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凡人の価値

 ポリバレント。

 という単語をご存知ですか?

 よく、ご老人が使っている入れ歯安定剤。

 それはポリグリップ。

 丈夫で乾きやすい、衣服に使われている素材。

 それは、ポリエステル。

 丈夫で長持ちなうえに、吸湿性も低くて乾きやすい、素晴らしい素材です。

 ちなみに、ポリエステルという素材とはなんぞや。ということで調べてみますと、多価カルボン酸とポリアルコールを脱水縮合して、エステル結合を形成して云々……。

 とまぁ、理系でない人間には、なんのことやらさっぱりといった説明がされておりますけれども、それはさておきまして……。

 いま、ちらりと出てきました単語、「多価」というのが、ポリバレントの意味だそうです。

 多くの価値。という漢字を使うわけです。

 人間、生まれてきたからには、誰かに感謝されたいとか、誰かの役に立ちたいとか、そういう志をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

 とても素晴らしいことです。

 他人様の役に立つことができれば、自分という存在に価値を感じることもでき、とても充実した人生を送ることができるでしょう。

 伊東紀子もその一人です。








 紀子の朝は、早いのです。

 おばあちゃんっ子だったせいで、昨今の若者にしてめずらしく、早寝早起きが彼女のモットー。

 目覚まし時計やスマホのアラームが鳴るよりも早く、5時30分頃には、ぱっちりと目が覚めます。

 ぱっちり、と言っても、紀子の場合は、常に目が三分の一くらい閉じていて、眠たそうな顔をしていますので、ちゃんと目が覚めているのか判別するのが難しいのですが……。

 お手洗いを済ませたら、冷たい水で顔を洗い、洗口液で口をゆすぐ。

 肌着を洗濯籠に入れたなら、ブラトップを羽織ります。

 胸の大きさが、平均以下っていうか慎ましいサイズの紀子なので、ちょっとした外出ならばこの装備でじゅうぶん足ります。

 なお、こちらのブラトップですが、丈夫で長持ち、ポリエステル素材となっております。

 その上に、スポーツ用のアンダーシャツを着込み、クローゼットからジャージを取り出して装着したら、賃貸マンションのドアを開けて外に。

 朝の散歩は、彼女のライフワークなのです。

 なだらかな坂を上れば、10分もしないうちに公園に到着します。

 紀子と同じように散歩をしている人や、早朝出勤のサラリーマンの姿も、ちらほらと見かけることができますが、まだ朝靄がたち込める中、女子の独り歩きは危険かもしれません。

 ですが彼女は、背中のケースにバットを忍ばせているので、多少の事態には対応できます。

 それに、現役スポーツ女子の紀子なので、いざとなれば、すぐに駆けだして助けを求めることが可能なのです。

 ただし、彼女の足の速さは平均のドまんなかですが。

 朝の空気を吸い、公園の木々を眺めたりして、ゆーっくりと歩いて、首や肩を回したり、屈伸運動をしたり……。

 そうしているうちに、広場に辿り着きます。

 ぺたんとお尻をついて柔軟体操。

 それを済ませたら、ケースからバットを取り出して、素振りを開始します。

 まるで、朝靄を斬り裂くような鋭いスイング!

 朝の閑静な公園に響くバットの音!

 なんていう、おおげさな比喩は必要ございません。

 なぜなら、紀子のスイングは、平凡そのものだからです。

 彼女が所属している大学の女子ソフトボール部は、全員が経験者で、レベルも高い。全体練習は、決められた時間内で集中して行い終了。足りないところは個人的に補う。という、自主性重視の方針を採用しています。

 これよりも、さらに上のレベル、例えば企業のチームに所属したり、プロや全日本代表を目指すにしても、ソフトボールを辞めて社会に出るにしても、大学を卒業をしたなら、自分のことは自分で決めて、そのことに、自分で責任を持たなければならないからです。

 紀子は、本格的にソフトボールをするのは、大学までと決めていました。

 親友の薫と違い、彼女自身が、いまよりも上のレベルで競技を続けるのは無理だと自覚しています。

 打つことも、守ることも、走ることも平均値で、突出して秀でた能力を持っていないからです。

 でも、そんな彼女ですが、いまのチームにも欠かせない戦力で、誰にも負けない能力を持っていました。

 それは……。

「紀子」

「監督さん」

 紀子は驚き、三分の一ほど閉じている目のまぶたが反応して、少しだけ開きました。

「近所だから、そのうち、誰かに会うとは思っていたけど……。まさか、紀子が最初なんてね」

 その女性は、久しぶりに帰郷した娘を迎える母親のようにほほえみました。

「太りました?」

「言いかたっ」

 彼女は、紀子のほっぺたをつねりました。

「体罰反対」

「だったら、あんたも言葉を選びなさいよ。ふくよかになったとか、貫禄がついたとか……。てか、あいかわらず、つねりたくなるほっぺたしてるわねー」

 餅みたいにむにーっと伸びる頬は、紀子の特徴でした。

 どれだけトレーニングをして無駄な肉を落としても、ほっぺたの柔らかさだけは損なわれないのです。

「まぁでも、このほっぺたには助けられたかもしれないわね……」

「最初のころは、まだ黒歴史の後遺症が残ってましたからね」

「黒歴史言うなっ」

「体罰反対」

 両手を使って、紀子の頬をつねる。

「ととっ……。つい昔を思い出しちゃったわ」

 慌ててベビーカーに手を戻した彼女は、奥沢友恵おくさわともえ

 紀子たちが、高校時代に所属していたソフトボール部の監督です。

 紀子が余計なことを言って、監督さんにほっぺたをつねられるのは、当時、日常茶飯事でした。

「良かったら座らない? って、自主練の途中か」

「いえ。ひと休みしようと思っていたので、ちょうど良かったです」

 とスマートに応える紀子。

 マイペースな性格をしていますが、気遣いができる良い子なのです。

 ベンチに腰かけた紀子は、ベビーカーの中を覗きました。

 生後、数か月の赤ん坊が、つぶらな瞳で紀子を見返してきます。

(どことなく似てるわね……)

 見つめ合う我が子と紀子を見て、友恵は思いました。

「大変ですか?」

「ん?」

「子育て」

「そうねぇ。言葉は通じないし、目は離せないし、唐突に泣き出すわで、ままならないことばかりよ。今朝も、急にぐずりだしたから、散歩に連れて来て、やっとなだめることができたわ」

 と、友恵は子育ての大変さを語りました。

「でも……」

 ふーっとひと息、

「あんたたちの監督をするよりも、何倍も楽だわ」

 友恵は、渋々笑いました。

 笑うしか無いのです。

 良く言えば個性的でおもしろい。

 悪く言えば破天荒で、なにをしでかすかわからない。

 そんな女子高生たちの監督を務めることに比べれば、赤ん坊ひとりのめんどうを見るのなんて、わけ無い。まして、自ら苦しい思いをして産んだ子なのだから。

「私には、子どもを授かる資格なんか無いって、ずっと思ってたんだけど……」

 友恵が差し出した指を、赤ん坊が握りました。

「自分の子どもにも、同じことをするんじゃないかって思ったんですか?」

「そうね。だから悩んだわ」

「でも、手は出さなかったですよね?」

「若者の個性を潰していたっていう意味では、そんなに変わらないわ」

 そして、あのとき指導した子どもたちが自分と同じことをして……。そんな負の連鎖が、どこかで繰り返されているのではないか。

 そう考え始めると、いまも寝つきが悪くなってしまう。

 友恵は、苦い過去を持っていました。

「でもね。人間って、根本のところは変わらないのよ」

「はい。監督さんが常識人だから、あのチームは秩序を保ってたんです」

「凡人だって言われてるみたいなんだけど……」

「はい。監督さんは、最高の凡人です」

「こら」

「体罰反対」

 友恵は、優しく紀子の頬をつねり、

「いろんな意味で、あんたには助けられたわね」

 紀子たちを率いていた時代を思い出しました。

 まだ部員が多くなかった時代、紀子は、チームにとって、重要な役割を果たしていたのです。

 なにをやっても平均点の紀子ですが、彼女は、複数のポジションを守ることができます。

 つまり、なんでも屋です。

 これ。といった特徴はありませんが、どんな仕事を任せても、そつ無くこなしてくれるのです。

 こういう選手を、サッカー用語ではポリバレントと表現し、野球やソフトボールではユーティリティプレーヤーと呼び、とても重宝されます。

 誰かが怪我をして困ったとき、すぐに交代できるからです。

 主力戦力として、華々しい活躍をすることは稀ですが、組織を下支えしてくれる、一家に一台、縁の下の力持ちです。

「最高の凡人ってのはね、紀子みたいな人のことを言うのよ」

 友恵は、紀子の肩をぽんぽんと叩いて立ち上がり、

「自主練の邪魔して悪かったわね」

 と手を振って、家路につきました。

(高校時代に言ってもらえれば、もっとやる気が出たのに……)

 あいかわらず不器用で、かわいい人だ。と紀子は思いました。

 紀子は、素振りを再開しました。

 まるで、朝靄を斬り裂くような鋭いスイング!

 朝の閑静な公園に響くバットの音!

 なんていう、おおげさな比喩は必要ありません。

 なぜなら、紀子のスイングは、平凡そのものだからです。

 誰しもが、あの日本人メジャーリーガーのように、バッターとしてもピッチャーとしても超一流の才能に恵まれているわけではありません。

 オリンピック出場をねらえる人たちのような、優れた身体能力も持っていないかもしれません。

 でも、なにかに秀でていなければ、他人の役に立つことはできないのでしょうか?

 誰かの役に立って、自分に価値を感じるような人生を送ることはできないのでしょうか?

 ユーティリティ。

 という言葉の意味をご存じですか?

 和訳をすれば、〝役に立つ〟という意味だそうです。

 特別な才能が無くても、突出したなにかを持っていなくても、誰かの役に立つことはできるのです。



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