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澱み

 黄金の光が、網膜を灼いた。


 外環回廊の青白い、どこか心許ない燐光に慣れていたテラの瞳にとって、その輝きはあまりにも強すぎた。


 視界が一瞬だけ白く飛び、鋭い痛みと共に遅れて輪郭が戻ってくる。


 一歩踏み出すごとに、足元へ投影された「星図」が水面に落ちた雫のように波紋を描いて揺らぎ、現実の石畳と虚像の光の境界を曖昧にしていった。


 そこは――『潮の市場(タイダル・マーケット)』。


 かつてアトラ・ネリウスの住人たちが最も多く集い、富と知識、そして地上のあらゆる贅を尽くした娯楽を貪ったとされる、深海最大の巨大商業圏である。


 門を抜けた瞬間に視界は開けたが、それはテラが想像していた「広場」という言葉で収まる規模ではなかった。


 直径数キロメートルに及ぶ広大な生体ドームの内部には、珊瑚を削り出し、真珠の粉で磨き上げられた多層構造の街並みが、地平の先まで――あるいはドームの湾曲に沿って天へと昇るように――びっしりと、血管のように連なっている。


「……これは、想像以上だな」


 思わず足を止め、テラはその光景を見上げた。


 頭上を覆う巨大な透明隔壁の向こうでは、深海の重い水がゆったりと、巨大な生き物の脈動のように流れている。


 その外側を巡る特殊な潮流が天然のレンズとして機能し、地上では決して観測できない“歪みのない星空”を凝縮して、この都市の隅々へ降り注がせていた。


 その光は、ただ明るいだけではない。

 冷徹なまでに澄み渡り、塵一つ許さないような“正しすぎる”輝きだった。


「驚くのも無理はない。ここアトラ・ネリウスの『市場』は、かつて世界中の海流が交差する結節点だった」


 ネリアが隣に並び、街並みを見渡す。


 その視線には、かつてここで過ごした者特有の懐かしさと、もう二度と戻らない時間への埋めようのない距離感が同時に滲んでいた。


「南の熱帯サンゴ礁で採れた霊草も、極北の氷海で凍らされた古の魔石も、すべてがここへ集まった。地上の商人が一生をかけても拝めないような秘宝が、ここでは日用品のように、子供の玩具のように扱われていたのだ」


 彼女は顎で一点を示す。崩れかけたアーチの先、かつては極彩色の看板が掲げられていたであろう場所だ。


「あそこを見てみろ。かつては『真珠亭』という酒場だった。星の光を溶かし込んだ酒……『星滴(アストラル・ドロップ)』を出す店でな。我らのような戦士はおろか、上位の調律師ですら滅多に口にできない代物だったが、その味を求めて遠くの海域から客が絶えなかった」


「星を溶かした酒、か。……贅沢な話だ」


「贅沢、という言葉すら生温いほどにな。……あちらの歪んだ塔は『観測塔』兼、高級宿舎だ。最上階からはドーム越しに、宇宙の端まで見えると謳われていた。」


 彼女の語りは単なる説明ではなかった。

 石のひとつひとつ、錆びついた手摺りの感触までを知っている者だけができる、生きた記憶の再現。死に絶えた都市に、かつての体温を強引に呼び戻すような残酷なまでの回想だった。


 だが――。

 現在この不夜城を支配しているのは、芳醇な酒の香でも、住人たちの笑い声でもない。


 低く重い、金属が擦れる駆動音が、厚い水圧を透かして空気を震わせる。


 どこか飢えた獣の呼吸にも似た、不快な低周波。


 メインストリートの優雅な曲線を描くアーチの影から、四足歩行の自動兵器が姿を現した。


 魚人族の勇壮な甲冑の意匠を模した装甲と、無数の星図を高速で投影し続ける複眼のセンサー――《星護(アストラリオ・)の獣(センチネル)》。

 かつては市民を守るための誇り高き衛兵であったはずの機械は、今や主を失い、プログラムされた「規律」だけを暴走させていた。


「……客はとっくに消えたのに、警備だけは過剰に残ってるか。」


「ネリア。正面突破は非効率だ。この物量とやり合うのはリソースの無駄だ。別ルートは?」


 短く問うと、ネリアはすぐには答えず、視線を足元へ落とした。

 豪奢な石畳、星図が踊るメインストリートではなく、その隙間に口を開ける排水路。黄金の光が決して届かない、湿った影へ。


「……表通りは、もはや我らの道ではない。《星護の獣》が巡回し、体温を持つものすべてを不純物として排除する死地だ。……だが、迂回路はある」


 わずかに間を置く。彼女にとって、その場所を口にすることは、この都市の「恥部」を晒すことと同義なのかもしれない。


「『澱み』。市場の華やかさの底に沈んだ場所だ。廃棄物と、流れることをやめた死んだ潮が流れ着く……忘れられた層。……かつては罪人や、光を失った者たちが身を寄せていた」


「そこに道が繋がっているのか?」


「ああ。そして……あの日から、そこを動けない生き残りもいる」


 テラの視線がわずかに動く。

「生存者、か。この状況で、よく今まで」


「光を避けて、な。都市のシステムが狂い、かつての守護者が殺戮者へと変わったあの日から、彼らはその澱みに潜り、市場の『残滓』を拾って命を繋いできた。……中央広場を迂回して議事堂方面へ抜けるなら、そこを通るしかない」


 十分だ、とテラは判断する。


 合理的で、かつ未知の領域。ゲーマーとしての嗅覚が、その「澱み」にこそ攻略のヒントがあることを告げていた。


 テラは不敵に笑い、ネリアの示した闇へと足を踏み出した。


 ――光が、途切れる。


 多層構造の隙間に隠された、珊瑚の蔦が絡みつく階段を下りる。


 そこは、先ほどまでの黄金の輝きが嘘のように消え失せ、代わりに壁面の発光苔が弱々しく、病的な青白い光を放っているだけの世界だった。


 空気は重く、海水は粘り気を帯びたような錯覚を覚える。


「……誰だ」


 闇の奥から、砂を噛んだような掠れた声。


 ネリアが即座に一歩前へ出て、槍の穂先を向けずに、その柄を低く構えた。


「私だ。外環の探索を任されていた、ネリアだ。……武器を収めろ、同胞よ」


 沈黙が支配する。テラは背後の闇に複数の視線を感じた。


 やがて、重い腰を上げるように影が動く。


 現れたのは、痩せ細り、肌の艶を失った魚人族の老人だった。


 纏っている布は擦り切れ、手にした銛も建築資材を削り出しただけの粗末なもの。


 だがその視線だけは、死に物狂いで何かを守ろうとする者の鋭さでテラを射抜く。


 老人の背後には、煌びやかな「失われた王国」のロマンなどではなく、ヘドロに塗れた、かろうじて繋がれているだけの“生”の執念だった。


「ネリア……。まさか、生きていたとは。……いや、その装備。外環の結界は、まだ生きているのか」


 安堵よりも、過剰な警戒が勝った声音。


「だが、その隣は何だ。なぜ、この『澱み』に……地上の者を連れてきた。略奪者か? それとも、上の獣どもの餌食にならなかった幸運なだけの死体か?」


「略奪者ではない。……この者は『観測者』。この死にゆく都市の音律を、再び正そうとしている男だ」


 老人の濁った視線が、ゆっくりとテラの腰へ落ちた。


 沈黙を守り、石のように揺れる《アトラの導灯》。


 その瞬間、老人の時が止まった。


 細められていた瞳が見開かれ、唇がガタガタと震え始める。


「……それは……王の……。いや、そんなはずは。あれは数千年前、奏者たちの手によって……」


「詳細は省くが、こいつが俺を選んだ。それだけのことだ」


 テラは老人の動揺を冷徹な視線で受け流し、周囲の惨状を改めて観察した。


 データの数値や、演出としての廃墟ではない。


 壊れた機械を泥だらけの手で直そうとする無駄な努力。


 わずかな資源を巡って視線で殺し合う緊張感。死と隣り合わせの中で、それでも「明日」を迎えようとする、動物的な本能。


 それは、効率と合理性を重んじるテラのこれまでの冒険において、最も“ノイズ”であり、そして最も無視できない“重み”だった。


「通らせてもらう。あんたたちの生活に干渉もしないし、危害も加えない。ただ、ここを抜ける道が必要なだけだ」


 テラが短く、だが一切の容赦を排除した明確なトーンで告げると、老人は長く、深いため息を吐き、ゆっくりと身体を引いた。


「……行くがよい。だが、この先はさらに深く、救いがない。市場の光に焼かれ、理性を失った『残響者エコー』たちが彷徨っている。……ネリアよ、お前はこの異邦人を守り通せるか?」


「命に代えても。それが、私の選んだ音律だ」


 即答だった。


 その言葉を背中に受けながら、テラは再び、粘つく闇の中へと足を踏み出した。


 頭上では、依然として無機質な黄金の星々が、生きている者たちを見下ろして輝き続けている。


 不夜城の下に隠された、もう一つの、そして真実のアトラ・ネリウス。


 光ではなく、澱みと執念によって辛うじて形を保っている世界。


 腰の導灯は、依然として冷たく、重い。


 だがその重みは、もはや単なる装備品のそれではない。


 この救いようのない澱みの中に、再び「夜明け」を、あるいは「終焉」をもたらすための、残酷なまでの審判の重みへと、テラの中で変質し始めていた。


「テラ、急ごう。こ場所の空気は、あまり長く吸うものではない……」


 ネリアの微かに震える声が、ドームの底に響き、消えていった。


 進むべき場所は、さらに深く、暗い場所へと続いていく。

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