夢乃カナ
見知らぬビルの三階は、無人のコワーキングスペースだった。
ロビーから階段を上がると、大きな長テーブルと、ずらりと並んだパソコンが現れた。人の気配はない。窓の外では、午後の光が、誰もいない新宿の街を照らしている。
三人は、ひとまずそこに腰を落ち着けた。
葵は、椅子に座るなり、机に突っ伏した。
「……生きてる」
「ああ」
朔人は、視界の左上の数字を確かめた。
HP 221/248
葵の数字は、さらに低い。
HP 9/50
「危なかったな」
「あと一発やったら、終わっとった……」
その声に、壁際で静かに息を整えていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたの数字、9ね」
穏やかな声だった。それなのに、葵の背中が、びくりと強張った。
「私が、今、一言唱えれば、終わる数字だわ」
朔人は、反射的に立ち上がって、葵の前に出た。
「……やるつもりか」
「やるつもりなら、さっきあの子から逃げるとき、わざわざ一緒に走らないわ」
女性は、くすりと笑って、両手を軽く上げた。
「冗談よ。ごめんなさい、少し意地悪だったわね」
「意地悪にも、ほどがあります……」
葵が、机に突っ伏したまま、くぐもった声で言った。
女性は、改めて、二人に向き直った。
「自己紹介が、まだだったわね。夢乃カナ。29歳。もちろん、ペンネームよ」
「ゆめの、かな」
「少し、夢見がちな名前でしょう。ギャグ小説を書いているから、せめて名前くらいは、ふわふわさせておこうと思って」
カナの頭上の数字が、目に入った。
HP 716/716
朔人の三倍近い数字だった。レイの6,000とは比べものにならないが、それでも、ここまで生き残ってきた作家の数字だ。
「『魔王軍の経理係は、定時で帰りたい』って作品を、書いているの」
「……あ」
朔人は、見覚えがあった。ランキングの隅で、何度か見かけたタイトルだった。
「ひとつ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「さっきの攻撃は、あれで全力だったのか」
「ええ。あれで、精一杯」
カナは、悪びれずに言った。
「私の言葉は、笑ってもらうために選んだものばかりなの。誰かを傷つけるための言葉は、あまり持っていないのよ」
「笑ってもらうため……」
「文字で、人を笑顔にすること。それが、私が小説を書く、たった一つの理由なの」
カナの声は、静かだった。
「だから、HPを稼ぐために、売れ筋のジャンルに寄せようと思ったことは、何度もあるわ。でも、やめたの。人を笑わせない小説は、私の小説じゃないもの」
朔人は、言葉を失った。
あの攻撃が、100しか入らなかった理由が、分かった気がした。
「単刀直入に言うわね。二人に、共闘を申し込みたいの」
「……共闘?」
「ええ」
カナは、窓の外に目をやった。
「あの子、レイは、化け物よ。表現の質も、数も、桁が違う。私ひとりでは、絶対に倒しきれない」
「それは、俺たちだって同じだ」
「だから、手を組みたいの。ひとりで勝てないなら、束になるしかないでしょう」
葵が、おそるおそる顔を上げた。
「でも、なんで、私らなんですか。カナさん、HP716もあるのに。私の9なんて、いつでも倒せるのに」
「いつでも倒せるわよ」
カナは、あっさり言った。
「でも、倒しても、何の得にもならないの」
「得……?」
「このプログラムで最優秀者に選ばれるには、二週間生き残るだけでは、足りない。そうでしょう?」
朔人は、うなずいた。
「自分の表現で戦って、アピールしないと選ばれない」
「そう。そして、もうひとつ大事なことがあるわ」
カナは、人差し指を立てた。
「有力候補を、どれだけ脱落させられるか。最優秀者に近い作家を落とせば、その分、自分が選ばれる可能性が上がる」
「……下剋上、か」
「あら。同じことを、考えていたのね」
カナは、少しだけ目を細めた。
「だから、仲間が欲しいの。ひとりで倒せない相手に、ひとりで挑むのは、ただの自滅だわ」
朔人は、はっとした。
(……だから、俺たちか)
「俺たちを選んだのは、HPが低くて、人気もない作家だからか」
言ってから、少し、棘のある言い方だったかと思った。
カナは、否定しなかった。
「半分は、その通り。自分より強い人と組めば、いずれ後ろから刺されるかもしれない。でも、あなたたちなら、その心配が少ないわ」
葵が、ぐっと口を結んだ。
「でも、半分は、違うの」
カナは、朔人を見た。
「あのエレベーター。あれは、HPでは測れないものだったわ。自分の記憶から、あの言葉を引き出せる人は、そう多くない」
朔人は、言葉に詰まった。
「それに、葵ちゃんの、布団」
「え、私?」
「あの咄嗟の言葉は、本物だったわ。ああいう言葉は、他の人には、真似できない」
葵の頬が、じわりと赤くなった。
朔人は、息を吐いた。
(……この人は、人を見る目がある)
「最優秀者は、一人だけだ」
朔人は、念のため、言った。
「最後まで組むわけには、いかないぞ」
「分かっているわ」
カナは、静かにうなずいた。
「レイのような存在を倒すまで。その先は、お互い、正々堂々と」
その潔さに、朔人は、不思議な好感を覚えた。
葵が、朔人の袖を、そっとつまんだ。
「……朔人くん」
「ああ」
「私は、ええと思う。この人、悪い人やない気がする」
朔人も、同じことを思っていた。
「……分かった。組もう」
「ありがとう」
カナは、柔らかく微笑んだ。
*
「じゃあ、さっそく、お互いの作品を見せ合いましょうか」
カナが、パソコンを立ち上げながら言った。
「連携するなら、相手の言葉が、どんな作品から生まれているのか、知っておきたいわ」
「ええと思います。私も、カナさんの作品、読みたい」
三人は、それぞれのパソコンに向かった。
朔人は、カナの作品ページを開いた。
『魔王軍の経理係は、定時で帰りたい』。
総PVは、4,000を超えていた。自分たちとは、桁が違う。
一方で、ブックマークは二十数件、評価も、星で三十ほどだった。HPの大半は、PVが占めているようだった。
(これだけ読まれていても、ブックマークは二十数件か)
PVは、読まれれば、いずれ積み上がる。けれど、ブックマークや評価は、読者が自分の意思で押さなければ、ひとつも増えない。新人にとって、それがどれほど遠い数字か、改めて思い知らされた。
第1話を開く。
『勇者が玉座の間の扉を蹴破った瞬間、経理係のマリエルは、電卓を叩く手を止めなかった。』
『「扉の修理費、先月も請求しましたよね」』
朔人は、思わず息を漏らした。
設定が、一文で分かる。笑いどころが、迷いなく置かれている。台詞の間が、絶妙だった。
『「魔王様、領収書の宛名が『魔王様』では、経費で落ちません」』
『「……では、何と書けばよいのだ」』
『「フルネームでお願いします」』
(……うまい)
声を出して笑うほどではない。けれど、読んでいる間、口元が自然にゆるんでいた。
隣で、葵が、小さく肩を震わせていた。
「これ、めっちゃ面白い。キャラの台詞が、ほんまにうまい」
「ありがとう」
カナは、嬉しそうに微笑んだ。
朔人は、第2話、第3話と読み進めた。どの回も、最初から最後まで、迷いなく笑いに振ってある。読者に、どう読んでほしいのかが、はっきり伝わってくる。
けれど、第7話あたりで、ふと、手が止まった。
(……この展開、さっきも読んだ気がする)
勇者が襲来して、城を壊す。経理係のマリエルが、怒って請求書を出す。魔王が、胃を押さえる。
第3話も、第5話も、第7話も、同じ型だった。
第12話まで読んで、朔人は、顔を上げた。
「……最初は、すごく面白かった」
「ありがとう。……その先が、あるのね」
カナは、少し身構えるような顔をした。
「正直に言ってもいいか」
「お願い。遠慮はいらないわ」
「事件が、単調だと思う。勇者が来て、壊して、請求書が出て、終わる。第3話も第7話も、ほとんど同じ流れだった」
葵も、うなずいた。
「私も、そう思いました。最初は笑ってたのに、第10話あたりから、先が読めてしまう感じがして」
カナは、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、そうなのね」
「気づいてたのか」
「うすうすは、ね」
カナは、画面の自分の作品を見つめた。
「ギャグの型を作ったら、読者がついてくれたの。だから、型を崩すのが、怖くて。変えたら、読者が離れてしまうんじゃないかって」
朔人は、少し考えてから、口を開いた。
「型は、捨てなくていいと思う。足すだけでいい」
「足す?」
「一話完結のギャグは、そのまま残す。その裏で、数話ごとに少しずつ進む縦の話を、一本通すんだ」
朔人は、葵の作品を直したときのことを思い出しながら言った。
「俺も、葵に言われた。『この人、何かあるな』って思わせないと、続きが読まれないって」
「縦の話……」
「たとえば、経理係のマリエルが、毎月の帳簿の中に、出所の分からない『雑費』を見つける。毎話、少しずつ増えていく。誰が、何に使っているのか」
「あ、それ、ええやん」
葵が、身を乗り出した。
「笑いながら読んでて、気づいたら、続きが気になってる」
カナの目が、少しだけ見開かれた。
「……雑費」
カナは、キーボードに指を置いた。
『第13話・帳簿の端に、「雑費:謎」という項目が、増えている。』
「『謎』って書いてあるのが、面白いわ。経理係は、絶対に、謎を放置できない人だもの」
「その金は、実は魔王が使っていた、って展開にできる」
「……あ」
カナの手が、止まった。
「たとえば、勇者に壊された城の修理費とは別に、魔王が、こっそり、勇者の傷の手当ての薬代を払っていた、とか」
「それ、めっちゃええ話になるやん」
葵が、目を潤ませた。
「笑ってたのに、最後にちょっとあたたかなるやつや」
カナは、画面を見つめたまま、静かに言った。
「……私、ギャグに、感動を入れてもいいのかしら」
「笑いの先に、あたたかさがあってもいいと思う」
朔人は、うなずいた。
「それも、カナさんの『笑顔にする』ってことに、繋がるんじゃないか」
カナは、ゆっくりと、微笑んだ。
「……そうね。そうかもしれない」
「事件の種類も、変えられるな。勇者の襲来だけじゃなく」
「監査官が来る回とか、魔王の健康診断の回とか」
「社員旅行の幹事を、押しつけられる回もいいわ」
カナは、楽しそうに言った。
「それ、書きたい。ものすごく書きたい」
*
「じゃあ、次は、私の番ね」
カナは、朔人の作品を開いた。
十五分ほど、真剣な顔で読み進めてから、顔を上げた。
「朔人くんの作品、設定は強いわ。追放ものとして、ちゃんとしてる」
「ありがとう」
「でも、ずっと張りつめてる。追放されて、辛くて、重くて、息をつく場所がないの」
「……息をつく場所」
「ギャグを書く人間の癖かもしれないけれど、緊張が続くと、読者は疲れるの。ふっと力が抜ける一言があると、そのあとの重い場面が、もっと重く感じられるわ」
朔人は、第2話を思い出した。確かに、ずっと、暗い。
「たとえば、どういう?」
「追放されたあと、主人公は、荷物を置いていくでしょう。そのときに、メモを残していくの」
「メモ?」
「勇者の装備は、三日に一度、研ぎ直すこと。賢者の杖は、夜露に当てないこと。聖女の靴は、右が少し小さいので、紐は緩めに」
カナは、淡々と、丁寧な口調で、すらすらと言った。
朔人は、思わず、口元を押さえた。
「……ありそうだ。あいつらは、何も分かってない」
「そう。笑えるし、荷物持ちが、どれだけ仕事をしていたかも、一緒に伝わるでしょう? 追放された主人公のすごさが、重い空気を壊さずに、見せられるわ」
「それ、ええな」
葵が、うなずいた。
「『この人、何かあるな』って思わせるところも、そこで足せる」
朔人は、その場で、キーボードを叩いた。
『勇者の装備は、三日に一度、研ぎ直すこと。賢者の杖は、夜露に当てないこと。聖女の靴は、右が少し小さいので、紐は緩めに。——荷物持ち』
書き終えて、読み返す。追放の痛みは、そのまま残っている。そのうえで、読み手の肩の力が、ふっと抜ける。
「……効いてる」
「でしょう?」
カナは、満足そうにうなずいた。
「次は、葵ちゃんね」
カナは、葵の作品を開いた。
第1話から、じっくりと読み進める。第20話のところで、手が止まった。
「……『ありがとうと言われるたびに、畑の土が少しだけ温かくなる気がした』」
「あ、そこ、朔人くんにも褒められたとこです」
「いい文章だわ。私には、書けない温かさ」
カナは、静かに言った。
それから、顔を上げた。
「ただ、一つだけ。のんびりした話ほど、一話ごとに、小さな引きがあったほうがいいわ」
「引き?」
「大きな事件じゃなくていいの。次の話を読みたくなる、小さな気がかり」
カナは、葵の第1話を指差した。
「たとえば、この一話の最後。畑の隅に、見たことのない芽が、ひとつだけ出ている、とか」
「……芽?」
「何の芽かは、まだ分からない。でも、読者は、明日も来たくなるでしょう」
葵は、目を丸くした。
「それ、書きたい。薬草畑に、知らん芽が出てくる話、ええな」
葵は、そのままキーボードに指を置いた。
『畑の隅で、見たことのない小さな芽が、ひとつだけ顔を出していた。』
「これ、ええわ。ふわっとしてるのに、続きが気になる」
「でしょう」
カナは、嬉しそうに笑った。
*
窓の外が、少しずつ、橙色に染まり始めていた。
三人は、それぞれの原稿を見直しながら、時折、顔を上げては、互いの文章について話した。ここを足そう。ここは削ろう。この台詞は、もう少し短く。
不思議なほど、時間が早く過ぎた。
朔人は、ふと、ひとつのことに気づいた。
自分の文章が、数時間前より、はっきりと、良くなっている。
葵と二人で直したときも、そうだった。けれど、今は、三人分の視点が重なっている。ギャグの目、あたたかさの目、読者の目。ひとりでは、決して見えなかったものが、見えるようになっていた。
(……こんなに、変わるのか)
朔人は、画面を見つめた。
隣では、葵が、新しい芽の話を、夢中で書き進めている。向かいでは、カナが、『雑費:謎』の続きを、楽しそうに打ち込んでいる。
三人とも、ここが戦場であることを、少しだけ忘れていた。
やがて、カナが、キーボードから手を離して、言った。
「さて」
窓の外に目をやる。
「そろそろ、本題に入らないとね」
「本題?」
「レイのような強敵を、どうやって倒すか」
その声は、さっきまでの柔らかさを、少しだけ失っていた。
朔人は、ゆっくりとうなずいた。




