若手天才作家
その後も、朔人と葵は、編集作業を続けていた。
葵は第2話の冒頭にも改行を入れ直し、朔人は第2話に出てくる辺境の町の住人を、もう少し早く登場させた。
「ここ、もっと短くできる」
「えー、削るん? これ、気に入ってんのに」
「気に入ってるから、残す場所を選ぶんだ」
「……名言みたいに言うやん」
笑い声が、ブースの中に響いた。
そのときだった。
ピンポーン、と、入口の自動ドアが開く音がした。
朔人と葵は、同時に固まった。
誰もいないはずのネットカフェに、足音が入ってくる。靴底が、ゆっくりと床を踏む音。一歩、また一歩。
(……誰か、来た)
朔人は、息を殺した。隣で、葵も口を手で押さえている。
足音は、受付の前で止まった。
しばらくの沈黙のあと、どこか楽しそうな声が、ブースの向こうから聞こえてきた。
「話し声、外まで聞こえてたよ」
背筋が、凍った。
(……声が、大きかったのか)
二人は顔を見合わせた。葵の唇が、「ごめん」と動く。朔人は、小さく首を振った。
気づかれている。
戦闘は、避けられない。
朔人の頭の中を、攻撃と防御の言葉が駆け巡った。何が使える。何が、まだ誰にも使われていない。
その瞬間だった。
「ロゴス」
ブースの向こうから、涼しい声が響いた。
「夏の夜、河川敷の真上で、いちばん大きな花火が、一度に開くように——轟け」
その言葉が耳に届くと同時に、ブースの仕切りが吹き飛び、天井が軋み、ネットカフェ全体が、ひとつの巨大な音に飲み込まれていく。
「葵——!」
朔人は叫んだ。
間に合わない。何か、防ぐ言葉を——
「ロゴス、お日さまをたっぷり吸った、おばあちゃんちの分厚い布団のように——受け止めて!」
葵の声だった。
朔人の目の前に、巨大な白い布団が広がった。ふかふかと分厚く、陽だまりの匂いがする。爆音は、その柔らかな層に吸い込まれ、少しずつ、静かになっていった。
音が止んだ。
布団は、霧のように消えた。
「……助かった」
朔人は、へたり込んだ。
「葵、今の——」
「咄嗟に、浮かんだんよ」
葵は、青ざめた顔で笑った。
「何も考えてへんかった。ただ、おばあちゃんちの布団が、一番安心するなって……」
朔人は、胸を打たれた。
(自分の言葉だ。葵の、自分の記憶から出てきた言葉だ)
瓦礫の向こうから、足音が近づいてくる。
現れたのは、十代後半くらいの、端正な顔立ちの男だった。
丈の長い黒いコートの下に、浴衣のような薄い着物を重ねている。足元は革のブーツ。奇妙な組み合わせなのに、不思議と、様になっていた。
男は、二人を見下ろして、くすりと笑った。
「二人でこそこそしてるから、弱い作家だと思ったけど、やっぱり、その通りだったな」
男の視線が、二人の頭上の数字を撫でる。
朔人のHP、248。葵のHP、50。
朔人の視線が、男の頭上に移った。
そして、息が止まった。
HP 6,214
「……6000?」
隣で、葵が掠れた声を出す。
「うそやろ……」
今まで見てきた中で、桁違いに高い数字だった。初日に見た大男でさえ、2,140だった。
数字が、ひとつ動いた。
HP 6,215
(今、増えた……)
話している最中にも、男の作品が、どこかで読まれている。
「あなた、何者……」
葵が尋ねると、男は、少しだけ得意げに答えた。
「天城レイ。『夜明けを描く魔術師』って作品、書いてる」
「……あっ」
朔人は、思い出した。
(トップページの、ピックアップに載ってたやつだ)
サイトの一番目立つ場所に並んでいた、数少ない作品のひとつ。何万というPVを集めていたはずだ。
HP 6,216
数字は、また動いた。
「じゃあ、悪いけど」
レイは、ゆっくりと右手を持ち上げた。
「ここで、脱落してもらうよ」
「ロゴス」
涼しい声が、静かに響く。
「月明かりだけを集めて、薄く、長く、まっすぐに研ぎ澄ませた、斬るためだけの銀色が——この手に宿れ」
レイの右手に、細く長い銀色の光が、すっと伸びた。
朔人は、目を見開いた。
(……剣だ)
あれは、間違いなく、剣だ。
けれど、レイは、「剣」という言葉を、一度も使っていない。
「剣って、言うてへんのに……」
葵が、呆然とつぶやく。
「言葉を使わずに、説明だけで形にしたんだ」
朔人は、唇を噛んだ。
剣という言葉は、もう使えない。そう思い込んでいた。けれど、使えないのは言葉であって、形そのものではなかった。
「ロゴス」
レイは、次の言葉を重ねる。
「真夏の太陽の欠片をすくい取って、両手でぎゅっと丸めたような、橙色の輝きが——いくつも宙に浮かべ」
天井近くに、燃える光の塊が、いくつも浮かび上がった。
(火の玉だ。……『炎』も『玉』も、使ってない)
「そんなの、どうやって思いつくんだ……」
朔人の声が、掠れた。
レイは、まるで息をするように、言葉を紡ぎ続けた。銀色の光が閃き、橙色の光が降り注ぎ、そのたびに、ブースの床が、仕切りが、削られていく。
「ロゴス、ダムが押し寄せる濁流を、ひとつ残らず堰き止めるように塞げ!」
朔人が必死に絞り出した言葉で、水をたたえた巨大な層が立ち上がり、橙色の光を飲み込んだ。
「ロゴス、雨の日の畑で、ずぶ濡れの苗にそっとかぶせる、藁の笠のように——守って!」
葵の言葉が、銀色の閃きを受け止める。
けれど、それだけだった。
一つ防ぐたびに、使える言葉が減っていく。壁も、盾も、鱗も、結界も、もう使えない。頭の中の引き出しが、どんどん空っぽになっていく。
その間にも、レイは、新しい言葉を、次々と繰り出してくる。
レパートリーが、尽きない。
(これが、天才か)
朔人の胸に、冷たいものが広がった。
十代で、これだけの言葉を持っている。自分が二十五年かけて集めてきたものを、軽々と超えていく。
心が、折れかけた。
「——っ!」
橙色の光が、葵の肩をかすめた。
葵の頭上の数字が、一気に動く。
HP 50 → 18
「葵!」
「……大丈夫」
葵は、歯を食いしばって、立ち上がった。
その目が、一瞬、レイの口元を見た。何かに、気づいたように。
「朔人くん」
葵が、低い声で言った。
「あの人、言葉を口に出さんと、発動せえへんよな」
「……ああ」
「ロゴスを言うて、その直後の表現だけが発動する。……それなら」
葵は、すうっと息を吸った。
「ロゴス、霜の降りた朝、凍りついて動かなくなった雨戸のように——その口も、しっかり閉じて、開かなくなれ!」
レイの唇が、閉じた。
「……っ!?」
レイの目が、見開かれる。
声が、出ない。
ロゴスの一言すら、口にできない。
銀色の光と、橙色の光が、すうっと消えていった。
「効果は、一分や!」
葵が叫ぶ。
「朔人くん、今のうちに——一撃で、決めて!」
朔人は、頷いた。
一分。それだけしかない。レイのHPは、6,000を超えている。小さな攻撃では、意味がない。
(一撃で、仕留めないと)
頭の中に、切り札として取っておいた言葉があった。ライトノベルで何度も読み、いつか使おうと温めてきた、いちばん壮大な一節だ。
朔人は、息を吸った。
「ロゴス」
「神話の時代、天より落ちて大陸をも二つに割ったという、巨大な隕石の如き一撃が、いま、ここに落ちる!」
天井が、砕けた。
空の彼方から、白熱した巨大な岩の塊が、光の尾を引いて降ってくる。轟音とともに、レイの頭上に叩きつけられた。床が割れ、瓦礫が舞い、レイの体が、膝をついた。
朔人は、数字を見た。
HP 6,240 → 4,240
(……2000?)
倒したと思った。あれだけの一撃だ。
けれど、レイの頭上の数字は、まだ、4,000を超えている。
2000しか、削れていない。
(切り札を使って、これか)
ライトノベルで読んできた壮大な言葉は、確かに強かった。けれど、レイの前では、あまりにも小さかった。
レイが、顔を上げた。
一分が、過ぎた。
「……やってくれたな」
レイの唇が、ゆっくりと動いた。声が、戻っている。端正な顔が、怒りで歪んでいた。
「僕に、膝をつかせたな。——許さない」
レイが、息を吸い込む。
次の言葉が、来る。朔人は、身構えた。
そのときだった。
「ロゴス」
崩れた入口のほうから、落ち着いた女性の声が響いた。
「虫眼鏡で集めた日差しの、小さな一点が、黒い紙をじりじりと焦がすように——灼け」
細い光の筋が、レイの肩に突き刺さった。
HP 4,240 → 4,140
100。
レイは、肩を押さえて振り返った。
瓦礫の向こうに、女性が立っていた。
二十代後半くらいだろうか。艶のある長い黒髪に、息を呑むほど整った顔立ち。細身の黒いパンツに、白いブラウス。埃の舞う廃墟の中に立っているのに、そこだけ、別の空気が流れているようだった。
「……まだ、仲間がいたのか」
レイが、戸惑ったように呟いた。
その視線が、朔人と葵、そして女性の間を、素早く行き来する。
朔人も、同じ顔をしていた。
(誰だ、あの人)
仲間じゃない。初めて見る顔だ。
女性は、レイを見つめたまま、静かに言った。
「勘違いしないで。あなたの仲間でも、その子たちの仲間でもないわ」
「……なら、なぜ撃った」
「あなたのような強者を倒すには、いい機会だと思ったからよ」
口調は穏やかなのに、その目は、笑っていなかった。
レイの表情から、戸惑いが消えた。代わりに、冷たい怒りが、静かに広がっていく。
「いいよ。まとめて、片付ける」
「ロゴス」
レイの声が、低く響いた。
「夜の海で、巨大な鯨が、一度だけ身をひるがえしたときの波のように——押し流せ」
床が、揺れた。
崩れたネットカフェの奥から、水が、壁のように立ち上がった。天井まで届く大波が、三人めがけて迫ってくる。
「ロゴス、水面に浮かぶ睡蓮の葉のように——浮かべ」
女性が、すかさず唱えた。
足元に、淡い緑色の円盤が、三枚、現れた。朔人と葵と女性は、とっさにそれに飛び乗る。大波は、円盤ごと三人を持ち上げ、そのまま瓦礫の隙間へと押し流した。
「……っ、ぐ……」
全身を打たれて、朔人は、息を吐いた。
視界の左上の数字が、減っている。
HP 248 → 221
葵の数字も、また減った。
HP 18 → 9
(勝てない)
それだけは、はっきりしていた。
HP 4,000を超える相手に、こちらは切り札を使い切った。葵のHPは、あと9。次の一撃で、終わる。
「葵、逃げるぞ!」
「う、うん!」
朔人は、葵の手を掴んで、息を吸った。
「ロゴス、春の風に吹かれた花びらのように、足よ、軽くなれ——駆けろ!」
足が、ふわりと浮いた。
二人は、瓦礫を飛び越えて、出口へ走り出した。階段を、一段飛ばしで駆け下りる。
背後から、もうひとつの足音が、ついてきた。
振り返ると、あの女性だった。ヒールのない靴で、驚くほど軽やかに、階段を駆け下りている。
「なんで、ついてくるんだ!」
「あなたたちが逃げるなら、私も逃げるしかないでしょう」
女性は、涼しい顔で言った。
「あの子の標的に、私もなったのよ。ここで別れても、追われるだけだわ」
「……それは、そうだけど」
「それに、あなたたち、逃げ慣れてなさそう」
「失礼やな!」
葵が、息を切らしながら叫んだ。
「ほんまやけど!」
雑居ビルを抜け、歌舞伎町の路地に飛び出した。
背後から、涼しい声が追ってきた。
「ロゴス、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、あの三人の背中に貼りついて、決して離れるな」
次の瞬間、背後の気配が、一気に近づいた。
どれだけ速く走っても、背中に貼りつくように、レイが、ぴたりとついてくる。
「あかん、振り切られへん!」
「しつこい子ね」
女性が、小さく息を吐いた。
「ロゴス、重量の手綱から解き放たれたように、軽くなれ——」
彼女の足が、ふっと速くなった。それでも、レイの気配は、離れなかった。
路地を曲がる。ビルの隙間を抜ける。
行き止まりだった。
目の前に、高いビルの外壁が立ちはだかっている。
(ここまでか……)
絶体絶命だった。
レイが、路地の入口に現れた。ゆっくりと、歩いてくる。
朔人の頭が、真っ白になった。
もう、使える言葉が、ない。
壁も、盾も、結界も、鱗も。ダムも、藁も。隕石も。
何も、残っていない。
そのとき。
ふと、朔人の頭に、ある光景が浮かんだ。
金曜日の、17:59。
会社員だったころ、毎週のように繰り返した、あの三秒間。
上司に呼び止められる前に、エレベーターに滑り込んで、閉ボタンを連打した。ドアがゆっくりと動き出す、あの瞬間の、心臓の音。
間に合え、間に合え、と祈った。
ぎりぎりで、ドアが閉まり、上司との距離が離れてゆく。
あの、安堵。
(これだ)
ライトノベルの中にある言葉ではない。自分の体が覚えている、本物の記憶だ。
朔人は、葵の手を、強く握った。
「ロゴス」
息を吸う。
「金曜日の17時59分。上司に呼び止められる前に、閉ボタンを連打して、ぎりぎりでドアが閉まったあのエレベーターのように——俺たちを安全な場所へ逃がせ!」
次の瞬間、朔人たちの目の前に、銀色のドアが現れた。
エレベーターの扉だった。
ゆっくりと、左右に開く。
「二人とも、入れ!」
「えっ、え?」
「……エレベーター?」
葵が目を丸くし、女性が、わずかに眉を上げた。
それでも、三人は、迷わず飛び込んだ。
背後で、レイが叫んだ。
「待て——!」
ドアが、閉まる。
レイの手が、ほんの一瞬だけ、閉じていく隙間に伸びた。けれど、届かなかった。
ドアが、完全に閉じる。
ふわり、と、胃が持ち上がるような浮遊感があった。
朔人は、目を閉じた。
*
ドアが開いたとき、そこは、見知らぬビルのロビーだった。
人気のない、静かな空間。
三人は、床に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……はぁ、はぁ」
「……逃げ切った、んかな」
葵が、荒い息で言った。
「ああ。……たぶん」
朔人は、顔を上げた。
エレベーターの扉は、いつの間にか、跡形もなく消えていた。
「朔人くん」
葵が、朔人の顔を覗き込んだ。
「さっきの、何なん? あのエレベーターの……」
「会社員だったころの、記憶だ」
朔人は、小さく息を吐いた。
「毎週、金曜日になると、あれをやってた。上司に捕まる前に、エレベーターに乗って、閉ボタンを連打するんだ」
葵が、噴き出した。
「そんなん、ほんまにやってたん?」
「ほんとだ」
「……ええ言葉やん」
葵は、少しだけ目を潤ませて、笑った。
「朔人くんの、自分の言葉で、助かった」
その横で、女性が、壁に背中を預けて、ゆっくりと息を整えていた。乱れた黒髪をかき上げて、ふっと、小さく笑う。
「……本当に、エレベーターで逃げる人なんて、初めて見たわ」
朔人は、思わず、彼女の顔を見つめた。
助けるつもりなどなかった。それなのに、結果として、三人が助かっている。
(この人は、いったい、誰なんだ)
女性は、朔人の視線に気づいて、微笑んだ。
「助かったわ。ありがとう」
その声は、さっきまでの冷たさが嘘のように、柔らかかった。




