『表現』の戦い
目を開けた朔人は、しばらくその場から動けなかった。
人影のない交差点。青く光り続ける信号。見上げれば、新宿の高層ビル群が、作り物のようにくっきりと空を切り取っている。
肌を撫でる風の感触は、驚くほど本物だった。
(本当に、仮想空間なのか)
そのとき、頭上から、抑揚のない女性の声が降ってきた。
『開始時刻になりました。参加者の皆さんは、二週間、存分に戦ってください』
声が止むと同時に、視界の左上に、数字が浮かび上がった。
HP 200/200
(俺のHP……)
数字に見とれていると、背後で足音がした。
振り返ると、横断歩道の向こうに、パーカー姿の若い男が立っていた。大学生くらいだろうか。目が合うと、にやりと笑う。
男の頭上にも、数字が浮かんでいる。
HP 140/140
「あんたが初戦の相手か。同じぐらいのHP…。ラッキーだな」
男は両手を広げた。
「じゃあ、遠慮なくいくぜ。ロゴス、紅蓮の鞭よ、あの男を打ち据えろ!」
(来る——!)
男の手の中に、赤々と燃える鞭が生まれた。男はそれを振りかぶり、しなる炎が一直線に迫ってくる。
(やばい、防がないと!)
朔人は反射的に、両手を突き出した。
「ロゴス、巨岩の城壁よ、行く手を阻め!」
次の瞬間、足元のアスファルトが轟音とともにせり上がった。
灰色の巨大な壁が、朔人と男の間にそびえ立つ。炎の鞭が壁にぶつかり、火花を散らして弾かれた。
(……出た)
朔人は、自分の両手を見つめた。
(本当に出た!)
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。ライトノベルを読むたびに、憧れてきた。言葉ひとつで世界を変える、物語の主人公たち。その力を、自分が今、使っている。
「すげぇ、本当に言葉が武器になる!しかも、あんたもいきなりそんな表現で防御するなんて、なかなかやるな」
壁の向こうで、男が笑った。
(開始前に色々と攻撃方法と防御方法の案を考えていたおかげで助かった)
「でも、効果は一分だぜ!」
そうだ。時間が経てば、壁は消える。
朔人は壁が消える前に、反撃に転じた。
「ロゴス、天を裂く稲妻よ、敵を撃て!」
空から一筋の稲妻が落ちた。男のすぐ脇の地面で爆ぜ、光が辺りを白く染める。直撃ではない。それでも、爆ぜた衝撃が、男の体を吹き飛ばし、地面を転がした。
痛みはない、と説明されていた。それでも、男は衝撃に顔を歪めている。頭上の数字が、一気に動いた。
HP 140 → 80
(直撃じゃなくて、これか……)
「くそっ、やりやがったな!」
男は立ち上がり、再び叫ぶ。
「ロゴス、灼熱の——」
「ロゴス、聖なる光の結界よ、我を守れ!」
朔人の言葉のほうが速かった。全身を覆う光の膜が、男の放った炎を、すべて弾き返す。
さらに、朔人は声を張り上げた。
「ロゴス、荒れ狂う暴風の渦よ、すべてを巻き上げろ!」
暴風が男を飲み込んだ。全身が宙に巻き上げられ、アスファルトに叩きつけられる。男は、とっさに受け身を取った。それでも、数字は、再び減る。
HP 80 → 20
(勝てる)
朔人は確信した。
「ま、待て! 分かった、降参だ!初日から脱落なんて、ごめんだ」
男は両手を上げて、後ずさった。
「覚えてろよ! 次は負けねえからな!」
捨て台詞を残して、男は路地の奥へ走り去っていく。
その背中が見えなくなってから、朔人は、ゆっくりと息を吐いた。
「……勝った」
そう口にした途端、笑いがこみ上げてきた。
「勝った! 俺、勝ったぞ!」
*
それからの朔人は、完全に調子に乗っていた。
誰もいない新宿の街を歩きながら、いろいろな言葉を試してみる。
「ロゴス、駿馬のごとき速さ!」
体が風を切るように軽くなる。
「ロゴス、大樹のごとき堅固な腕!」
腕が硬く、重くなる。
「ロゴス、清流のごとき癒しの雫!」
体の疲れが、すっと引いていく。
面白いように、全部、発動した。
(ラノベで読んできた言葉は、全部使えるじゃないか。俺、このイベントに向いてるんじゃないか)
*
日が傾き始めた頃、朔人は路地の奥から聞こえてくる声に足を止めた。
「ロゴス——凍てついた湖面が、朝日に砕け散るように」
静かで、よく通る声だった。
朔人はそっと、角から覗き込んだ。
路地の突き当たりに、前髪の長い、細身の青年が立っている。対峙するのは、大柄な男だ。
青年が両手を広げると、路地の空気が、きんと冷えた。次の瞬間、頭上に無数の氷の破片が現れる。薄く、鋭く、朝日を受けたようにきらめく透明な破片だった。
「——降り注げ」
氷の雨が、大男に降り注いだ。大男は、とっさに腕で顔を庇う。破片は、肩に、腕に、胸に、次々と突き刺さった。急所は、外れている。
(なんだ、あの比喩……綺麗だ)
朔人は思わず、息を呑んだ。美しくて、鋭い。聞いたこともない言葉だった。
大男の頭上の数字が、大きく動く。
HP 2,140 → 1,990
「……いい比喩だな」
大男は腕で顔をかばいながら、低く笑った。
「でもな」
青年の頭上の数字は、小さかった。
HP 30
「あんたの数字じゃ、一発で終わりだ」
大男が叫ぶ。
「ロゴス、煉獄の炎よ、すべてを飲み込め!」
ありふれた言葉だった。それでも、炎は青年を包み、数字を一瞬でゼロにした。
HP 0
青年の体が、光の粒になって解けていく。
「……やっぱり、読まれない作家はだめなのか…」
小さくつぶやいて、青年は笑った。
そして、跡形もなく消えた。
朔人は、その場から動けなかった。
(あんなに綺麗で強い言葉を持っていたのに。足りなかったのは、数字だけだ)
勝った男は、何事もなかったように歩き去っていく。
*
夜。
朔人は雑居ビルのネットカフェに入り、最新話を投稿した。ドリンクバーのコーヒーを飲み、ようやく一息つく。
(今日は、いい一日だった)
あの青年のことは、頭の片隅に引っかかっていた。でも、自分は勝った。明日も、きっと勝てる。
パソコンの時計は、23:58を指していた。ぼんやり画面を眺めているうちに、表示が0:00に切り替わる。
深夜0時。
そのとき、ブース全体に、あの女性の声が響いた。
『本日の集計をお知らせします』
『本日の脱落者、3名』
(……3名)
青年の顔が浮かんだ。
『本日使用された表現、512件』
朔人は、コーヒーカップを持つ手を止めた。
(512……?)
多いのか少ないのか、分からない。ただ、それだけの言葉が、たった一日で使い切られた。
けれど朔人は、その意味を、まだ深く考えていなかった。
(まあ、明日も同じように戦えばいいだろ)
画面の隅で、小さな表示が静かに切り替わる。
『イベント終了まで あと13日』




