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13/20

やさしい雨に包まれて

優美、高校三年生、卒業が近づいてきたころのお話

(やっぱり、もう春なんだなぁ)

 空を見上げた優美が、そう感じたのは、春らしい、暖かな日差しのおかげ。

 では無い。

 今朝は上空に、1ミリも青色を見てとることはできない。

 うすい灰色の雲が、青空を隠してしまっているからだ。

 しかし、寒いとは思わなかった。

 冬まっさかりであれば、乾いた寒風が吹き抜けて、背中を縮こませながら登校したであろう天気なのに。

 空気の中に、湿りけを感じる。

 しっとりとした空気に、草花の香りが混じっている。

 春の香りだった。

(さて、今日はどうするかな)

 昇降口で上履きに履き替えた優美は、カバンを肩にかけたまま、学校をうろつき始めた。

 三学期になると、優美たち三年生は自由登校となり、指定された登校日以外は、学校にやって来なくても、欠席扱いにはならない。

 だから、大学合格を勝ち取った生徒は、卒業式まで、好きに過ごしていい。

 厳しい受験生活から解放された生徒の中には、こないだ会った日毬みたいに、怠惰に陥ってしまう人もいた。

 優美は、そうならないように、極力、学校にやって来るようにしていた。徒歩で。

(受験生活で、太っちゃったし、太っちゃったし……!)

 気づかれないだろうと思っていたのに、こないだ、日毬に、ひと目で見抜かれてしまった。やっぱり、見る人が見れば、すぐにわかってしまうのだ。

 あの日からというもの、優美の登校頻度は、さらに多くなった。

 とはいえ、すでに大学合格が決まった優美は、学校に来てもやることが無い。

 大学よりもさらに先の目標がある人は、手の空いている先生にお願いして、個人的に補習をしたり、自習をしている。

 そんな人たちに比べて、優美は、将来、やることが決まっていない。

 大学生活を楽しみたいという、ゆるい立場の優美が、校内を徘徊していることには、多少の罪悪感がある。一年生二年生は、もちろん通常授業があるわけだし。

 なので、どこか目立たない場所で、適当に時間をつぶして、ひっそりと帰宅する。

 それが、近ごろの優美の行動パターンなのだった。

(今日も、旧校舎で、本読もうかな)

 階段を上って、二階の端っこにある、図書室に入った。

 途中、何人かの生徒が、優美に会釈してきた。

 ピンクや黄色の紐リボンを巻いている生徒たちだった。

 この学園では、一年生がピンク色のリボンを巻いて、二年生は黄色、三年生は緑のリボンを、スクールシャツに巻きつけて、蝶結びで首元に垂らしている。

 顔見知りでなくとも、首元のリボンの色を見れば、その人が上級生なのか下級生なのか、すぐにわかる便利なシステムだ。

 上下関係は、さほど厳しくない校風だけど、先輩へのあいさつは欠かさないようにという指導はされている。

「あれ、清水先輩だよね? ソフトボール部の」

「そうそう。引退してから、髪伸ばしたんだよねー」

「ショートも似合うけど、いまの髪も素敵よね」

 優美は、ソフトボール部のキャプテンとしてだけでは無く、すぐれた選手だということで、リボンの色に関係なく、顔が知られていた。

(あー、もう。しかたないなぁ)

 ひそひそと、優美の噂話をする女生徒たちに。

「ありがとう。そういうの、直接、言ってもらえると、もっとうれしいかな」

 階段の途中で立ち止まって、さわやかに笑んでみせる。

 そして、ミディアムボブの髪を、さらりと揺らしながら、進行方向に向き直る。

 背後から、きゃーっ! と、黄色い声があがった。

 清水優美。にくいほどの人たらしっぷりであった。

 高校のような、狭いコミュニティの性というかなんというか、優秀な生徒というのは、有名人化してしまうものである。

 そこにきて、優美は外見も整っているので、アイドルみたいなあつかいを受けることもあった。

 男女共学の学校であれば、男子のほうにも視線が分散するのだけど、あいにく、ここは女子校である。

 優美みたいな有名人は、女子からの視線を、一身に集めてしまうのだ。

 これがまぁ、ただの運動部女子にすぎない優美からすれば、うっとうしくもあるのだけど。

―――他人の視線を集めるのはいいことでしょ。ソフトボールのことを、なんにも知らない人に、かっこいいって思ってもらえるプレーが良いプレーなのよ―――

 先代のソフトボール部キャプテンは、そう言ってはばからなかった。

 たしかに彼女は、いつも他人の視線を奪っていた。良い意味でも悪い意味でも。

 そして、他人との間に壁を作らず、自分を慕ってくれる女生徒たちへのサービスを欠かさなかったため、いつしか、ソフトボール部は校内で人気集団になり、誰を推すかというファンクラブのようなものが自然形成された。

 優美たち後輩も、その先輩の教えを守り、できるかぎり、自分に好意を向けてくれる生徒へは、サービスを惜しまないようにしていた。

 そうして大勢の人に注目されれば、練習でも試合でも、手抜きができなくなるからだ。

 浮ついたお祭り騒ぎのようだけれど、実は合理的な理由が潜んでいる。それは前キャプテンを如実に表している。

 ただし、天然でファンサービスができる先代キャプテンと違って、優美は、「意識して」それを行っているので、精神がすり減るのである。

 朝の図書室は静かだった。

 ホームルームが始まるまでの時間を利用して、借りていた本を返却する生徒や、本棚の本を物色する生徒の姿が見られた。

 優美に気づいた後輩たちもいたけれど、図書室内のため、静かに会釈をしてくる程度だったので、優美も小さく手を振って応えるのにとどめた。

「最近、よく利用されますね」

 カウンターに座っている図書委員の子に、話しかけられた。

 私語厳禁の空間にあって、声を発する権限を有している生徒だった。

 リボンの色は黄色だったので、彼女は二年生だ。来年度からは、最上級生。学校生活が身体の一部になっているほどの貫禄がある。

「これまで、ソフトボール一筋だった反動で、卒業間際になって、読書に目覚められとか?」

 そうなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 優美は、文庫本サイズの本を数冊、彼女に手渡した。

 読書に目覚めた、と断定して良いのか判断に迷う、女性向けのライトノベルである。

 本の裏表紙に張られているバーコードが読み込まれていくのを、眺める。

 優美が、自由登校にもかかわらず、足しげく学校に来てしまう理由は、いくつか挙げられる。

 自由登校だからといって、自堕落な生活に陥らないようにするため。

 受験期間中に体重が増えてしまったため、運動の代わりに。

 学校との別れを惜しむため。なんていう、感傷的な理由も、あってもいいのかもしれない。

 でも、それらすべてが、表向きの理由な気がする。

 他人に納得してもらうための、方便にすぎない気がするのだ。

「返却のし忘れに気をつけてくださいね。うっかりしていると、卒業式が終わった後に、学校に本を返しに来ることになってしまいますよ。清水先輩『は』、心配ないでしょうけど」

「?」

 ひっかかりを覚えて、聞いてみた。

「もしかして、そういう前例、あるの?」

「知らないんですか?」

「うん」

「そうですか。清水先輩も、知らないんだ……」

 彼女は、不自然にもったいつけてから。

「天川沙耶先輩」

「え?」

「天川、沙耶先輩。ですよ。去年、本を借りっぱなしで卒業してしまって、学校から連絡がいったんですって。郵送で返却してもらったそうです。だから、卒業間際の先輩たちには、必ず注意するようにって、司書の先生から厳しく言われてるんです」

「そっ、そうなんだ……」

 なんだろう。この、知らないところで、自分の子どもが、他人様に迷惑をかけていたような気持ちは。

 どうしてあの人は、どこへいっても先陣をきり、前例を作ってしまうのだろう。

 恥ずかしくなって、優美は、すぐに図書室を退散しようとした。

「たまには、ここで読んでいったらどうですか?」

 そう言われて、応えた。

「独りになりたいんだよ」

 それなら、学校なんていう、顔見知りの巣窟にやって来なければいいのに。

 自分の言行が、矛盾していて。でも、その応えが、一番、自分の行動の本質を表現していると思った。





                      ※





 文章を目で追う。

 意味を理解して、次の文章へ。

 そしてページをめくる。

 旧校舎、あるいは第二校舎と呼ばれる施設は、本校舎から離れた、森の中に建っている。

 ところどころ老朽化が進んでいるけれど、依然として現役。

 優美も、よくお世話になっている施設だった。

 主な使用目的は、補習授業。

 それと、外で活動している運動部が、雨のために練習できないときには、第二校舎で階段の上り下りをしたりして、体を動かすことが可能だ。

 それと、受験期間に入って、三年生が自由登校になると、自習室としても活用される。

 図書室でも、人の出入りや声が気になって集中できないという人は、ここの教室を利用する。

 もうこの時期になると、受験生の姿は見えなくなるけれど。

 教室の隅には、レトロなスチーム暖房が設置されている。これも、まだ現役。

 寒い冬は、これで暖をとりながら、ひたすら問題を解きまくった。

 そんなスチーム暖房も、いまはもう稼働していない。来冬まで、長いお休み期間に入っていた。

 一冊の本を読み終えて、優美は、椅子に座ったまま背伸びをした。

 少女漫画ちっくな、恋愛小説だった。という感想を抱いた。

 これを読んだことにより、優美の中で、なにかが劇的に変わった、ということも無い。

 でも、だらだらと、動画やテレビを見ているときと違って、物語の内容はきちんと理解することができた。おもしろいとも思った。

 しかし、それ以外には、なにも無いのだ。

 登場人物に感情移入することも無い

 こんな恋愛をしてみたいと、憧れを抱くことも無い。

 強いて言うのであれば、今日、この第二校舎にいること、そのものが目的であるような……。

「あっ!?」

 身を乗り出して、窓にへばりついた。

 小降りながら、雨が降り始めたのである。

「まずい……」

 優美は、曇っているにもかかわらず、傘を持って出かけて来なかった。

 春の足音が聞こえてきた今日このごろ、雪は降らないだろうと思ったからだ。

 じゃあ、気温が上がったら、雪の代わりになにが降るのか、ということが、完っ全に頭から抜けていた。

(なにが、ここにいること、そのものが目的、だよ……)

 曇っていれば、雨が降ることもある。

 そんな、あたりまえすぎる、現実的な思考ができないなんて恥ずかしい。やっぱり、小説の世界に感化されているじゃないか。

 雨足が強まる。

 雨粒の量も大きさも、時間の経過とともに増えていく。

(バスが来るまで時間をつぶして、ダッシュで乗車するしか無いか。いや、待てよ……)

 優美はスマホに、メッセージを入力して送信した。

 ソフトボール部の同学年だけがアカウントを作っているグループチャットに、<いま、誰か学校にいない?>と送信すると、すぐに既読マークがつく。

 数分を待たず、<どしたー?>とか、<いま起きたとこ>などの反応があった。

 仲間って、ありがたいものだ。

 部活動は引退し、それぞれの進路に向かって歩き出したけれど、仲間たちとは、ちゃんとつながっているの。

 大事な存在を改めて認識すると、じんと胸が響いた。

 ただし、学校にいる。という反応は返ってこない。

 あたりまえだ。自由登校になったいま、学校に通ってくる三年生のほうがめずらしいのだから。

(やっぱり、バスが来る時間ぎりぎりに、ダッシュでバス停に行くしか無いか……)

 優美は、ため息まじりに、二冊めのライトノベルを開いた。

 窓の外では、音を立てずに、しっとりとした雨が降り注いでいる。

 昼間なのに、薄暗い。

(時間の感覚が、おかしくなりそう)

 雪が降っているときとは、異なる情緒。冬の間は、そんなことは感じなかったのに。

 唐突に不安になって、教室の時計を確認した。現在は、午前の10時をまわったところ。

 一年生と二年生は、授業のまっ最中。

 旧校舎も、優美しか利用していないのではと思えるほど、静まりかえっていた。

 読書をするには、もってこいのロケーションではあるのだが。

(なんで、傘持って来なかったかなぁ)

 という反省ばかりが浮かんできて、集中することができなかった。

 完全に、時間をつぶすだけに本を読み、読みながら、ときどき時間を確認したものだから、なおさら読書に集中できなかった。

(帰りながら、読み直そう)

 そろそろ、バスがやって来る時間だった。

 雨は強まっていないけれど、止む気配も無い。

 濡れるのは嫌だけど、自業自得である。

 本をカバンにしまって、教室を出た。

「優美ちゃん」

美空(みそら)

 廊下に出た瞬間、隣の教室から出てきた女生徒と、出くわした。

 あまりにもタイミングがぴったりだったので、相手が、優美のことを見張っていたのかと思うほどだった。

「グループチャット、見てくれたの?」

「チャット、ですか? いいえ」

 美空の、その反応を見るまでも無く、見ていないんだなと優美は推理することができた。

 さっき送ったメッセージには、美空からの反応は無かったし、今日、ここに優美がいることを、美空は知らないはずだった。

 だから、ここでばったり会ったのは、本当にただの偶然だ。

「優美ちゃんは、なにか用事があって、学校に来たんですか?」

「あー……。いや、うーん……」

 優美は、今日の空模様みたいに、すっきりしない返事をした。

「用事……、あるような、無いような」

 それは事実なので、そう応えるしか無い。

「ああ、そういうとき、ありますよね」

 美空は、右手を握ってグーを作り、口にあてて上品に笑んだ。

 優美と同級生の東風美空(こちみそら)の実家は、お金持ちで、美空は正真正銘のお嬢様育ちだった。

 それでいて、ソフトボールの実力は確かで、夏の大会でも注目を集めた選手の一人だったけれど、親と、ソフトボールをするのは高校までと約束していたので、優美と同じように、夏の大会の後に、すっぱりと引退した。

「私も、なんとなく学校に来ちゃったんです」

「美空も?」

「はい。学校にお別れしたいとか、理由はいろいろあるのかもしれませんけど、学校に来るのが目的、っていうのが、一番近いと思います」

「そうなんだ」

「あら。優美ちゃんからメッセージが送られてきてたんですね。ごめんなさい、気がつかなくて」

「うん。いいよ」

 優美からのメッセージに関係無く、美空はここに来ていた。優美と同じような想いを抱いて。

 同級生とか、部活の仲間とか、肩書あってのつながりも素敵だけど、こういう、目に見えないつながりも素敵だと思った。

「優美ちゃんは、なんで、学校にいる人を探していたんですか?」

「えっ。えーっと、ね」

 優美は逡巡してから。

「傘、持ってくるの忘れちゃってさ。それで、誰か学校に来てないかなって」

 正直にミスを告白することにした。たぶん、相手が美空じゃなかったら、そうしていなかった。

「傘、忘れたんですか?」

「うん」

「お天気、良くないのに?」

「うん」

 美空は、めずらしいものを見るような顔になって。

「ふふふ。そうですか」

 ふにゅっと目じりを下げて、笑う。

 包容力がにじみ出ている。なんだか、年上のお姉さんと接している気分になる。

「それじゃあ、私の傘、使いますか? 一本しかありませんから、一緒に入ってもらうことになりますけど」

「いい? バス停まで走ろうと思ってたんだけど」

「もちろん、優美ちゃんなら大歓迎ですよ。でも、その代わりに……」

「代わりに?」

 さて、なにを見返りに求められるのか。

 美空のことだから、変なことは要求してこないはずだけど、彼女は、たまに、予想外の行動に出ることがあるから、油断ならない。

「寄り道に、つき合ってください」

「うん。ぜんぜんかまわないよ」

 自由登校の身、時間はごまんとある。

 それに、優美は傘に入れてもらう立場なのだから、拒否権は無い。

「それじゃ、行きましょうか」

 美空が弾むような声色で言いながら、腕を絡めてくる。

 柔らかい胸が、優美の二の腕に当たる。

「ちょ、ちょっと美空」

「いいところ、行きましょうねー」

 美空が艶っぽい視線を向けてくると、優美は頬を赤らめる。

(あれ? まえにも、こんなことがあったような……)

 優美がそれを思い出さないうちに、美空は歩き出してしまった。






                      ※






「ねぇ、美空」

「どうしました? 疲れちゃいましたか?」

「うん。少し疲れたかも」

「それじゃあ、あそこで休憩しましょう」

 美空は、優実の手を引いて、屋根の中に入った。

 そこは、登山する人が休憩するための東屋だった。

 雨が、木製の屋根に当たる音、木々の葉を揺らす音が、山に響いている。

 美空が寄り道したいと行った先は、町はずれの山だった。

 山といっても、斜面はなだらかなので、子どもからお年寄りまで、安心して歩くことできる、ご近所では有名な散歩コースである。

 もっとも、二人みたいに、雨中の山登りを決行する人は稀だけれど。

「そうか。梅雨のときだ」

「そうですね。なんだか、すごく昔のことみたいですね」

 夏の予選大会を控えた梅雨のこと。

 優美は、今日みたいに、美空に言われるままに、二人でこの山にやって来た。

 あのときも、雨が降っていた。

「あの時期は、優美ちゃんもナーバスになっていましたよね」

「そうだね」

 誰もが認める、スター気質の天川沙耶の後を継いでキャプテンになった優美には、自分でも気づかないほどのプレッシャーがあった。

 先頭に立って、部を0から作り直し、もはや伝説となった沙耶を、越えなくてはならない。

 だから、時間を惜しんででも練習したいのに、梅雨の雨のせいで、全体練習ができない日々が続いていた、あのころ。

 言い知れない不安を抱えて、毎日をすごしていた。

 それでもキャプテンとして、いつもどおり、冷静に部を見渡さないといけない。そうやって、余計に自分を追い詰める。

「美空には、バレバレだったね」

 そんな優美の気を紛らわせるために、美空は、ここに優美を連れてきた。

 雨があがり、展望所から眺めた景色は、格別だった。

「私も、優美ちゃんと同じでしたから」

「あ、そういえば……」

 美空のクラスメイトでもある香奈が、予選が近くなってから、美空がナーバスになっていたと証言していた。

 優美から見ると、美空は、いつも穏やかに笑っていて、感情が変化することが無いように思えるけれど。

「そろそろ、行きましょうか」

 スカートを、ぱたぱたとはたいて、美空は立ち上がった。

 展望所へと続く林道には、靄が立ち込めている。

 乾燥していた冬には、見られなかった光景だ。

「私たちの世代は、大変でしたよね」

「うん」

 後輩たちのまえでは、絶対にできない会話だった。

 沙耶は、なんでもできた。

 廃部同然の状態から部を復活させることも、人を集めることも、チームを勝ちに導くことも、ぜんぶ一人でやってしまった。

 優美は、沙耶が作ったものを受け取っただけ。

 心のどこかに、そんなコンプレックスを抱えていた。

 どうにか解消しようとしても、優美には、なにも無い。

 人より速く走ることもできないし、試合を決める一打を放つ能力も無い。

 それでも、沙耶からキャプテンをひき継いだ優美は、弱みや悩みを表に出さないようにしていた。

「私たち、持っていない世代、だったんですよね」

「美空が、持っていない?」

 沙耶が引退した後の四番バッターを任されていた美空は、チャンスの場面に、めっぽう強かった。決勝打を放って、チームを何度も勝利に導いた。

「でも、沙耶さんみたいにホームランを打って、自分一人で試合を決めることはできません。誰かが、ホームに帰って来てくれないと、点は入りませんから」

 誰かが、とほほえみながら、美空は優美を見つめる。

「あのプレーは、私と優美ちゃんの、最高傑作でしたね」

 今度は、雨を降らせている空を見上げる。

 美空はそこに、あの瞬間を思い描いていた。

「そうだね。本当に」

「気持ち良かったですね」

「あんなに感情を表に出したの、生まれて初めてだったよ」

 そして、これから先の人生で、あんなに感情を表に出すことは、もう無い。

 だから最高傑作なのだ。あのプレーも、あのチームも。

 林道を抜けると、木造の足場が組まれた、展望所がある。

 そこからは、街の景色を一望することができた。

 暖かな春の雨が、優しく街を包んでいる。

 アスファルトが蒸された香りが、鼻をくすぐった。

「もう、春ですね」

「うん。もうすぐ卒業式だ」

 卒業。

 それを口にしたときに、じんわりと体が熱くなって、体を感傷が駆け巡っていく。

(あれ。なんで……?)

 ほろり、と涙の粒が、頬を伝う。

「優美ちゃん、がんばりましたね」

 そう言った美空の瞳からも、水滴が垂れた。

「美空も、がんばったよ」

 優美が言うと、美空は笑った。

 笑いながら、泣いた。

 優美も、泣いた。

(あー、そっか。あたしたちは、お互いを待ってたんだ)

 高校を卒業する通過儀式として、この場所にやって来るために。

 雨が降る。

 泣いている二人を、人目から隠すように、やさしく。

 


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