船乗り
老人が霧の向こうへと消えた後、ヒスティ港には再び、重苦しく粘り気のある波の音だけが戻ってきた。
テラの手のひらに残された【魚骨の破片】。
アイテムとしてのステータスは皆無であり、攻撃力も防御力も、あるいは特殊なバフの記述さえも見当たらない。
ただ、握りしめると氷のように冷たい感覚が指先から腕の芯へと伝わり、まるで血管の中に冷たい海水を流し込まれたような錯覚に陥る。
システム上の説明欄には、ひび割れたフォントでただ一行、《潮の満ち引きに呼応し、微かに震える》とだけ記されていたが、今のところその骨は、乾燥しきった死骸のように沈黙を保ったままだ。
「……手がかりというよりは、タチの悪い呪物を押し付けられた気分だな」
テラは骨をポーチの奥へとしまい込み、再び無人の港へと足を踏み出した。
老人は「あと三晩待て」と、呪詛に近い宣告を残した。
だが、ただ漫然とセーフゾーンで時間を潰すのは、この過酷なゲームを単独で渡り歩いてきたテラの流儀ではない。
この港が「捨てられた」本当の理由。栄華を極めたはずの拠点が、なぜ一人の狂った老人だけを残して崩壊したのか。
その裏側に潜む「システム上の必然」を、彼は自らの足で暴き出そうとしていた。
彼はまず、港の全景を見渡せる最も高い位置――崖の上にそびえ立つ「旧・海事ギルド跡」へと足を向けた。
そこはかつて、このハイフォリア北海域を統べる航海士たちが、天体観測と海流予測に心血を注いだ、知の最前線だった場所だ。
石造りの壮麗な建物は、今や長年の苛烈な潮風によって表面が鱗のようにボロボロに腐食し、無残な骸を晒している。
テラが錆びついた鉄扉を押し開けると、内部には停滞した埃と、腐った海藻が混じり合ったような、鼻を突く悪臭が充満していた。
崩落した天井の隙間からは、下弦の月の青白い光が幾筋もの柱となって差し込み、荒れ果てた執務室を斑に照らし出している。
床には湿った羊皮紙の残骸が厚く積もり、一歩踏みしめるたびに「グチャリ」と、生き物の内臓を踏み抜いたような嫌な音が静寂の中に響き渡った。
テラは倒れた書棚の隙間に腕を差し込み、堆積した瓦礫を一つひとつ掻き分けていく。
指先に、硬質な金属の感触が触れた。引き摺り出したのは、真鍮製の奇妙な円盤――アストロラーベの成れの果てだった。
しかし、それは彼が知る一般的な観測道具とは明らかに構造が異なっていた。
円盤の縁には、標準的な十二宮の星座ではなく、このハイフォリア大陸の古い伝承に基づいた、今はもう使われていない「古星図」が精緻に刻まれている。
テラは指先でその円盤を回してみたが、内部で錆びついた歯車は「ギギッ……」と不快な悲鳴を上げるだけで、天体の運行を正しく指し示す気配はない。
探索の目は、壁際に立てかけられた巨大な「海図」に留まった。
海水に濡れてふやけ、地名や航路を示すインクは滲んで判読不能だが、南の海域を示す一点にだけ、異常なまでの書き込みが集中している。
それは執念深く、あるいは恐怖に駆られて重ねられた、無数の「×」印だった。その周囲を囲むように描かれた歪な円形の矢印は、まるで海そのものが巨大な怪物となって口を開けているかのようだ。
「……海流の記録か? いや、これは『犠牲』のリストだな」
通常の航海図であれば、安全な潮路や豊かな漁場を示すはずだ。
だが、この地図が記録しているのは「どこを通れば安全か」ではなく、「どこで、どのようにして船が消え、人々が深淵に消えたか」という悲劇の集積図だった。
その地図の隅に、もはや正気とは思えないほど激しい筆致で、掠れた一文が残されていた。
『星がその位置を指し示すとき、海は鏡となり、そして陥没する。招かれざる者は、ただの肉として深淵へ捧げられる』
意味はまだ繋がらない。
「星がその位置」とは何を基準にしているのか。
「海が陥没する」とは、物理演算上のバグに近い現象なのか、それとも意図されたギミックなのか。
今のテラには、それらを論理的に繋ぎ合わせるための「核」となる言葉が、圧倒的に不足していた。
探索を続けるうちに、一晩、また一晩と、ヒスティ港に重たい夜が降り積もっていった。
その間、テラは港の廃屋を隅から隅まで潰していった。
ある家では、食卓に並んだまま真っ黒に石化した魚の料理を見つけ、住民が食事の途中で「何か」に連れ去られた形跡に眉を潜めた。
またある家では、全ての窓を内側から板で打ち付け、海の方角を向いたまま、ゼンマイが切れて永遠に動かなくなった機械の残骸を見つけた。
この港の住人たちは、一斉に逃げ出したのではない。
何かに魅入られ、あるいは目に見えない恐怖に少しずつ精神を削られながら、一人、また一人とこの世界から「摩耗」していったのだ。
そんな薄ら寒い手触りだけが、テラの確信を深めていく。
そして、運命の三晩目。
空に浮かぶ月は、一切の欠けを許さぬ完璧な銀の円盤へと姿を変え、その暴力的なまでの光量で世界を塗り替えていた。
その瞬間、ヒスティ港を包んでいた空気が、劇的に変貌を遂げる。
それまでの停滞した、まとわりつくような湿り気は一瞬にして消え去り、代わりに肌を刺すような、冷徹で研ぎ澄まされた緊張感が港の全域を支配し始めた。
海面は不気味なほどに凪ぎ、鏡のような平滑さで月光を反射させ、南の水平線へと続く、どこまでも真っ直ぐな白銀の「道」を作り出している。
テラは、一晩目と同じ、潮騒が最も近くに聞こえる桟橋の先端に立っていた。
その時。
ポーチの中で、三日間沈黙を守っていたあの【魚骨の破片】が、まるで激動する心臓を得たかのように、テラの腰にまで響くほどの強烈な振動を始めた。
ザッ……、ザッ……。
霧の向こう側から、一切の波音を立てず、水の抵抗さえ感じさせない滑らかさで、一艘の古びた小舟が滑り込んでくる。
舟の上に立っていたのは、あの一晩目の矮小な老人ではない。
顔を深いフードの陰に隠し、背中には古びた、しかし重厚な真鍮製の天体望遠鏡を背負った、異様に長身の「船乗り」だった。




