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銀閃③

 静寂が支配する通路のただ中で、その銀の刃は、まるで深海の水底から浮上する泡のように緩やかに持ち上がった。


 男の動作には、およそ戦闘に付随するはずの力みが一切存在しなかった。


 肩を怒らせることも、足腰に過剰な重力をかけることもなく、ただ手首の関節を僅かに返しただけの、形容しがたいほどささやかで、かつ洗練された所作。


 しかし、その微細な位置の変化が完了した刹那、男の存在そのものが物理法則を嘲笑うかのように視界から掻き消えた。


 直後、大気が悲鳴を上げて両断される。


 鼓膜の奥を直接抉るような鋭い風切り音が鳴り響くよりも早く、テラの生存本能は極限まで加速し、その身体を反射的に捻らせていた。


 火花が散る。


 コンマ数秒の差で、冷徹な鋼がテラの脇腹の装甲を撫で、摩擦熱によって赤く焼けた金属片が暗がりに飛び散った。


 神経を直接叩くような熱を帯びた痛みが一瞬遅れて脳に到達するが、その衝撃を咀嚼する暇など与えられない。その一撃は、破滅へと続く葬列の第一歩に過ぎなかったからだ。


 男の剣技は、もはや「振る」という概念を超越していた。


 腕の振り幅は最小限に抑えられ、身体の軸は微塵も揺るがない。


 大きく振りかぶって威力を稼ぐといった野蛮な思想はそこにはなく、ただ最短距離を滑る刃が、慣性を次の動作へと繋げるための触媒として機能している。


 流れるような軌道の変化。淀みのない連鎖。それは「連閃」という名の、意思を持った銀の奔流となってテラへと襲い掛かった。


 右から迫る初太刀を、テラは自身の剣を強引に割り込ませて受け止める。


 鋼と鋼が正面から衝突し、甲高い金属音が閉鎖的な通路に反響した。腕を伝って骨を震わせるほどの衝撃が走るが、男の剣はその反動すらも次の推進力へと変換する。


 弾かれたはずの刃が、物理的な限界を超えた速度で手首を返し、即座に左からの鋭い水平斬りへと変貌した。


 テラは必死に身体を沈め、装甲の表面を滑らせるようにしてそれを受け流す。しかし、息をつく暇もなく、視界の死角である下段から、床を這うような一撃が迫り上がってくる。


 受ける、弾く、流す。


 テラの意識は、もはや防戦のための演算に全リソースを割いていた。


 次々と角度を変えて襲い来る銀の線は、幾重にも重なり合い、まるで光の檻のようにテラの周囲を囲い込んでいく。


 鋼がぶつかり合うたびに火花が瞬き、その断続的な光が、無機質な男の表情を断片的に照らし出す。


 男の瞳には、殺意すらも混じっていない。ただ、そこにある障害を排除するという事務的な無機質さだけが、冷たく宿っていた。


 だが、防ぎ切れない。


 防御の精度が、男の加速し続ける剣速に追いつかなくなっていく。


 肩口の防具が紙細工のように切り裂かれ、鮮血が舞う。


 脚部の装甲は執拗な連続打撃によって歪み、金属の削れる不快な音がテラの聴覚を削った。


 一撃一撃の重さは、決して致命的なものではない。


 しかし、その圧倒的な「速さ」が積み重なることで、テラの猶予を確実に奪い去っていく。半拍、いや、瞬き一つ分にも満たない反応の遅れが、確実に刃をその身へと招き入れていた。


「……くっ!」


 テラは床を強く蹴り、後方への跳躍を試みた。


 現状の距離感では、男の主導権を崩すことは不可能だと判断したためだ。身体が横へ滑り、空を裂いた銀の刃が、網膜に残像だけを焼き付けて通り過ぎる。


 ようやく生まれた、数メートルの空間。しかし、その安堵感は、次の一歩を踏み出した男の足音によって即座に粉砕された。


 男の足運びには、加速のための溜めが存在しない。ただ一歩、無造作に踏み込んだかと思った瞬間には、その身体はすでにテラの眼前へと肉薄していた。間合いを支配しているのは、常に男の方だった。


 刃が閃く。テラは咄嗟に剣を交差させて受け止めたが、衝撃が腕を激しく震わせる。


 男の手首が再び、魔法のような滑らかさで返る。


 ほんの僅かな軌道の修正。

 それだけで刃はテラのガードをすり抜け、脇腹から胸元へと滑り込む。


 無駄が一切排除されたその動きには、攻撃の終わりも、移動の隙も存在しない。


 テラが後退すれば、その分だけ男の影が伸びるように距離を詰めてくる。完全に主導権を掌握され、テラは防戦という名の緩やかな死の階段を下り続けていた。


 このままでは、確実に削り殺される。


 防御の反射速度はまだ死んでいない。


 だが、反撃の余地がどこにも見当たらないのだ。


 男の連撃は、一つの攻撃が次の攻撃の予備動作を兼ねており、こちらが剣を差し込もうとした瞬間には、すでにその場所には別の刃が置かれている。


 ならば――自ら隙を作り出すしかない。


 テラの尾が、意志を持ってわずかに揺れた。


 幻尾により認識を狂わせる攪乱の術。視界の中でテラの輪郭が数センチほど横へずれ、実体のない虚像が男の剣を誘う。


 男の長剣が、迷いなく振り抜かれた。銀の刃が、そこに「ある」はずの像を冷酷に切り裂く。


 今だ。


 テラは迅尾でを逆方向へと加速させた。床を蹴る音が通路を叩き、爆発的な推進力がその身体を男の背後へと送り届ける。


 男の背中が無防備に晒された。テラは歯を食いしばり、装甲の継ぎ目――防御が最も薄く、致命傷を与えうる一点へと、渾身の力を込めて刃を振り下ろした。


 勝った。そう確信した瞬間、硬質な金属音が周囲の空気を震わせた。


 テラの刃は、標的に届く寸前で、不可視の壁に阻まれたかのように停止していた。


 そこに、男の長剣があった。


 男は振り向いてすらいない。


 ただ、背後に回された一本の腕と、逆手に持たれた剣の腹が、テラの必殺の一撃を完璧に受け止めていた。


 超常的な反射神経、あるいは背後にまで及ぶ空間把握能力。そのどちらにせよ、テラの奥の手は、男にとっては想定内の事象に過ぎなかったのだ。


 次の瞬間、男の肩が微かに回った。


 それは武術的な理合に基づいた、最小の動作による力感の放出。


 そのたった一つの動きだけで、テラの刃は強烈な反動を伴って弾かれ、整えていたはずの重心が根底から崩される。間合いが、リズムが、そして生存への希望が乱れる。そのわずかな隙を、戦場の捕食者が逃すはずもなかった。


 男が半歩だけ、静かに踏み込む。


 重力を感じさせない斬撃が走り、鋭い衝撃がテラの腹部を容赦なく叩いた。


 肺に含まれていた空気が、圧力によって一気に体外へと押し出される。呼吸を奪われ、テラの身体は木の葉のように後方へと弾き飛ばされた。


 靴底が金属の床を激しく削り、長い摩擦音と焦げた匂いを引きずりながら、彼女の体躯は壁際へと追いやられる。


 しかし、追撃は止まらない。男の姿が再び視界から消失する。


 次の瞬間には、目前に迫る銀の閃光。


 テラは朦朧とする意識の中で剣を動かそうとするが、もはや肉体は悲鳴を上げ、神経伝達は遅滞していた。


 間に合わず鋭い衝撃が右肩を裂き、立て続けに放たれた二撃目、三撃目が装備を粉砕する。


 HPバーは加速度的に削られ、危険域を示す真紅の光が網膜を焼く。テラは血の混じった唾を吐き捨て、死に物狂いで床を蹴って空間を稼ごうとしたが、男はその動きを先読みするかのように常に最短ルートで肉薄してくる。


 一歩、そのわずかな足運びだけで、テラが必死に稼いだ距離が虚無へと帰す。


 振り下ろされる刃。テラは残った力を振り絞り、剣を交差させてそれを迎撃した。


 鋼と鋼がぶつかり合う凄絶な衝撃。腕の骨が軋み、鈍い音を立てて悲鳴を上げる。


 押し込まれる。それは単純な筋力の差ではなく、絶え間なく繰り出される速度の連動が生み出す、圧倒的な質量としての圧力だった。


 連撃の流れがテラの防御網を紙のように薄く削り取り、受ける角度が、タイミングが、一歩ずつ確実に崩壊へと向かっていく。


 そして、その瞬間が訪れた。


 男の剣が、まるで水面に映る月が揺れるように、ふわりと軌道を変えた。

 回避不能のタイミングで放たれた次の一撃が、テラの胸元、急所を保護する装甲の間隙へと滑り込む。

 世界が止まったかのような錯覚。

 鋭い衝撃が胸を貫き、装備が音を立てて裂けた。

 HPが最後の一目盛りを残して消失する。


 テラの膝が、耐えきれずに震えた。

 視界の端で、男が再び静かに一歩を踏み出すのが見えた。

 持ち上がる銀の剣。その動きは、最初と同じく、あまりにも小さく、慎ましい。

 だが、その静寂の果てに放たれたのは、もはや物理的な「斬撃」ですらなかった。


 テラの眼には、男が剣を振るった光景さえ映らなかった。

 ただ視界を、世界の裂け目のような純白の閃光が横切ったことだけが認識された。


 直後、全感覚を上書きするような凄まじい衝撃が全身を貫き、テラの意識は肉体という檻から解き放たれるように、急速に遠ざかっていく。


 膝から力が抜け、床が近づいてくる。

 頬に伝わる金属の冷徹な感触。それが、テラが最後に感じた物質的な現実だった。

 男は、血の一滴も付着していない剣を静かに下ろし、肺に残った僅かな熱を吐き出すように、ゆっくりと息を吐いた。


「……もう終わりか」


 その声には、勝利を誇る慢心も、死闘を演じた相手への敬意も含まれていなかった。


 ただ、予定されていた結末が予定通りに訪れたことを確認しただけの、淡々とした事実の羅列。

 テラの視界は急速に色彩を失い、音も、熱も、痛みさえもが深淵へと吸い込まれていく。

 意識が完全に途切れる寸前。

 世界は突如として、無慈悲なほどの白一色へと塗り潰された。

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