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深海都市アトラ・ネリウス

 黄金の回廊を突き抜けた先、テラの感覚を襲ったのは、物理的な衝撃ではなく、情報の「書き換え」に伴う激しい眩暈だった。


 網膜の端で、システムログが猛烈な勢いでスクロールし、現在地の座標を再定義していく。


 文字がブレ、意味が定まるまでの数秒間、テラは自分がどこに立っているのかさえ判別できなかった。


【システム通知:未踏領域への完全到達を確認しました】

【エリア名:大海溝底・深海都市アトラ・ネリウス】

【現在地:外環回廊アウター・リング


「……アトラ・ネリウス」


 テラはその未知の固有名詞を、肺に残っていたわずかな空気と共に吐き出した。


 視界が安定するにつれ、目の前の光景が圧倒的な質量を持って迫ってくる。


 頭上には、巨大な半球状の透過ドームが展開されている。


 その隔壁の向こう側は、一切の光を拒絶する漆黒の深海だ。数千トンの水圧がドームを押し潰そうと蠢いているが、内側の空間は驚くほど静謐で、乾燥した空気が停滞していた。


 テラが立っているのは、都市の最外郭を成す**『外環回廊』**だ。


 まず目を引くのは、等間隔でそびえ立つ数百メートル級の巨大な柱の列である。


 それらは無機質な石造りではない。表面には複雑な脈動を繰り返す発光組織が走り、時折、呼吸をするように淡い青紫の光を放っている。


「……生体建築バイオ・ストラクチャー。珊瑚をベースにした構造体か」


 テラは、最も近くにある柱に歩み寄り、その表面に手を触れた。


 冷たい石の感触を予想していた指先に伝わってきたのは、微かな、しかし確かな「熱」と、リズミカルな振動だった。


 この柱は、数千年を経た今もなお生きている。深海の凄まじい圧力を逃がし、都市のドームを維持するために、この構造体そのものが絶え間なく働き続けているのだ。


【エリア特性:圧力共鳴ドーム】


 魚人族ネレイドの古代技術により、内部環境は地上と同等に保たれています。


 構造維持:生体珊瑚共鳴システム。


 警告:外部隔壁への物理的接触は推奨されません。


 テラはシステムログをスワイプして消し、回廊の先へと視線を向けた。


 足元の石畳には、見たこともない紋章が刻まれている。


 それは円と線を組み合わせた、天球図のようでありながら海流の図解にも見える複雑な意匠だった。


 歩みを進めるごとに、遺棄された過去の断片が姿を現す。


 回廊の脇には、魚の骨格を思わせる流線型のフレームを持った古代潜航船が、数隻乗り捨てられていた。


 外装は深海の塩分によって白く風化しているが、その表面には鋭い爪で引き裂かれたような、傷跡が刻まれている。


 テラは腰を落とし、潜航船のコックピット付近に残された計器に手をかざした。


「星の欠片」から漏れ出す青白い光が、死んでいた魔力回路を一時的に励起させる。


【残留ログの断片を再生します……】

『……第4観測窓、消失。潮の逆流が止まらない。王は「静寂」を選ばれた。だが、民の半分はまだ……。影が、壁の裏側に潜んでいる。光を消せ。光を消さなければ、奴らに見つか――』


 音声ログはノイズと共に途絶えた。


 テラは眉を潜める。略奪や戦争による滅亡ではない。もっと根源的な、内側からの崩壊。そして「影」という言葉。


 さらに奥へ進むと、回廊の壁面に描かれた巨大な壁画が、燐光の中に浮かび上がった。


 そこには、地上の『カタステリスモイ』が謳う「英雄が怪物を退治する」図式など、微塵も存在しなかった。


 描かれているのは、天の星々を網ですくい上げ、それを海流の動力へと変換する知的な魚人族の姿。


 そして彼らが最上位の崇拝対象として仰いでいるのは、紛れもなく、あの「首を持つ女神」の完全な姿だった。


「地上の歴史とは、前提からして鏡合わせだな……」


 テラが壁画を観察していた、その時だった。


 背後の柱の陰で、カチリ、と硬質なものが岩を叩くような音が響いた。


 テラは反射的に身体を強張らせるが、派手な動作はせず、視界の隅の「動体検知ログ」に意識を集中させた。


【警告:未確認の熱源反応を感知】

【個体識別:照合不能。生命サイン:微弱】


 そこには、魚人族の石像に紛れるようにして、「動く影」があった。


 最初、それはただの石像の配置ミスか、描画のバグのように見えた。


 だが、テラが目を凝らすと、その影はゆっくりと形を変え、生体珊瑚の壁の色と同化するようにして、音もなく移動している。


「……無人の都市だと思っていたが、そうでもないらしい」


 テラは呟き、あえて背後を振り返ることなく歩みを再開した。


 この場所には、まだ「住人」がいる。


 それが数千年前の生き残りなのか、あるいは変わり果てた末裔なのかは分からない。


 だが、彼らは明確にテラを観察し、品定めしている。


 さらに歩を進めると、外環回廊の構造そのものが、テラの行く手を阻むように変化し始めた。


 さっきまで真っ直ぐ伸びていたはずの通路が、生き物のようにゆっくりと弯曲し、隣の回廊と接続を入れ替えていく。生体建築特有の自律的な変形。


「生きた迷宮か。侵入者に対する防御プロトコルが、今も生きているというわけか」


 テラは立ち止まり、手の中の「星の欠片」を掲げた。


 欠片の放つ冷たい光が、刻々と形を変える壁の表面を照らし出す。


 すると、壁に刻まれた微細な血管のような回路が、特定の方向に向かって光を流しているのが見えた。


「通路の変形はランダムじゃない。……潮汐の周期と、この『欠片』の共鳴に同期している」


 テラは、図書館で脳内に焼き付けた『パイノメナ』の計算式を、この不気味に蠢く回廊の動きに当てはめていく。


 右、左、そして斜め前方へ。


 彼は迷うことなく、一見すると壁に向かって突進するかのような軌道で歩き出した。


 テラが壁に激突する直前、生体珊瑚の繊維が弾けるように解け、新たな道が口を開ける。


 背後の影が、一瞬だけ動揺したように揺れたのをテラは見逃さなかった。


 この『外環回廊』は、単なる導入路ではない。


 ここを抜けるためには、魚人族がかつて持っていた「天体と海流の同期」という概念を、身体レベルで理解していなければならないのだ。


 テラは、背後に潜む視線をあえて無視し、攻略の手を緩めなかった。


 潜航船の残骸から剥ぎ取った古い魔力バッテリー、壁画に隠された方位の暗示、そして自分の足元を流れる微かな共鳴音。


 それらすべてをリソースとして消費し、彼はこの「静止したはずの都市」が刻んでいる、現在進行形の鼓動を読み取っていく。


「……次は、あそこか」


 変形する回廊の隙間から、一段と強い光が漏れ出しているのが見えた。


 そこは、回廊の終着点であり、都市の心臓部へと繋がる巨大な円形広場。


【現在地:潮の市場(タイダル・マーケット)に接近中】


 システムログの更新と共に、空気の振動が激しさを増す。


 テラは確信していた。この『アトラ・ネリウス』は、単に発見されるのを待っている遺構ではない。


 ここには、今もなお守るべき「何か」があり、それを維持し続けている「誰か」がいる。


 テラは、最後の回廊の角を曲がった。


 そこには、生体珊瑚に半ば飲み込まれながらも、槍を携えて直立する、一人の魚人族の戦士の姿があった。


 それは石像ではなかった。


 テラが足を止めた瞬間、その戦士の瞳が、深海の鱗のような鋭い光を放って開かれた。


「…………異邦の、観測者よ」


 水の底から響くような、重く、湿り気を帯びた声が、テラの意識を直接揺さぶる。


「その手に持つ『孤独の欠片』……。それをどこで手に入れた」

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