つき合いたてのカップルなんかよりも、よっぽど深い。
どうやってチームを育てていくか、日夜、濃密な話し合いを繰り返し、試合の中では、何度と無く修羅場をくぐり抜けてきた仲。もはや戦友である。
ホームに電車がやって来る。
癖で、高校のほうに向かう電車のホームに行こうとしたが、沙耶が注意してくれたので、ホームを間違うことは無かった。
「沙耶先輩は、いつも、あたしの先を行きますね」
「おん?」
「あたしは、沙耶先輩が作ってくれた道を歩くだけです」
愚痴のような、皮肉のようなことを口走っていた。
ひさびさに二人だけで会ったから、溜まっていた言葉をぶつけたくなったのだ。
ちょうど電車がホームに滑り込んできたので、沙耶からの応えを聞くことはできなかった。
始発駅付近から乗車したのであろう人たちで座席が埋まっていたので、優美と沙耶は、手すりにつかまった。
「優美は、頭がいいから、せっかちになっちゃうんだよね」
電車が発車して、街の景色が流れ出したときに、沙耶は言った。
(沙耶先輩が、それ言う?)
とツッコもうとしたら、その言葉は、のどに上がってくるまえに、せき止められた。
たしかに沙耶の高校時代は、野生児みたいで、制御するのがひと苦労だった。
でも、みんなの先頭に立って、チームをけん引はしたけれど、決して沙耶は、焦ってはいなかった。
部員の数が圧倒的に不足しているのに、それぞれの適正に合ったポジションや練習方法を与えて、しっかりと土台を作り上げていったのだ。
「そっか。そうですね」
優美は、沙耶を越えたい、越えないといけないと焦るばかりに、自分を追い詰めてしまった。
でも、そうさせた原因は、沙耶がなんでもできてしまうからであって、やっぱり優美にとって沙耶は、尊敬の対象で、嫉妬と、憎悪の対象でもあるのだ。
これからも、ずっと。
「晴れたわね」
沙耶が言う。
雲の間から、光が差し込んで、青空が広がり始めた。
電車は、鉄橋の上を行く。
河川敷の土手には、花を咲かせた、桜の花が並んでいる。
「沙耶先輩」
「うん?」
「やっぱり、桜の花には、青空が似合いますね」
あの桜たちも、気がつかないうちに、散ってしまう。
そして夏になって、秋になって、冬がやってきたら、また春になる。
そうしてめぐる季節を、これからは、ゆっくり感じていこう。




