50話神託
祠の扉が完全に開いたあと、空間はしんと静まり返っていた。
ケンイチとミコは、光の奥から感じる「何か」に、ただ立ち尽くしていた。
その時――
『……酒を……もう一度……あの清酒を、我に……』
頭の中に直接響くような、やわらかく、それでいて荘厳な声が届いた。
「……!」
ケンイチは思わず隣を見ると、ミコも驚きに目を見開いていた。
「き、聞こえましたか……?ケンイチさま」
「……ああ、聞こえた。……今のって……神様の声?」
ミコは震えるように頷く。
「神の声は、聖職者である私だけに届くはず……それなのに……あなたも……」
ミコは驚きと共に、なぜか少し嬉しそうな表情を浮かべた。
再び声が届く。
『我が力は、完全ではない。
あの封印を溶かした、清酒の氣――あれが必要。』
神は、力を取り戻すために、もう一度清酒を口にしたいというのだった。
だが――
「困ったな……」とケンイチは額に手を当てる。
「ここ、霧の谷には材料が少ない。水はあるけど、米や麹、酵母も足りないし……」
「持ってきたものを使うしか……」とミコが呟く。
彼らが持ち込んだマジックボックスを開け、中を確認する。
奇跡的に、前回修道院で仕込んだ小さな麹の瓶と、乾燥させた種麹、そして少量の白米が残っていた。
「……なんとか、なるかもしれない」
ケンイチは口元を引き締めた。
「セラフィーナ、三姉妹、ミコ。協力してくれるか?」
「ふん、こんな面白い状況、逃す手はないわね」とセラフィーナ。
「やるしかねーだろ」「俺たちに任せろなの」「全力でやるです」
三姉妹も気合が入っていた。
こうして――
材料の乏しい霧の谷での、極限の清酒づくりが始まった。
⸻
洞窟の中はひんやりとしていた。
岩肌からはうっすらと霧が立ち上り、幻想的な光景が広がっている。
その奥に設けられた即席の仕込み場では、ケンイチたちが静かに、そして丁寧に手を動かしていた。
「……よし、聖水を計量。温度は……少し低いな。火を近づけて少しだけ上げよう」
ケンイチは岩の窪みに設置した鍋の中の水温を慎重に測る。
祠の岩肌から湧き出る水は、わずかに青白く光り、触れるだけで指先に清浄な感触を残した。
「この水……ただの水じゃないですね。力を感じます」
ミコが小さな声で呟いた。
「きっと……神の力が宿ってるんだろうな。だからこそ、これで仕込む意味がある」
湧水は仕込み水として最も重要な存在だ。
普通の水では、この地の穢れを越えるだけの力がなかったかもしれない。
一方、岩陰ではベアトリーチェとフェリシアが、懐から取り出した乾燥米を研ぎ、丁寧に蒸していた。
「火力、強すぎると焦げるぞ。弱めてだ」
「わかってるなの。ちゃんとふっくら蒸してみせるの」
湯気が立ち上るたび、谷に満ちた霧と混ざり、甘くほのかな香りが洞窟を満たしていく。
仕込んだ米が程よく蒸し上がると、今度は麹づくりだ。
種麹をほんの少量、指先ですくい取り、薄く広げた蒸し米の上にふりかけていく。
「……この作業、好きなんだ」
ケンイチが小さく微笑む。
「手間がかかるけど、ここから“命”が生まれる感じがする」
彼は昔、現世の小さな蔵で教わった通り、米一粒一粒に語りかけるように麹菌を撒き、その上に清潔な布をそっとかけた。
「温度を上げすぎると死んじゃうから……焚き火の位置を調整して」
セラフィーナは冷静に火加減を見ながら、温度計代わりの金属棒を数本、土に刺していた。
「ここなら安定しそう。いい発酵ができるはず」
数時間後、空気が変わった。
ふわり、とろけるような甘い香り。蒸し米に命が宿った瞬間だった。
「……よし。麹、できた」
今度は仕込みだ。
麹、残りの蒸し米、そして霊水を混ぜ、即席の木桶に仕込む。
問題は酵母だった。
この谷には、人工の酵母はない。だが――
「この薬草……こっちの葉の裏に白い粉、見える?」
「野生酵母……? まさか、こんな霧の土地に……」
「賭けだけど、やるしかない」
彼らは薬草から採取した天然酵母を、小さな瓶で一晩育て、酒母を造る。
そして、酒母を元に発酵へ――
洞窟の中では、甘くかすかに酸味のある匂いとともに、静かに音を立てながら発酵が進んでいた。
「……頼む、発酵してくれ!スキル酒聖!」
ケンイチは手を合わせるように、桶の前に膝をついた。
神に捧ぐ酒。
霧の谷を変えるかもしれない一滴。
限られた材料、道具、不安定な環境――それでも、仲間とともに、心をこめて造り上げた酒が、いままさに生まれようとしていた。




