第2話「しつこい勧誘」
入学式から数日が経ち、安田高校の校内は春の光に包まれていた。新入生たちはそれぞれのクラスに馴染もうと必死で、机の配置や友人関係を確認しながら少しずつ学校生活に慣れていく。しかし、田中優にとっては、その日々もどこか落ち着かないものだった。
理由は明白だった。
陸上部の部長・高原いさお。
彼の存在が、田中の胸の奥に静かに、しかし確実に波紋を広げていたのだ。
「田中!昼休み、校庭で少しだけ走ろうぜ!」
昼休みのチャイムが鳴るや否や、高原はいつもの笑顔で声を掛けてくる。田中は教室の窓から校庭を眺め、目を逸らした。
怪我をした右脚がまだ完全に回復していないこともあり、再び走ることに恐怖を感じていた。
「すみません、高原先輩。僕は……」
田中が言葉を濁すと、高原は軽く肩をすくめ、にやりと笑った。
「いいんだよ。俺が諦める必要はねぇ。お前が来るまで、ずっと待ってるだけだ」
言葉は穏やかだが、その目には確かな意志が宿っている。田中は視線を逸らし、心の中で葛藤した。
――怖い。でも、あの瞬間の高揚感を、もう一度感じてみたい――
放課後。教室の窓際でノートに向かう田中のもとへ、高原が現れた。
「勉強してる暇があるなら、少し走ろうぜ。ちょっとだけでいい」
田中はため息をつき、ペンを置いた。
「先輩……本当に、僕はもう……」
「知ってる。でもな、俺はあきらめねぇぞ。お前が走りたいと思うその瞬間まで、俺は待つ」
その一言に、田中の心は微かに揺れた。足の骨折の恐怖と、心の奥底に眠っていた情熱――その二つがぶつかり合い、葛藤が生まれる。
その夜、田中は自室でランニングシューズを手に取り、手のひらで撫でた。泥の跡がついたスパイク。過去の自分が全力で駆け抜けた証。
「もう二度と走らない」そう自分に言い聞かせたはずなのに、心のどこかで再び走りたいという欲望が芽生えていることに気づく。
翌日も高原の勧誘は止まらなかった。廊下の角、階段の踊り場、教室前――どこにいても声が飛んでくる。
最初は無視することでやり過ごしていた田中だが、日に日にそのしつこさは増していった。
「田中、今日は校庭で200メートルだけ走ろうぜ!」
「いや、先輩、まだ無理です……」
「少しだけだ。な?」
その声が廊下の奥から響くたび、田中は胸の奥で何かが疼くのを感じた。恐怖と、欲望と、懐かしさと――複雑に絡み合う感情。
ある日の昼休み、田中は友人と話していた。
「お前、あの部長、ほんとにしつこいな」
「うん……でも、何か……あの人、ただのしつこい先輩じゃない気もする」
田中自身も、何かに引き寄せられる感覚を否定できなかった。
高原の目は純粋で、まっすぐで、走ることに対する情熱が溢れていた。
午後の授業が終わり、教室から出ようとした田中の背後から声がかかった。
「田中!放課後、校庭で一緒に走ろうぜ!」
田中は立ち止まり、深呼吸を一つした。胸の奥で、長く封印していた鼓動が確かに鳴っていることに気づく。
――あの瞬間、もう一度、走ってみたい――
だが、恐怖は簡単には消えない。
骨折の痛み、再発のリスク、社会復帰の不安……すべてが頭をよぎる。
「……すみません、先輩。今日も無理です」
高原は肩をすくめ、いつもの笑顔を見せた。
「いいんだよ、俺は諦めねぇ。お前が走りたいって思った瞬間まで、ずっと待ってる」
田中はその言葉に、胸の奥で小さな火花が散るのを感じた。
放課後の校庭に立ち、高原の姿を遠くから見つめる。軽く笑いながらトラックを駆け抜ける高原の後ろ姿に、田中の胸の奥に眠っていた感情が揺れる。
――もう一度、走ることの喜びを思い出してしまったのかもしれない――
その夜、田中はランニングシューズを抱きしめながら、窓の外に広がる夜空を見つめる。春風がカーテンを揺らし、彼の心をかすかにくすぐった。
まだ答えは出せない。けれど、この一週間で、何かが確実に変わり始めていることを、田中は感じていた。
高原の存在が、彼の心に新しい風を吹き込み始めていた。
――そして、その風は、まだ誰も知らない未来へ、田中を導こうとしていた。




