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黒潮

 テラがゆっくりと膝を伸ばし、その場に立ち上がると、長年の潮風に晒されて硬化した革のコートが「ギィ」と耳障りな、重い軋み声を上げた。


 目の前に立ち塞がるそのNPCは、身長こそ幼い子供のように低いが、その肩幅は不自然なほどに広く、ボロ布の隙間からは塩分で白く粉を吹いた、鱗のような質感を帯びた肌が覗いている。


 深すぎるフードの奥に潜む瞳は、濁った黄色い光を鈍く放ち、獲物の価値を冷徹に値踏みする深海魚のように、不気味な静止を保っていた。


「……余所者か。こんな、潮の腐り果てた場所へ、一体何をしに来た」


 老人は再び、拒絶の意を込めて問いかけた。


 その声は、重い湿り気を帯びた潮風に乗って、テラの鼓膜をじりじりと震わせる。


 喉の奥に小石が詰まっているかのような、不快な掠れ声だ。


 このゲーム『ギアヘイヴン』におけるNPCのAIは極めて高度に調整されているが、この老人が全身から放つ「強烈な拒絶」のオーラは、単なる演算プログラムの産物とは思えないほどの、圧倒的な質量を伴ってテラに圧し掛かっていた。


「この港の記録を調べている。石碑の残骸にあった『南の王』という記述についてだ」


 テラは努めて淡々と、先ほど削れた石碑から読み取った断片的な情報を口にした。


 この手の特異なNPCに対し、下手に「隠しエリア」や「新月」といったプレイヤー側のメタ的なキーワードを出すのは悪手だ。


 まずはこの場所の住人が共有しているであろう「忌まわしい常識」の範疇で対話を試み、相手の警戒心を解きほぐす必要がある。


 老人はその言葉を聞くと、ひび割れた唇を歪な形に歪め、喉の奥から「ヒッ、ヒッ」と乾いた、奇妙な笑い声を漏らした。それは笑いというよりは、古びた鞴から肺の空気が無理やり漏れ出している音に近かった。


「記録だと? 知識の残滓を食らう鴉め。文字の跡をなぞれば、真実が指に吸い付いてくるとでも思っておるのか。……地の上、光の下を歩く貴様らには、この港の沈黙がただの『不在』や『空虚』に見えるのだろうな。だがな、ここにあるのはそんな安っぽいものではない。……剥き出しの『重圧』だ。海が、かつての栄華のすべてを飲み込み、その巨大な胃袋の中でゆっくりと噛み砕いている……その咀嚼の音なのだよ」


 老人は手に持っていた、流木を無理やり削り出したような無骨な杖を、ガチリと石畳の隙間に叩きつけた。その衝撃による振動が、地面を伝わってテラの足の裏にまで明確な感触として伝わってくる。


「『南の王』などと、そんな景気のいい名前を二度と口にするな。あれは王などではない。……ただの、際限のない『飢え』だ。この港が人々に捨てられ、朽ち果てるに任されたのはな、商売が廃れたからではない。……あまりに多くの者が、あの南の暗い海に引きずり込まれ、二度と海面に浮かんでこなかったからだ」


 老人はふらふらとした、しかし足元を確信したような足取りで、桟橋のさらに先端、激しい波が飛沫となって打ち付ける危険な場所へと歩いていく。


 テラは無言でその背中を追った。


 老人が杖の先で指し示した水平線の先には、南へと果てしなく続く、底の知れないほどに黒く濁った海流が、巨大な生き物のようにうねりながら幾重もの渦を巻いていた。


「見ろ。あのどす黒い筋を。あれが、この海域を統べる『黒潮』だ。今はまだ、表面上は凪いでいるように見えるだろう。だが、潮の満ち引きというものは、単なる水の物理的な移動ではない。それは呼吸だ。深淵の底に潜む何かが、大きく息を吸い込み、そして激しく吐き出す……その脈動そのものなのだ」


 老人はそこで言葉を不自然に切ると、周囲を警戒するように急に声を潜めた。


 まるで、その海の下に潜む「何か」に、自分の声が聞きつけられるのを本能的に恐れているかのように。


「……貴様、まさかあの空の月がなくなるまで、ここで泥を啜りながら待つ気か? やめておけ。新月の夜、この港は我々の知るの場所ではなくなる。……光が影を食らい、影が光を裏切るのだ。岬の影が東へ向かって長く長く伸びるとき、海面には決して『開いてはならぬ円』が浮かび上がるのだからな」


 テラの視界にシステムメッセージやクエストの更新通知は現れない。


 しかし、老人の吐き出す言葉の一つひとつが、世界の解像度を少しずつ、決定的に変えていく。これは明確な「暗号」の提示ですらない。


 ただの狂人の繰り言か、あるいは老い先短い老人の恨み節に満ちた回顧録だ。


 しかし、その歪な内容には、テラが求めていた「南の海」へと至るための、不気味な道標が確実に混じり込んでいた。


「……円が、開くのか」


 テラが短く、確認するように問いかけると、老人は初めて、フードの奥に潜む濁った瞳をテラの視線に固定した。


 その瞳の奥には、恐怖を通り越した先に辿り着いた、冷ややかな狂信の色が不気味に宿っていた。


「開くとも。だがな、それは招き入れる門ではない。……それは『口』だ。石を投じれば波が二度返ると、この地に伝わる古い歌にはあるがな……もし万が一、三度目の波が返ってきたとき、そこに立っているのはもはや貴様ではない。……別の、言葉も通じぬ『何か』だ」


 老人はそれだけを一方的に言い残すと、懐から干からびた魚の骨のような、鋭い突起を持つ物体を取り出し、テラの手のひらに乱暴に押し付けた。


 冷たく、神経を刺すような独特の感触がテラの指先を走る。


「これが欲しければ、あと三晩、ここで潮の腐った匂いを嗅ぎ続けながら、じっとしているがいい。その骨が、内側から激しく震え出したとき……貴様が深淵に『選ばれた餌』なのか、あるいはただ打ち捨てられる『死体』なのかが、嫌でもはっきりするだろうよ」


 老人は杖を突き、霧が不自然に立ち込める倉庫の影へと、滑るような足取りで吸い込まれるように消えていった。


 テラの手の中には、アイテム名さえ表示されない、鈍い金属光沢を放つ【魚骨の破片】だけが、場違いな質量を持って残された。


 テラは再び、潮風に軋む桟橋の縁に腰を下ろした。


 老人の残した言葉を、一つずつ脳内で再生し、その意味を反芻する。


 まだ「条件」はすべては揃っていない。


 そして、この老人が不吉に口にした「古い歌」の全容も、まだ深い霧の向こう側だ。


 新月まで、あと三日。


 この港を支配していた分厚い「停滞」の膜が、音を立ててゆっくりと剥がれ落ちようとしていた。

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