第3話「400Mへの招待状」
入学から一週間が経った。
春の陽気は日に日に力を増し、校庭の桜も散り際を迎えていた。花びらが風に舞う光景は美しいはずなのに、田中優の心はどこかざわついたままだった。
原因は――言うまでもなく、高原いさお。
毎日のように勧誘を続ける陸上部の部長は、しつこさと情熱を兼ね備えた男だった。朝の昇降口、昼休みの校庭、放課後の廊下……ありとあらゆるタイミングで声を掛けてくる。
「田中!今日は100メートルだけ走ろうぜ!」
「なぁ田中、シューズまだ持ってんだろ?久しぶりに履いてみろよ」
「お前、走ってる時の顔、すげぇ楽しそうなんだって」
その言葉の数々は、心の奥に眠っていた「走る楽しさ」を少しずつ呼び覚ましていく。だが同時に、あの痛みの記憶がフラッシュバックのように田中を苛む。
直線に入った瞬間の激痛、倒れ込んだトラックの熱、救急車のサイレン――。
「……いやです。僕はもう、走りません」
何度もそう告げた。それでも高原は笑顔を崩さず、諦める素振りを見せなかった。
ある日の放課後。校舎裏の自販機でスポーツドリンクを買った田中は、ベンチに腰を下ろして空を仰いだ。春雲がゆったりと流れていく。
そこへ影が差し込む。見上げれば、案の定、高原だった。
「やっぱりここにいたか」
「……またですか、先輩」
「おう。お前の居場所なんて、もうだいたい把握してんだよ」
苦笑いしながら高原はベンチに腰を下ろし、缶コーヒーを一口飲んだ。ふたりの間に沈黙が流れる。
田中はため息をつき、正直な気持ちを口にした。
「先輩は、なんでそこまで僕にこだわるんですか?僕なんか、もう終わった人間ですよ」
高原は田中をじっと見つめた。まっすぐな瞳が逃げ場を与えてくれない。
「終わった? お前、何言ってんだ」
缶を片手に、高原は少し語気を強めた。
「確かに怪我はした。走れない時間もあった。けどな、お前が積み上げてきたもんは、怪我ひとつで消えねぇんだよ。俺はな、お前の走りを見たことがあるんだ。あの加速、あの粘り、あの闘志。あれは一朝一夕じゃできねぇ。お前は“まだ”終わっちゃいねぇ」
田中の胸が締め付けられる。心の奥に響く言葉だった。
だが、それでも不安は拭えない。
「でも……また怪我をしたら……」
「そんなもん、走る前から考えてどうすんだよ」
高原は笑った。
その笑顔は強引で、でも不思議と安心感を与える。
「なぁ田中、そろそろ答え出せよ。入るか入らねぇか、いつまでも逃げんな」
沈黙が落ちる。桜の花びらがふたりの間に舞い落ちる。
やがて高原は立ち上がり、真正面から田中を見据えた。
「よし、こうしよう。俺とお前で勝負だ」
「……勝負?」
「そうだ。400メートル。お前の得意種目だろ?」
田中は凍りついた。
400メートル――自分が人生を懸け、そして折られた距離。
「……僕が勝ったら?」
「そのときは、もう二度と勧誘しねぇ。お前は自由だ」
「じゃあ、僕が負けたら?」
高原はにやりと笑う。
「そのときは、うちの陸上部に入ってもらう」
シンプルで、逃げ場のない提案。
田中は言葉を失った。心臓が強く脈打ち、体の奥で何かが熱を帯び始める。
走りたくない。怖い。けれど――走りたい。心の奥底で燻っていた感情が、鮮やかに蘇る。
「……無理です」
やっとの思いで声を絞り出した。だがその言葉は、自分の本心からは遠い気がした。
高原はふっと笑い、肩をすくめた。
「いいさ。返事は今すぐじゃなくてもいい。けどな、勝負からは逃げられねぇぞ」
そう言い残して立ち去る背中を、田中はしばらく見つめていた。
胸の鼓動は早鐘を打ち続けている。
その夜。
田中は机に広げた教科書を閉じ、スパイクを手に取った。泥の跡が残るそれは、過去の栄光と挫折の象徴。
――また、走るのか。
窓の外では夜風が木々を揺らし、街の灯りが静かに瞬いていた。
不安と期待が入り混じる胸の奥で、確かな「鼓動」が鳴り響いていた。
高原の提案が、田中の中でゆっくりと形を成していく。
答えを出す時は、もうすぐそこまで迫っていた。




