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正史を疑う者

 波打ち際にゆっくりと立ち上がったテラの掌の中で、その「欠片」は生き物の心臓のように、静かでありながら確かな律動を刻み続けていた。


 それは決して熱を帯びることはない。


 むしろ触れている指先からは温度が奪われ、周囲の空気すら凍りつかせるような錯覚を覚えるほどの、異様な冷たさを内包している。


 光を放つというよりも、世界から光を吸い上げ、そこに存在するはずの情報を削り取っていくかのような質感を持っていた。


 そして、その中心から発せられるのは、音ではない“静寂”そのもの――宇宙の真空をそのまま凝縮したかのような、あらゆる振動を拒絶する絶対的な無音だった。


 テラはゆっくりとその手を持ち上げる。


 意識的に、慎重に。


 新月の闇が支配するヒスティ港の海面へと、掌をかざす。


 その瞬間だった。


 世界が、確かに“悲鳴”を上げた。


 それは音として聞こえたわけではない。


 だが、空間そのものが軋み、存在の根幹が歪むような感覚として、テラの全身に叩きつけられる。


 視界の端が歪み、空気が震え、現実が一瞬だけ“正しくなくなる”。


 鏡のように静まり返っていたはずの漆黒の海面が、突如として乱れた。


 何かに叩かれたわけではない。


 風も、波もない。


 それにも関わらず、海はまるで目に見えない巨大な刃によって切断されたかのように、左右へと荒々しく引き裂かれていく。


 その裂け目は一直線に伸び、深く、深く、底の見えない闇へと続いていた。


 そして、そこから溢れ出したものは、水ではなかった。


 青白く、不気味な光。


 それは流体のように揺らめきながらも、明確な意志を持つかのように空間を満たし、周囲の闇を侵食していく。


 天に座す「漆黒の星」と、テラの手中にある欠片とが共鳴し、その結果として生じた“現象”だった。


 まるで、この世界の裏側に隠されていた別の層が、強引に表へと押し出されているかのようだった。


「……行くか」


 短く、しかし確信に満ちた声。


 テラは一切の躊躇なく、その裂け目へと足を踏み入れる。


 踏み込んだ瞬間、すべての感覚が切断された。


 足が地面に触れているという実感は消え、重力も、空気も、時間すらも意味を失う。


 それは歩行ではなく、空間そのものがテラを捕らえ、内部へと引きずり込みながら再配置しているような感覚だった。


 視界に焼き付くのは、理解不能な情報の奔流。


 海底の地形を突き抜け、大陸の構造を無視し、地球の核を掠めるように通過する、歪んだ座標の羅列。現実の物理法則とは無関係に、システム的なルートによって最短距離を強制的に移動させられているように思えた。


 ヒスティ港から数千キロ。


 距離という概念すら意味を失う速度で、テラは“移動させられていた”。


 ――そして。


 唐突な衝撃。


 それは肉体的な痛みではなく、「配置が完了した」という結果だけが与えられる、不自然な終端だった。


 気づけば、テラはまったく別の海域に立っていた。


 水深数千メートル。


 本来であれば、人間の存在など許されない絶界。


 数トンの水圧が全身を押し潰し、骨も内臓も一瞬で圧壊するはずの場所。


 しかし、その常識はここでは成立していない。


 テラの手にある「欠片」が、周囲の空間を半径数メートルにわたって書き換えていた。


 圧力は存在せず、水も侵入しない。


 そこには、強引に切り取られた“安全圏”が形成されている。


 まるで、この深海に対する異物のように。


 テラはゆっくりと顔を上げる。


 頭上には、もはや星空は存在しない。


 あるのは、分厚く圧し掛かる海水の層。


 そのさらに向こう側に、かすかに残る「漆黒の星」の残光だけが、深海の泥を青白く照らしていた。


 光は弱い。


 だが、確かに導いている。


 その先に――それはあった。


 海底の砂に半ば埋もれるようにして鎮座する、巨大な石門。


 高さは十メートルを優に超え、長い年月の中で角が削れ、無数の傷を刻まれながらも、なお圧倒的な威圧感を放っている。


 その佇まいは、単なる建造物ではなく、明確な「境界」としてそこに存在していた。


 その傍らには、一本の古い碑石が立っている。


 波に洗われ続けたことで角は丸くなり、表面は滑らかに摩耗している。それはまるで、持ち主を失い、長い時の中で忘れ去られた墓標のようだった。


「……ここが、入り口だろうか」


 テラは低く呟く。


「ヒスティ港から、どれだけ飛ばされたんだ……」


 門へと歩み寄る。


 だが、そこには取っ手も、鍵穴もない。


 あるのはただ、冷徹に閉ざされた石の壁だけだった。


 反応を示したのは、碑石の方だった。


 そこに刻まれていた神聖文字が、テラの接近に呼応するかのように、赤黒く脈動を始める。


『我は天の秩序なり。我は光の正義なり。』

『ここより先は、神に選ばれし“英雄”のみが、その武勇を携えて通るべし。』

『偽らぬ己が名を刻み、光の門を開け。』


 直後、テラの視界にシステムウィンドウが割り込む。


【あなたの「真の名」を入力してください】


「……なるほど」


 テラは、わずかに笑った。


「これが最後の選別か」


 この言葉の裏に潜む、歪んだ意図が。


 女神を殺し、星図を書き換えた者たち。


 彼らにとっての「英雄」とは、真実を消し去る側の存在だった。


「『偽らぬ己が名』……か」


 テラはウィンドウを無造作にスワイプし、消し飛ばす。


「なら、期待通りの答えをくれてやるよ」


 テラは「欠片」を指先に纏わせる。


 そして、碑石へと手を伸ばした。


 石の表面を削り、刻み、存在そのものを書き換える。


 彼が記したのは、名前ではない。


 抹消された事実。


『我は、切り落とされた正史を(アノマリー・)疑う者(オブザーバー)なり』


 最後の一画が刻まれた瞬間。


 碑石が、悲鳴を上げた。


 内部から崩壊するように「英雄」という文字が砕け散る。


 その裏から現れたのは、首を失った女神の紋章。


 石門が、ゆっくりと動き始める。


 数千年の沈黙を破りながら。


 開いた隙間から流れ出てきたのは、海の匂いではない。


 乾いた紙と、古いインク。


 図書館の閉架書庫と同じ匂い。


 門の向こうには、深海には存在し得ない黄金の回廊が続いていた。


 テラは欠片を強く握りしめる。


 そして。


 迷うことなく、その禁忌の聖域へと踏み込んだ。

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