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ヒスティ港

ギアヘイヴンの転送ゲートを潜り抜けた瞬間、網膜を焼き付かせるような乾燥した熱気と、鼓膜を震わせ続けていた高周波の駆動音が、一瞬にして霧散した。


代わりに全身を包み込んだのは、肺の最奥まで重く沈み込むような、粘り気のある湿った冷気だ。視界を埋め尽くしていた青白い幾何学模様のノイズがゆっくりと晴れていく。


その先に現れたのは、世界の果てから色彩を徹底的に剥ぎ取ったかのような、絶望的なまでに灰色一色の光景だった。


ハイフォリア大陸、その北端の断崖にへばりつくように存在する「ヒスティ港」。


 かつての公式設定資料によれば、ここは大陸の喉元として、黄金や香料、さらには深海から引き揚げられた未知の魔石を運ぶ巨大な商船が絶え間なく出入りし、大陸随一の繁栄を謳歌した場所だという。


しかし、現在のプレイヤーたちにとって、ここは「通り過ぎる価値さえ見出せない忘却の廃墟」に過ぎない。


効率的なレベリングスポットもなければ、希少なドロップを落とすボスモンスターも存在しない。


システムからさえも見放されたかのようなこの港は、ただ波の音だけが響く静かな墓場として、歴史の塵の中に沈んでいた。


「……ここか」


テラは、潮風によって表面が鱗のように剥離した石畳を一歩、また一歩と踏みしめる。


ギアヘイヴンを支配していたオイルの焦げる臭いや金属同士が軋む音はもう届かない。


代わりに聞こえてくるのは、複雑に入り組んだ岩礁にぶつかって砕ける、不気味なほどに低く重厚な波の音だけだった。


彼はまず、港を縁取る巨大な防波堤へと足を向けた。


 そこには、かつての栄華を象徴する荷揚げ用の巨大クレーンが、今や太古の怪物の死骸のように赤茶けて錆びつき、自重に耐えかねて無残に折れ曲がっている。


ワイヤーは腐食して千切れ、潮風に煽られるたびに「キィ……キィ……」と、泣き叫ぶような金属音を虚空に響かせていた。


テラはその鉄錆の表面を指先でなぞる。


指先に残るザラついた感触と、皮膚に付着する酸化鉄の赤い粉。


このゲームの触覚フィードバックは、こうした「無価値な場所」にこそ、異常なまでの情熱が注がれている。


テラは歩みを止めず、空間を無造作にスワイプして半透明のシステムメニューを呼び出した。


現在のサーバー時刻と、微細な月齢のステータスを確認する。


ホログラムのウィンドウに表示された月齢は**「下弦の月」**。


機械オタLv100が忌々しげに、それでいて確信を持って告げた「新月の夜」までは、まだ数日の猶予がある。


ゲーム内時間にして、およそ数十時間の空白だ。


「……都合よくはいかないか」


短く、吐き出すように呟く。


だが、その声に落胆の色はない。むしろ、想定外の「待ち時間」を楽しむかのような、冷ややかな期待さえ混じっていた。


最初から、何もかもが揃っているお膳立ての状況など期待していない。


むしろ、この空白の時間をどう使い、停滞した港に隠された「糸口」をどう手繰り寄せるか。


そのプロセスこそが、この理不尽な世界を攻略する醍醐味であることを、彼は骨の髄まで理解していた。


テラは人っ子一人いない港の目抜き通りを、観察者の視線でゆっくりと歩き出した。


 潮風に晒されてボロボロになった帆布が風に煽られ、虚しく旗めく音だけが規則的に響く。


崩れかけた倉庫の影には、かつて積み荷を運んだであろう木製の荷車がひっくり返り、車輪はシロアリに食い荒らされていた。


海水に浸かったまま腐敗が始まった廃船の甲板からは、ドロリとした正体不明のタールが滴り落ち、割れた石材の隙間からは塩分に強い奇妙な形状の青白い苔が呼吸するように脈動している。


彼はそれらを、まるで鑑定スキルを限界まで使い続けるかのように、一つひとつ丁寧に調べて回った。


NPCの姿は極端に少ない。それどころか、まともにアイテムの売買が成立するような商人さえ、この区画には見当たらない。


立ち並ぶ建物はどれも扉が塩害で固く閉ざされているか、あるいは中身が完全に略奪された後の抜け殻だ。


窓ガラスはことごとく割れ、その奥にある暗闇からは、時折「ピチャリ」と、何かが水面を叩くような音が聞こえてくる。


そんな中、テラはある一点で足を止めた。


 桟橋のたもと、打ち寄せられる砂と瓦礫に半分以上が埋もれた、古い「石碑」があった。


 長年の波飛沫と過酷な気候によって表面は激しく削り取られ、刻まれた文字は素人目には判読不能な状態だ。


しかし、テラはその前に膝をつき、自身の指先でその冷たくザラついた表面を丁寧になぞり始めた。


「……南の……王……。……沈まぬ……影……」


指先の微かな感触と、わずかに残る刻印の深さから文字を脳内で再現していく。


断片的な単語が、かすかな情報の光となってテラのシステムログに吸い込まれていく。


このゲームの世界観構築は、時に執拗なまでに徹底されている。


一見無意味な「フレーバーテキスト」や、設定資料集の隅にしか載らないような古い伝承の中にこそ、攻略の核となるギミックや、世界の理を覆す鍵が巧妙に隠されていることをテラは経験則から知っていた。


テラはそのまま、潮風に軋む桟橋の縁に腰を下ろした。


 単調に繰り返される潮の満ち引きを眺めながら、彼は手に入れた情報を脳内のキャンバスに広げて精査する。


機械オタがわざわざ「満月の夜」という特定のタイミングを指定した理由。


そして、この死に絶えた港の静寂が、一体何を、誰から守り続けているのか。


静寂が、物理的な重さを持ってテラの肩にのしかかる。


 数分、あるいは数十分が経過しただろうか。不意に背後で、湿った古い木材を直接叩くような、鈍く重い足音が響いた。


乾いた足音ではない。水を吸い込んだ重い布が、地面を引きずるように歩く、不快な摩擦音を伴う音だ。


テラは振り返らず、視線だけをわずかに動かした。


そこには、全身を腐りかけた海藻のように絡みついたボロ布で覆い隠した、異様に背の低いNPCが立ち尽くしていた。


その姿は、人というよりは海から這い上がってきた異形の塊に近い。NPCは、顔を覆う深すぎるフードの奥から、ひどく濁り、喉の奥で小石を転がすような、粘りつく声を絞り出した。


「……余所者か。こんな、潮の腐った場所へ何をしに来た。ここには、日の当たる場所を歩く者が求める宝など、一つも残っちゃおらんよ。あるのは、飲み込めぬ後悔と、底なしの泥だけだ……」


その言葉は、単なる門前払いか、あるいは、これから始まる「禁忌」への警告か。


テラはゆっくりと立ち上がり、その不気味な人物へと静かに向き直った。

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