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沈殿する残響

 老人の気配が完全に闇へ溶け、その掠れた声の余韻すらも重い海水に飲み込まれたあとも、テラとネリアはしばらくその場に立ち尽くしていた。


 眼前には、巨大な獣が喉を鳴らしているかのように、底の見えない縦穴が暗澹たる口を開けている。


 そこから這い上がってくるのは、物理的な風でもなければ、深海特有の冷たい水流でもない。肌を粟立たせるような、言葉にしづらい“何かの濃密な気配”だった。


「……行くぞ」


 やがてテラが、自らの思考を断ち切るように短く告げ、崩れかけた螺旋構造の縁に足をかける。


 金属とも、あるいは巨大な生物の骨ともつかない未知の素材は、荷重がかかるたびに鈍く低い音を立てて軋み、わずかに遅れてテラの体重を受け止めた。


「踏みどころを一歩でも誤れば、そのまま奈落行きだ。慎重に選べ」


「分かっている。……案ずるな」


 ネリアは即座に応じ、テラの背後を滑るように続いた。二人は壁面に片手を添え、ほとんど体重を預けるようにして、垂直に近い斜面を慎重に降りていく。


 下へ。

 さらにその下へ。


 上層の市場から微かに漏れていた黄金の光は、階層を下るごとに希薄になり、やがて完全に消失した。


 視界は遮断され、いまやネリアの肢体から滲み出す、魚人族特有の微弱な生体発光だけが、二人の足元を辛うじて照らし出す唯一の頼りとなった。


 視覚が奪われるのと引き換えに、聴覚に入る情報が異常なまでに先鋭化していく。


 上層の配管から漏れ出す水滴の音。


 それが遙か下の水溜まりに落ちる「ポツン」という反響に混じり、何かが硬い床を擦るような音、あるいは粘つく粘膜が触れ合うような、不規則で落ち着かない気配が、闇の奥底に確実に存在していた。


「……聞こえるか」


 テラが声を潜めて言う。その声すらも、周囲の空気に吸われて響かない。


「ああ。ひとつやふたつではないな。……複数、それもかなりの数だ」


 ネリアの返答は早かったが、その声音には隠しきれない警戒と、ある種の嫌悪感が滲んでいた。


「覚悟しておけ、テラ。ここから先は、ただの“澱み”では済まん。……すべてが堆積し、腐敗しきった『沈殿』の層だ」


 やがて二人は、長く苦しい下降を終え、崩落した構造体の末端から下層の床へと降り立った。


 その瞬間、肌を刺す空気が一変した。


 湿度が上がったわけでも、温度が急激に下がったわけでもない。


 もっと本能に直接訴えかけてくるような、空間そのものが持つ“重圧”が、上層とは決定的に違っていた。


 音が鈍く、まるで泥の中を伝わるように遅れて耳に届く感覚。


 足元に広がる黒ずんだ地面は、泥とも、あるいは病み果てて黒変した珊瑚ともつかず、踏み込むたびに不快な感触と共に沈み込み、忘れた頃にじわりと元の形に戻る。


「……最悪な環境だな」


 テラが吐き捨てるように呟く。


「本来、意識を持つ者が来る場所ではないのだ」


 ネリアは周囲の濃密な闇を見渡し、硬い表情で答えた。その視線には、戦士としての警戒だけでなく、かつてこの都市を愛していた者としての、逃れがたい苦い記憶の色が混じっている。


 そのとき、不意に。


 ――ぐちゃ、という、湿った肉が潰れるような異質な音が、静寂を切り裂いた。


 二人は反射的に心臓の鼓動を抑え、同時に動きを止める。


 視線だけを、物音のした方向――右前方の暗闇の奥へとゆっくり向けた。


 そこに、それはいた。


 最初は壁面に張り付いた生体珊瑚の成れの果てか、あるいは崩落した建材の影かと思った。だが違う。それは自律的に、かつ緩慢に揺れていた。


 人の形をしてはいるが、生物としての均整は完全に崩壊している。


 背骨は不自然な角度で歪み、腕の長さは左右で不気味なほどに食い違っている。首は折れた花のように力なく傾き、知性も意思も感じさせない無機質な動きで、微かに左右へと揺れ続けていた。


「……あれが」


 ネリアが、喉の奥で押し殺したような声を漏らす。

「残響者だ」


 その呼称を口にする彼女の唇は、微かに震えていた。


 テラは武器を抜く一歩手前で踏みとどまり、数秒間、その異形の存在を冷徹に観察する。


 動いている。


 間違いなく動いているのだが、そこに「生命」の躍動が一切感じられない。


 ただ物理的な現象としてそこに在るかのような違和感が、じわりとテラの皮膚の内側を逆撫でしていく。


「……どう見る。テラにとって彼らは単なる雑魚敵か?」


 ネリアが問いかける。その手は、槍の柄を白くなるほど強く握りしめていた。


 テラは視線を逸らさず答えた。


「分からん。できれば戦わずに力は温存しておきたいのだが」


 ネリアは、自らの内に湧き上がる感情を抑え込むように小さく頷いた。


「……あれは、かつて私と同じ言葉を話し、同じ歌を口ずさんでいた同胞だ」


 彼女は、祈るような、あるいは懺悔するような静かな声で続ける。


「都市の音律が崩壊したあの瞬間、逃げ場を失い、強烈すぎる共鳴に巻き込まれて精神を失った者たち……。意思も思考も、名前さえも保てず……ただ環境の揺らぎに対する“反応”だけが、肉体にこびりついている存在だ」


「反応、だけか。」

「ああ。だから呼びかけても二度と応じない。だが、外部からの音には過敏に反応する。……それも、かつての彼らからは想像もつかないような、暴力的な形でな」


 テラは状況を確かめるため、足元に転がっていた硬質化した珊瑚の破片を、爪先で軽く蹴った。


 ころころ、と小気味よい音が闇の中に転がっていく。


 その瞬間、残響者の身体が動き、珊瑚の破片を粉々に破壊した。


「即座に音の出所を特定してやがる」


「ああ。一定の大きさの音を立てたら、どこに隠れていようと正確にその位置を割り出すだろう」


 ネリアが、槍を低く構え直しながら補足する。その声は極限まで抑えられていた。


「だが幸いなことに、あいつらの肉体はすでに『律動』を失っている。音を捉えることはできても、それに応じて迅速に肢体を動かすだけの連動性が、もう残っていないのだ」


 テラの目の前で、残響者がゆっくりと、引きずるような足取りで破片の方へと踏み出した。関節が無理やり軋むような、鈍重で非効率な動き。


「音には敏感だが、スピードは知れている……か。要は、一般的なゾンビ映画に出てくるゾンビみたいなもんって感じだな」


「昔は違った。誇り高く、誰よりも繊細な音を聴き分け、水の中を弾丸のように泳ぐことができた一族だったのだ。……ああでは、断じてなかった」


 その一言に滲んだ重い感情を、テラは拾い上げようとはしなかった。今は感傷に浸る時間ではない。


 その時だった。


 残響者の身体が、先ほどとは比較にならないほど大きく跳ね上がった。


 喉の奥が不自然に震え、声とも、物理的な破壊音ともつかない“何か”が周囲に撒き散らされる。


 それは、鼓膜で捉える「音」ではなかった。


 だが確かに、空間の密度を直接変質させ、テラの肺を圧迫するような“波”であった。


 テラの表情が、初めて僅かに険しくなる。


「……今のは、なんだ」


「呼び声だ」


 ネリアが即答する。その声はすでに戦士のそれへと切り替わっていた。


「単体で動いているのではない。あれは……すべての個体へと振動を伝える『不協和音』だ」


 その言葉の意味をテラが完全に咀嚼するより早く、周囲の闇に劇的な変化が起きた。


 気配が、爆発的に増える。


 至るところで、何かが床を擦り、壁を這い、肉を捩じる音が重なり合う。


 ひとつではない。

 十、二十、あるいはそれ以上。


 ネリアが槍を構える。しかし、その鋭い動作すらも、静まり返ったこの空間では波紋のように大きく響き渡った。


「囲まれる前に逃げるか」


「そうだな見つからずに抜ける方法を探すぞ」


 闇の奥で、残響者たちの不気味な揺れがさらに激しさを増していく。


 不協和音が重なり、空間全体がまるで巨大な生き物の胃袋の中にいるかのように歪む感覚が強くなる。


 ここはすでに、生者の理屈が通用する領域ではないのだ。


 テラは神経を研ぎ澄ませ、次の一歩を、死を恐れる者のそれではなく、盤面を見極める者の慎重さで踏み出した。


 その一歩が、この沈殿の底で眠る亡霊たちにどのような絶望、あるいは変化を引き起こすのか――。


 それを知る術は、まだ、この世界の誰も持ち合わせていなかった。

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