第4話「疾走の幕開け」
春の陽射しが校庭を照らしていた。花壇のチューリップが鮮やかに咲き、グラウンドの砂は少し湿り気を帯びている。放課後、校舎の窓から見下ろすと、すでに校庭の一角には人だかりができはじめていた。
――噂は、思っていたより早く広がる。
田中優は教室でジャージに着替えながら、ざわつく心を抑えようと深呼吸した。今朝、高原に告げられた挑戦――「俺と400mで勝負しよう」。その提案を断ることはできなかった。
「一度きりだ。俺が勝ったらお前は陸上部に入る。それでいいな?」
真剣な眼差しで告げられたその言葉に、優は小さく頷いてしまっていた。逃げ場をなくした自分を後悔しつつも、心の奥では妙な高揚感があった。
――また走れる。いや、走ってしまうんだ。
不安と期待が入り混じった気持ちを抱えながら、優はグラウンドへと向かう。
校庭に出た瞬間、耳に飛び込んでくるのは歓声だった。
「おい見ろよ! 田中と部長が勝負するんだって!」
「関東トップの400mランナーと安田の部長……やばいだろ!」
「絶対見逃せねぇ!」
いつの間にか百人近い生徒が集まり、グラウンドのトラック沿いに人垣を作っていた。スマホを掲げる者、声援を送る者、ただ好奇心で眺める者。まるで文化祭のイベントのような騒ぎだ。
その中心に、高原いさおの姿があった。
ジャージの上を脱ぎ、陸上用のユニフォームに身を包んだ彼は、堂々とした佇まいでストレッチをしている。太陽を受けた汗が光り、しなやかな筋肉が際立つ。
「来たか、田中」
高原が笑顔で手を挙げる。田中は喉が乾くのを感じつつ、その声に応えた。
「……はい」
わずかに声が震えたのを、自分でも感じた。だが高原は気づいた様子もなく、にやりと笑う。
「安心しろ。今日のこれは勝負だけど、お前の実力を引き出すための舞台だ。怪我を怖がるな。全力で来い」
その言葉に田中の胸がちくりと痛んだ。怪我――忘れられない、あの都大会の骨折。再び走ることで同じことが起きるのではないか。だが、それ以上に胸を占めていたのは、「走れる喜び」への渇望だった。
「……はい、全力で」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
審判役は、たまたま居合わせた体育教師が引き受けてくれた。「せっかくの勝負だから、俺がスタートを切ってやる」と嬉しそうに言う。野次馬たちは拍手し、緊張と期待の空気がさらに濃くなる。
スタート地点に並ぶ二人。
トラックは一周300メートル。400メートルを走るためには1周と3分の1を回らなければならない。
――300メートルを越えたラスト100。そこからが勝負だ。
優は足元を見つめた。ランニングシューズのつま先が、白いスタートラインの上にぴたりと重なる。手のひらに汗が滲む。視界の端で、高原が静かに深呼吸をしているのが見えた。
「位置について」
体育教師の声が響く。周囲の喧噪が一気に遠ざかり、世界が無音になったように感じた。心臓の鼓動だけが耳の奥で鳴り響く。
――俺は走れるのか。もう一度、走れるのか。
「よーい……」
息を止めた。全身の神経が指先まで研ぎ澄まされる。
「パンッ!」
号砲が鳴り、二人は同時に飛び出した。
観客の歓声が爆発する。
「うおおおお!」
「速ええ!」
「どっちも譲らねぇ!」
最初のストレート。田中は慎重に、しかし確実にスピードを上げていく。まだ恐怖は完全に消えない。だが脚は動く。走れる。風を切る感覚が蘇る。
横目で見ると、高原はわずかに前に出ている。無駄のないフォーム、しなやかな脚捌き――さすがは部長だ。だが田中も負けていなかった。都大会を戦った経験が、身体に染み付いている。
カーブに差し掛かる。観客がさらに大声を張り上げる。
「田中いけぇぇ!」
「部長がんばれぇぇ!」
息が荒くなる。肺が焼けるように熱い。だがその苦しさの奥に、懐かしい感覚があった。
――そうだ。俺は、この苦しさの中で生きてきたんだ。
3コーナーを回る頃には、二人は完全に並んでいた。観客の歓声がさらに大きくなり、スマホを掲げる手が無数に光る。
残り100メートル。
勝負はこれからだ。
田中の心臓が激しく鼓動する。恐怖はもうなかった。ただ純粋な「走る楽しさ」が胸に広がっていく。
――まだ走れる。まだ、俺は速くなれる。
直線へと差し掛かる二人。息を詰めるように観客が見守る。
「勝負はここからだ!」
高原が叫んだ。
そして――勝負は最終局面へと突入していく。




