表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/79

沈黙の監視者と深淵の契約

「…………異邦の者よ」


その声は、鼓膜を震わせる空気の振動ではなかった。


周囲に満ちる湿り気――この都市を満たす見えない水の層を媒介にして、直接テラの神経へと触れてくる。


それは言葉というよりも、圧力を伴った意思の侵入に近い。


脳幹をゆっくりと圧迫されるような、不快とも畏怖ともつかない感覚が、遅れて意味を結び始める。


低く、重く、そしてどこか粘り気のある余韻が、耳鳴りのように長く残った。


テラは足を止めた。


反射的に武器へ手を伸ばすことはしない。


ただ、数メートル先――回廊の陰影に半ば溶け込むその「実像」を、冷静に観測する。


そこに立っていたのは、魚人族の戦士だった。


生体珊瑚の柱に、まるで最初からそうであったかのように同化し、直立している。


肌は深海の闇に最適化されているのか、青白く、光の角度によっては半透明にも見えた。


内部を流れる体液の揺らぎすら、かすかに視認できる。


全身を覆うのは、濡れたような光沢を持つ黒い鱗状の甲冑。


それは装備というよりも、生体と融合した第二の皮膚のようにも見える。


手にした槍の穂先が、わずかに震えた。


テラの掌にある「星の欠片」と共鳴するように、鈍い燐光が明滅する。


それは敵意か、あるいは確認の反応か――判断はまだつかない。


「その手に持つ『孤独の欠片』……。それをどこで手に入れた」


戦士の瞳が、細く収束する。

深海魚のそれに似た、反射光を持たない黒。だがその奥には、鋭利な知性が潜んでいた。


視線は、まっすぐテラの掌へ。


テラはすぐには答えない。

まずは視界の端に流れるシステムログを確認する。ノイズ混じりのデータを、意識の片隅で高速に仕分ける。


【個体識別:ネレイドの守護戦士(生存者)】

【ステータス:警戒/共鳴中】

【言語:古代アトラ語(システム翻訳済み)】


(生存者、ね……)


つまり、これは遺物でも記録でもなく――今もこの都市に残り続けている存在だ。


テラはゆっくりと口を開いた。


「拾ったものだ。ヒスティ港の新月の夜。海がこれを俺に差し出した」


戦士の喉が、微かに震えた。

それは息か、音か、あるいは感情の発露か。人間の基準では判別できない。


「拾った……だと?」


わずかに、間が空く。


「それはかつて、我ら一族が地上へ放った“灯火”だ。

 空が物語に殺され、星が偽りの光に塗りつぶされた時――いつか真実を書き戻す者が現れることを願って、海流へと託したもの……」


語られる内容は断片的で、しかし重い。


神話か、歴史か、それとも警告か。


戦士が一歩、前へ出た。


その動作に合わせて、周囲の圧力がわずかに変動する。


空気が押し潰されるような感覚を、テラは皮膚と内耳で同時に捉えた。


(……こいつ、動くだけで環境に影響を与えてるのか)


「だが、お前は我らとは違う。肺で呼吸をし、重力に縛られた、あの憎き地上の民だ」


声音が、僅かに低く沈む。


「なぜ、その『欠片』がお前を選んだ。なぜ、生きた迷宮であるこの回廊が、お前を飲み込まずにここまで通した」


テラの脳内に、警告が走る。


明確な音はない。ただ、状況の危険度が一段階引き上げられたことを示す“理解”が流れ込んでくる。


彼は、あえて「星の欠片」を隠さなかった。


むしろ、ゆっくりと掲げる。


青白い光が、回廊の湿った空気を淡く照らす。


「回廊が通したんじゃない」


一拍置いて、言葉を重ねる。


「俺が、この欠片を『鍵』として使い、通っただけだ」


戦士の瞳が、わずかに見開かれる。


それは敵意の変化ではない。

純粋な――認識の揺らぎ。


「観測……したというのか……」


低く、確かめるように。


「我らですら、今や維持に汲々とせねばならぬ、この生体建築の律動を」


やがて、槍がゆっくりと下ろされる。


だが、警戒は消えていない。

むしろ、より慎重に“測られている”。


戦士は周囲へと視線を流し、回廊の奥を示す。


そこでは、生体珊瑚がわずかに不規則な脈動を見せていた。


「ならば、見せてみよ。その知恵が、単なる偶然でないことを」


短く言い切る。


「……今、この外環回廊は病んでいる。お前がここへ辿り着いた『共鳴』の余波で、B-7セクターの調律が乱れ、生体珊瑚が暴走を始めた」


その瞬間、テラの視界にログが割り込む。


【緊急クエスト:外環回廊の調律異常を解決せよ】

【目標:B-7セクター・潜航船ドックのバイタル復旧】

【報酬:魚人族の信頼】


「……俺に、この都市の修理をしろと言うのか?」


「いいや。テストだ」


即答だった。


「お前がこの『欠片』を持つに相応しい観測者なのか、それとも、ただの幸運な略奪者なのかを見定める」


わずかに間を置き、続ける。


「B-7には、かつて我ら一族が使っていた旗艦級潜航船の残骸がある。その動力炉と回廊の神経系を再接続しろ」


戦士の輪郭が、ゆっくりと曖昧になる。


壁面の珊瑚構造と同化していく。


「道は、お前自身の『欠片』が知っているはずだ」


完全に消える直前、


「行け、異邦の者よ。もし失敗すれば――お前はこの生きた檻に塗り込められ、アトラ・ネリウスの肥やしとなるだけだ」


影が、消えた。


後に残ったのは、先ほどよりも明らかに強まった、生体珊瑚の脈動音。

それはまるで、都市そのものが不整脈を起こしているかのようだった。


「……やれやれ。やっぱり一本道じゃないな」


テラは小さく笑う。


だがその目は、すでに次の動線を追っている。


システムマップに浮かび上がったB-7セクターの座標。

最短ルートと危険領域を瞬時に重ね、走り出した。


――辿り着いた先は、「墓場」だった。


巨大な空間。

折り重なるように横たわる潜航船の残骸。


その形状は、どれも鯨に似ている。

だが優雅さはなく、死骸のように無残だった。


珊瑚の蔦が絡みつき、船体の一部は完全に飲み込まれている。


静寂。

そして、微かな発光。


「……あれか」


中央。


他の残骸よりも一回り大きい船体。

そこから、弱々しい青い信号が断続的に発せられている。


まだ、完全には死んでいない。


テラがその「鯨」の腹部へと近づき、ハッチに手をかけた瞬間――


回廊全体が、大きく揺れた。


遅れて、重低音。


ドームの外、完全な闇の向こうから、何か巨大な存在が叩きつけるような衝撃が伝わってくる。


【警告:外部からの超音波干渉を感知】

【防衛システムの一部が起動……《深淵の牙》が接近しています】


「……門番の目覚めが少し早すぎるんじゃないか?」


軽口とは裏腹に、動きは速い。


テラはハッチを強引にこじ開け、そのまま内部へ滑り込んだ。


船内は浸水していない。


乾いた空気。

しかし完全な無機質ではない。微かに残るのは、かつてここに“生きていた”気配。


魚人族の生活の痕跡。

それが時間ごと凍結されたように残っている。


通路を抜け、操縦席へ。


そこには、白骨化した遺体が一つ。

長い年月を経てもなお、操縦席に手をかけた姿勢のまま。


テラはそれを跨ぎ、コンソールへと手を伸ばす。


一瞬の躊躇もなく。


中央スロットへ――「星の欠片」を叩き込んだ。


光が、走る。


「さあ――」


静かに、しかし確信を持って呟く。


「お前の主が残した『続き』を、俺に見せてみろ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ