表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/79

沈殿する真実

 湿った石と腐敗した潮の匂いが濃くなる中、テラたちは『澱み』のさらに奥へと足を踏み入れていた。


 足場はすでに整備された通路とは呼べず、崩れた石畳と生体珊瑚の残骸が混ざり合った、不安定な斜面になっている。


 上層から流れ落ちてくる濁った水が細い筋となって足元を這い、踏みしめるたびにぬるりとした感触が靴底にまとわりついた。


 先導するのは、あの老人だった。


「足元に気をつけろ。ここから先は、もう“市場”の管理も届いておらん」


 振り返らずに投げられる言葉は短いが、その一つ一つに実感がこもっている。


 テラは周囲を観察しながら、淡々と口を開いた。


「……改めて聞こう、ネリア。何があった」


 ネリアは一瞬だけ目を伏せる。


「記録ではなく、体験として語れる者は……もう多くはない。私も、完全に見ていたわけではないが……それでもいいか」


「構わん。綺麗な真実など、この場所には似合わん」


 短い沈黙の後、ネリアは口を開いた。


「始まりは“ズレ”だった」


 テラの眉がわずかに動く。


「ズレ?」


「潮と星の同期だ。アトラ・ネリウスは、地上の月と星の運行を基準に、深海の潮流を“調律”することで成り立っていた。……だが、ある時からそれが合わなくなった」


「天体のズレか? それとも観測の誤差か?」


「どちらでもない。“観測結果”そのものが変質した」


 その言葉に、テラの視線が鋭くなる。


「……書き換えられた、ってことか」


「そうだ」


 ネリアは頷いた。


「星図が、ある日を境に“違うもの”を示し始めた。わずかな差異だったが、この都市にとっては致命的だった。十六拍の周期が狂い、共鳴が崩れ、やがて生体建築そのものが“正しい形”を見失った」


 老人が低く唸る。


「最初は誰も信じなかった。星が狂うなど、あり得ないからだ。だが、狂っていたのは我々の側だったのかもしれん」


 テラは腕を組み、静かに言う。


「いや、違うな。星は狂わない。狂うなら“観測系”だ」


 その一言に、空気がわずかに張り詰めた。


「お前……何を知っている」


「何も。ただの推測だ。だが、この都市は“星をそのまま見ていた”わけじゃない。外の海流をレンズにして、光を再構成してる」


 テラは天井の方向――見えない上層を指す。


「つまりここで見てる星は、“加工された星”だ。なら、その処理系が壊れれば、いくらでも偽れる」


 沈黙。


 それを破ったのは、ネリアだった。


「……音律院でも、同じ仮説は出た。だが証明できなかった。調律塔の中枢に入れる者は限られていたし、その頃にはすでに……」


「すでに?」


「守護機構が暴走していた」


 外で聞いた機械音が、ここでも微かに響く。


「《星護の獣》だけじゃない。市場の自動機構、調律補助装置、防衛システム……すべてが“誤った星図”を正しいものとして処理し始めた」


「だから排除対象も変わった」


「ああ。動くもの、光を持つもの、音を乱すもの――すべて“異常”と見なされた」


 老人が続ける。


「我らは逃げた。光の届かぬ場所へ。……ここなら、あの連中は来ない。いや、“認識できない”のだろうな」


 テラは小さく息を吐いた。


「なるほど。じゃあ質問を変える」


 二人を見る。


「“いつから”だ?」


「……およそ、三千年前」


「長すぎるな」


 即答だった。


「普通なら崩壊してる。なのにこの都市は“壊れきってない”」


 テラはゆっくりと言葉を選ぶ。


「誰かが維持してる。完全じゃないが、致命傷にもならないように」


 ネリアの目が細まる。


「……調律塔か」


「そこに“何か”が残ってる可能性が高いな。自動か、あるいは――」


「――意思か」


 老人の言葉に、空気が重くなる。


 テラは否定も肯定もしなかった。


「もう一つ」


 導灯に触れる。


「これ。《アトラの導灯》。お前ら、“王のもの”って言ったな」


 老人はゆっくりと頷く。


「それは“鍵”であり、“権限”だ。都市の深層に干渉するための……本来は、王とその側近しか扱えぬもの」


「なのに、俺が使えてる」


「……だから異常なのだ」


 ネリアが静かに言う。


「都市が、お前を拒絶していない。それどころか、“受け入れている”」


「選ばれた、ってやつか?」


「そういう言い方は好かんが……否定はできない」


 テラは少しだけ考え、そして結論を出す。


「じゃあ話は簡単だ」


 二人を見る。


「調律塔に行く。原因を潰す。星図を正常に戻す」


 あまりにも簡潔な言葉。


 だがその内容は、この都市の根幹に触れるものだった。


 老人は苦く笑う。


「簡単に言う……。だが、その道は《星護の獣》どころではない。市場の中枢には、“星座そのもの”を模した守護機構が眠っている」


「上等だ」


 テラは即答する。


「パズルか戦闘か、どっちでもいい。解けばいいだけだ」


 ネリアはその横顔を見て、わずかに息を吐いた。


「……やはり、お前は異質だな」


「今さらだろ」


 短いやり取りの後、ネリアは槍を取り、立ち上がる。


「だがいい。案内しよう。……この澱みを抜けた先に、中央層へ繋がる古い昇降路がある」


 老人が最後に口を開く。


「ネリア」


 彼女が振り返る。


「……もし、本当に“星”を正せるなら」


 その言葉は、祈りに近かった。


「この街を、終わらせてくれ」


 ネリアは答えなかった。


 ただ一度だけ、深く頷いた。


 テラは何も言わず、背を向ける。


 導灯は、依然として静かに沈黙していた。


 やがて、通路は唐突に途切れた。


 その先には、下層へと続く縦穴。かつては昇降路だったのだろうが、今は崩落し、螺旋状の骨組みだけが辛うじて形を保っている。


 老人が、そこで足を止めた。


「……ここまでだ」


 短く、だがはっきりと告げる。


「案内は終わりか」


 ネリアの問いに、老人は頷く。


「この先は“澱み”ではない。“沈殿”だ。……もはや、我らの生きる場所ではない」


 テラは縦穴の奥を覗き込む。光は届かず、底は見えない。


「残響者、か」


「ああ」


 老人の声が、わずかに低くなる。


「音に喰われた者たちだ。……気をつけろ。奴らは“聞いている”」


 一拍の沈黙。


 そして、テラへ視線を向ける。


「その灯……使い方を誤るなよ」


「誤る前提で話すな」


「ならばいい」


 それだけ言うと、老人は背を向けた。


 止める者はいない。


 その背は、すぐに闇の中へと溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ