2 プラットホーム
そんなふうに地元に戻ってきて1年が過ぎた頃、津の駅で雫と会ったのは本当に偶然だった。
職場の飲み会の帰り、駅のホームで、流れる人混みの中に雫の姿を見つけた。
彼女は丁度仕事帰りだったようで、俺たちは駅のベンチに並んで座り、しばらく話した。俺は酔っ払っていたこともあって、いつもより饒舌だったような気がする。
「コタ、酒臭い!」と眉に皺を寄せ、笑いながら言われたのを今でも覚えている。
大人になった雫は、痩せっぽっちで髪もショート、化粧っ気もなく、ちょっと少年のようでさえあった。
だが、久しぶりに会ってもあの時のままのコタで俺を呼んだ。
光太郎の俺をコタと呼ぶのは昔馴染みのあの七人ぐらいだったから、そう呼ばれた途端、中学時代の気持ちが一気によみがえった。
雫は色白で可愛く、中学時代には、当時人気だったアイドルに似ているということで騒ぎになったことがあった。休み時間になると友達でもない奴らが興味本位でクラスを覗きに来るほどで、グループでは、 それこそ守らなくっちゃと、護衛隊のような真似事までしたぐらいだ。
今、大人になって、前髪越しにその猫のような切れ長の目で俺を見上げる彼女の笑顔は、とても魅力的だった。
それをきっかけに、俺たちはSNSで、ちょくちょく連絡し合う仲になった。
といってもその頃、俺にも彼女にも付き合っている人がいたので、互いの仕事の愚痴や、暇な時の喋り相手。それもSNS限定の相手だった。
結局、最後まで電話をしたことはなかった。
それが半年ほど過ぎた頃、彼女の状態が悪くなった。
その年の春、彼女はようやく念願だった中学教師になった。大学を出て二年目のチャレンジだった。
だが、元々体も弱く、線の細い彼女にとって、教師の仕事はなかなかきつそうだった。しかも、彼女は自分の体のことを考えず、とにかく仕事に入れ込んでいた。
それは今にして思えば、家の事情も大いにあったのだろう。
彼女はその頃も、まだ実家住まいで、家から一時間以上かけて電車通勤をしていた。とにかく自分を無理やりいじめているのではと思えるほど、自分の体のことはそっちのけで仕事に力を注いでいた。休日の土日はもちろん、夜も遅くまで残ってやっているようだった。
県庁勤めの俺も、新しく担当を幾つか任されたところで、慣れない仕事に青息吐息だった。残業が続き、帰りも夜遅くなることが多かった。
そういうこともあって、互いの身を案じあう形でSNSのやり取りは煩雑になった。
《もう、絶対にちゃんと休むこと、絶対だからね》
《それはお前の方だろ、ちゃんと食べてくれ。早く寝ろよ、おやすみ》
こんなやりとりがその頃の俺たちの定番だった。
そんなやり取りの中で、ある時、彼女も俺に心を許したのか、それとも余程しんどかったのだろうか。
それまでは、家のことについては絶対言わない彼女が、ある時、初めて話してくれたことがあった。
それは、中学時代の彼女の門限に触れた時だった。
《お前さ、中学の時、門限あっただろ 普通、中学にもなって五時までに帰れって、変だろ》
《うちは厳しいの
それに家で夕飯とか作らなくっちゃいけなかったし》
《お手伝いって、そんな厳しかったの?》
《いや、わたしが作るの うちではそれがわたしの仕事だったから》
雫は、小学校の頃から家事を手伝い、中学の頃には夕食はほとんど彼女の仕事になっていたという。それは高校、大学と続き、社会人の今は、帰りが遅くなって平日はさすがにしていないようだが、それでも休みの日には作っているという。
しかもそれだけしていても、いつも母親は雫を責めるのだという。
《なんで? って、小さい頃からずっと思ってきたの
妹は小さい頃病気がちだったから、いつもわたしばっかり、怒られた
殴られたり、馬鹿にされたり否定され続けたの
小学校の低学年頃は、それがなぜか理解できなくてさ、納得できなくてやたら荒れてたもんね》
《確かに、あの頃のお前はちょっと怖かった(笑)なんかあるとすぐキックが来た もんな》
《いやあ、あの頃はすまぬ とにかくいつも腹たててたかな
コタらが、わたしをなだめてくれて、話し相手になってくれたから、なんか、少しずつ相手が見えるようになってきたのかな ありがと》
《ああ、お前の宥め役は、なんだかいつも俺か、真里亜だったもんな》
《あ、知ってる? 真里亜、今、結構大きな動物病院で働いてるんだって、今は資金を貯めてて、いつか独立するんだって》
《そっか、みんな夢叶えてるんだな、お前だって教師だし》
《コタは、あの頃なんて言ってたっけ》
《俺は作家、SF小説好きだったからな
まあ、まずは安定した公務員になってからって ここまでは一応計画通りって言えばそうなんだけどな でも書く方は、全くだよ 忙しくって》
《ダメだよ、ちゃんと書かなきゃ》
《この調子じゃあ、定年してからかな》
《あ、それ絶対しないやつ 言い訳なんかせず、ほんと書かなきゃだよ》
そんなやり取りの中で、俺は雫が抱えていた、家のことを少しずつ知るようになる。雫は、常に親、母親とのことで悩んでいた。
小、中と学年が進むにつれて少しは落ち着いてきていたと思った。だが、高校になって俺たちとも離れ、彼女の心の内を知る者もいなくなった雫は、思春期というのもあって以前と比べられないほど不安定になったようだ。
そんな話を高校の頃、真里亜から何度か聞いた。
真里亜も学校が違うし、そう会うこともできなかったので、どうしたらいいかという相談とも愚痴ともつかない連絡が俺のところにきたりしたのだ。
高校時代の雫は、家に帰らず夜中に駅で泣いていたとかも、あったようだ。
そんな真里亜にも、雫は家の中の具体的なことを話さなかった。
だから俺たちは、いつも外から気遣うだけ。すりガラス越しに、「大丈夫か」と声をかけるしかできない、それが雫だった。
そんなふうにずっと過ごしてきたから、彼女がいきなり家のことを漏らしたことに、初め俺はすごく驚いた。それはSNSだけという俺たちの特別な距離感があったからかもしれない。
ただ、実際に家のこと、母親のことを聞くにつれ、それは思っていた以上のことでショックだった。子どもだった俺たちは本当のところは、何もわかっちゃいなかったということを思い知らされる。でも友達にすら長年言わなかったことを、初めて俺に話してくれたのは、正直、嬉しかった。
いつも、深刻な話は真夜中に独り言という形で届いた。
《これは独り言だから、返事無用
小さい頃ね、家で留守番してたの。そしたら、雷が鳴り出して、すごい雨になっ
たの。近くに落ちた音がしてね、わたし怖くて怖くて、一人母さん、母さんって何度も叫んで泣いてたの。それでも誰も帰ってきてくれなくてね、布団の中で気絶してたの。あの怖さは今も忘れられなくって、だから今日、夜になって雷鳴り出したら怖くなって、今ここに避難してきた……》
それを読んだのが翌朝だった俺は、慌てて大丈夫かと送ったが、それへの返事は無かった。
一度、
《そんなに家が大変なら、家出た方がいいんじゃないのか? 大人なんだし》
と書き込んだことがあった。
翌朝届いたSNSにはこうあった。
《そういうのと、ちょっと違うかな》
俺にはそれ以上何も言えなかった。
深い水の底にいる彼女の口から、わずかにこぼれて浮き上がってきた小さな泡。俺はそれにちょっと触れただけだった。
それに触れたことで、かえって彼女がどれほど深いところにいるのかを思い知らされた。
本当のところ何もわからなかったんだ。
それからも、人の心配ばかりする彼女とのやり取りは続いた。
それが一年近く続いた頃、俺たちは一度だけ、会った。
それが、あの夢に出てくる日だ。




