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あれは、俺がそうとう酔って、一人電車を待っている時だったと思う。
酒で自制心が緩んでいた俺は、一度会わないかと送信した。
雫は、初め少し驚いたようだった。が、その頃は親に対するいろんな怒りや不満みたいなものまで、《これは独り言、だから返事無用》
そう言って、何度も夜中に送ってくるようになっていた彼女は、「うん」と応じてくれた。
そして、俺たちは九月、土曜の昼下がりに、高茶屋駅で待ち合わせした。
俺のマンションは家賃の少しでも安い郊外の雲出駅。雫は実家の南が丘駅。高茶屋駅はちょどその真ん中だった。もちろん、人目を気にしたのもある。
俺が車で駅前のロータリーに着くと、雫はすぐに俺の車を見つけ、小走りで駆けてきた。デニムに黒い五分袖のゆったりとしたTシャツで、ふわりと彼女の匂いと共に助手席に滑り込んできた。
俺は車をヨットハーバー近くの店まで走らせた。
海が見える席で二人は、いつものSNSのように会話した。実際に会うのは、駅で偶然会ったあの日から一年ぶりなのに、二人にはそれを感じさせない近さがあった。
彼女はよく笑い、よく喋った。
昼はまだだというので、何か食べるかと聞いたが、食欲がないと言って、雫はミルクティーだけを頼んだ。聞くといつも食欲はないのだと言った。その細い体を見て、日常的に食べていないんじゃないかという気がして、いつもより真剣に「ちゃんと食べろよ」と俺は言った。そう言いながらも、それが簡単にできるなら苦しんでいない、ということも十分わかっていた。
その後、俺たちは近くの砂浜に出て、木陰を見つけ腰を下ろした。
海岸は家族連れやカップルで、適度に賑わい、休日の午後の楽しさがあった。よく晴れた空には薄雲が少しあるだけで、穏やかな海岸にさざめくような波の音が広がっていた。
砂浜に並んで座り、俺たちは海を見ながら話した。
二人の会話は、あくまでも軽い日常の仕事や趣味の話で、決して彼女の家のことなんかには触れなかった。そして、互いのパートナーのことにも。
互いに将来を考えているパートナーがいるのはわかっていた。だから、今日はただ、ちょっと会うだけ。それだけだった。
でも楽しかった。二人は長年の付き合いのように自然と過ごし、海風にあたって、遠くの水平線を見ながら、たわいのない話をして過ごした。
俺たちは結局、夕暮れ、陽が沈む頃まで、そこで過ごした。
夕食を誘ったが、雫はやっぱり食べたくないと言って、
「今日はありがと、楽しかったよ。なんかほっとできた。
……ねえ、なんで会おうって言ったの?」
「うん……なんかいつもこれだけ言葉交わしてるのが、現実なのかなって。それ、確かめたくなって……、かな」
「うん」雫はうなずき、小さな声で言った。
「もう帰らなくっちゃ」
俺は、名残惜しい気持ちを持て余しながら、服についた砂を払った。
九月の風はいつの間にか少し冷たくて、体が思った以上に冷えているのに気づく。
夕闇の迫る砂浜、海岸にはもうほとんど人気がなくなっていた。
前を歩く彼女の肩の線は細く、年相応の女性らしさのないその身体は、今にも壊れそうなのに、不思議なほど弱々しくは見えなかった。それどころか、背筋をしっかりと伸ばし力強くすら見える。でも……、それはどこかで常に緊張し、踏ん張っているからだ。倒れまいとして……。
そういえば、俺は、こいつがリラックスしてだらしのない格好をしているのを見た記憶がないことに気づく。雫は、子供の頃から、いつもどこか歯をくいしばっているような、緊張したものを持っていた。そして、それが何に由来していたのかが、今はわかる。
その小さくも、どこか透き通るシャボン玉のような背中を見ていた俺は、次の瞬間、思わずその背中を後ろから抱き締めていた。
壊れるかもしれないのに。
一瞬、驚いた彼女は、……でも何も言わず、そのまま動かなかった。
二人は固まったかのように、そのまま立ち尽くした。
俺は、彼女を抱き締めたまま、時がひどく緩やかに過ぎていくのをただ感じていた。
いけないという気持ちと、このままずっとこうしていたいという気持ちが全力でぶつかりあった。
それでも、手を離せなかった。彼女の細い肩や背中から伝わる、そのぬくもりが愛おしかった。その小さな体の奥で心臓が動き続けるのを感じていた。彼女の香りが海風の中でも確かに胸を満たした。
どのくらいだったのだろう。おそらく、それはわずかな時間のことだったのだと思う。
俺は、腕を緩め彼女から離れた。
ごめんという言葉も出なかった。
そのくらい、俺はなんと言っていいのかわからなかった。
彼女も何も言わなかった。
ただ彼女の甘い香りが、この腕に残り、脳に染みていた。
雫が振り返って笑った。
「今日は帰ろう」
その笑顔がひどく澄んで見えた。
「うん」
俺たちは、並んで歩いた。
車で駅まで送る間も、言葉はなかった。
でも、二人はただ今日の余韻を感じていた。雫も同じような想いでいてくれている、俺にはその時、そう思えた。
穏やかな時間の余韻を感じながら、俺はオーディオのスイッチも入れず、ただ静かに車を走らせた。
駅のロータリーに着くと、雫は前を向いたまま、少し間を置いて、黙って車を降りた。
そして。
「じゃあね」と口だけ動かし、手を小さく振ると、駅に向かって歩いて行った。
そんな雫の背中が、駅に消えていくのを、ただじっと見つめていた。
雫が見えなくなって、時刻が十九時近くになっているのに気づく。
俺は想いを残したまま、車を動かし、家路についた。
しばらく車を走らせ、二十三号線に入る頃になって、音がないのに気づいた俺はFMラジオのスイッチを入れた。車内に日常の音が流れ出し、止まっていたように思えた時間が、車窓から吹き抜ける風の中で動き出した。




