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銀閃⑩

戦場の喧騒は、もはや遠い過去の出来事のように完全に消え去っていた。


 先ほどまで設備区画の通路を満たしていた苛烈な戦闘の余熱は、今や無残な鉄の残骸と、鼻を突く焦げた匂いとしてしか存在していない。


冷え切った金属床の上には、一撃で破壊された機械部品の破片や、持ち主を失った装備の欠片が、墓標のように虚しく散乱している。断線した太いケーブル束からは、死に体の生き物が喘ぐかのように、細く青白い火花が断続的に散り続けていた。


その、チリ……チリ……というわずかな電気音だけが、異様な静けさに包まれた空間の中で、かえって痛いほど強調されていた。


その破壊の静寂の中央で、生き残った二つの影が対峙している。


 テラは刀を中段に構えたまま、荒くなる呼吸を懸命に整えていた。


全身の筋肉に蓄積した疲労とダメージは、泥のように重く肉体に纏わりつき、確実に反応速度を鈍らせている。


しかし、それでもテラの構えに一点の揺らぎもなかった。


瞬き一つ、指先のわずかな震えさえもが、そのまま「死」という不可避の結末に直結する相手だと、魂のレベルで理解していたからだ。


足裏の感覚を研ぎ澄ませ、いつでも限界を超えた踏み込みができるよう神経を尖らせながら、テラの視線は眼前の存在から決して逸らされることはなかった。


視線の先。銀髪の剣士は、ただ静かに長剣を携えて立っていた。


 その構えに物理的な変化はない。


だが、そこから発せられる威圧感の密度は、数秒前とは比較にならないほどに跳ね上がっていた。


周囲の雑兵が淘汰され、戦場に残る対象がわずか二人になったことで、剣士の意識から余計な処理が完全に削ぎ落とされたのだ。


今、彼は純粋に「眼前の敵、テラという個体だけを斬る存在」へと先鋭化し、収束している。


その凄まじいまでの集中が、通路の空気そのものを物理的に重く変質させ、呼吸することさえ困難な圧力となって押し寄せてくる。


少し離れた位置で、半壊した《最高傑作一号》が絶望を体現するように黒い煙を上げていた。


「……いや、正直に言うよ。これ、無理ゲーだろ」


 歪んだ装甲の隙間から、機械オタの乾いた、どこか諦念の混じった声が漏れる。


「さっきの空間ごと断ち切るような範囲攻撃。あんな不条理、どうやって避ければいいんだよ……冗談抜きでさ」


 彼は小さく呟き、それ以上言葉を続けるのをやめた。もはや自分たちが介入できる領域ではない。


テラと銀髪の剣士を隔てる距離は、およそ十歩。


 全力で踏み込めば一呼吸で届く、あまりに短い距離。だが、その数メートルの空間には、超えがたい絶望の深淵が横たわっているかのように感じられた。


 互いに理解していた。


次にどちらかが指一本でも動かした瞬間、それがこの戦いの最終局面、すなわち致命的な決着へと直結するということを。


 凍りついたような沈黙の中で、極限の読み合いが続く。肺に取り込むわずかな酸素の量、微細な重心の移動、そして網膜に映る視線の揺れ。そのすべてが、次の一撃の軌道を決定づける決定的な材料となる。


やがて、銀髪の剣士が重い口を開いた。


「……あの技から生き残るか」


 低く落ちた声には、わずかな興味が混じっていた。


 テラは構えを崩さず、浅く息を吐く。


「運が良かっただけだ」


 短く返す。


 強がりではない。


 実際に、完全に避けきれたわけではなかった。


 スカーは何も言わない。


 ただわずかに視線を細め、テラを見ている。


 その沈黙が、評価の代わりだった。


 テラは続ける。


「そっちは余裕そうだな」


「どうだろうな」


 あいまいな返答だが息一つ上げてないところを見るに余裕なんだろう。


 テラは小さく息を吐く。


「……そうかよ」


 短い納得。


 そこに無理はない。


 ただ差を受け入れているだけだった。


 そして視線を上げる。


「で、どうする」


「何がだ」


「ここで終わらせるのかって聞いてる」


 間を置かずに返す。


 逃げる気はない。


 その意思だけは明確だった。


 彼はわずかに沈黙する。


 視線が、ほんのわずかに鋭くなる。


「終わらせること自体は容易い」


 静かな声。


「だが、それに意味があるかは別だ」


 温度の低い言葉。


 テラは目を細める。


「意味で斬るかどうか決めるタイプか」


「違う」


 即答だった。


「意味のないことに時間を使わないだけだ」


「帝国兵は全員撤退してこれ以上時間を稼ぐ必要がない」


淡々とした、あまりに実務的な返し。


彼にとって、この戦場に留まる理由は「任務」という枷のみであり、それが外れた今、テラの命を奪うことは予定表にない無駄な作業に過ぎないのだ。


その徹底した合理性に、戦士としての揺らぎはない。


 短い沈黙が落ちる。テラはゆっくりと、熱を帯びた空気を吐き出した。「……なるほどな」。


そして、言葉を継ぐ。「じゃあ、まだ終わってないってことでいいか」


確認。だが、その声に迷いはない。


スカーはわずかに頷く。


「少なくとも今はな」。静かな肯定。その一言で、戦いの継続は回避された。


空気がわずかに緩むが、張り詰めた糸が切れたわけではない。


その直前で、スカーが問いかけた。


「名を聞こう」


それは、死地を共にした相手への、武人としての最低限の礼節。テラは一瞬だけ呼吸を止め、魂の名を答えた。「……テラだ」


「十分だ」


 剣士は小さく、満足げに頷く。そして、自らの重い二つ名を名乗った。


「スカー・レイヴン。帝国七座が一人――『神速』のスカー」


空気が完全に沈殿した。


その名が冠する「帝国七座」という意味を、そしてその頂点の一角が持つ絶望的な重みを、誰もが理解していた。


後方で機械オタが「……マジかよ。七座が相手じゃ、最初から勝ち目なんてなかったんだな」と、力なく呟いたが、その声もすぐに静寂に吸い込まれた。


名乗りを終えたスカーは、迷いなく長剣を鞘へと収めた。


カチリ、と硬質な音が通路に響き渡る。もはや彼にとって、この場に斬るべき対象は存在しない。彼はテラに背を向け、悠然と歩き出した。


「ここで終わらせるには、あまりに惜しい素材だ。テラよ」


歩みを止めず、背中越しに重厚な声が落ちる。


それは称賛であり、同時に再会の呪いのようでもあった。


「死地を生き延びろ。お前とは、またどこかで、もっと凄惨な戦場でまみえることになるだろう」


その言葉を最後に、帝国の怪物の気配は霧のように通路の奥へと消え去った。


 テラはその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる足音が完全に聞こえなくなるまで刀を収めることはできなかった。膝の震えが止まらない。


死線の淵で踊らされていたのだという事実が、遅れて全身を駆け巡る。


この戦いは終わっていない。ただ、一つのあまりに巨大な幕が、一時的に下りたに過ぎない。


テラは重く、そして確かな一歩を刻むべく、ゆっくりと刀を鞘に収めた。

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