1 夢の回廊
目が覚めた。
薄暗い部屋の壁がぼんやりと現実の世界だと教えてくれる。
汗で背中がじっとりと濡れていた。
体がこわばってあちこち痛く、ベッドの上で寝返りを打つ。
少しずつ頭の中の白いモヤが晴れて意識がはっきりしてきた。
目をつむると今みた夢の光景が浮かんでくる。
また同じ夢だった。
もう何度も見た同じ場面……、この同じ時を、俺は何度見ているのだろう。
八年も前のあの時を……。
夢に見るのはいつも決まった場面だった。
俺は、一人、夕暮れの光がまだほのかに残る道を車で走っていた。
道はよく知る片側二車線の主要幹線。
夕暮れのラッシュで通行量の多い道は、赤いテールライトがどこまでも連なり、光の川となって流れている。
車はその流れに乗って、滑らかに緩いカーブを曲がっていく。
FMラジオから天気予報を告げるアナウンサーの落ち着いた声。
俺は、ハンドルを握りながら今別れてきた彼女のことをぼんやりと思っていた。
車の時刻を示す緑の文字は18:59。カーブが終わり、向こうに雲出大橋が見えてきた。
――いつもそこまでだった。
十九時の時報直前、時間にしてわずか数分のこの場面、俺はなぜか毎夜のようにこの夢を見た。
携帯に手を伸ばし、時間を確かめると夜中の二時を過ぎたところ。
もうこのひと月、毎夜同じ夢を見ている。
夢から目覚めると、いつも明け方まで眠れない。睡眠不足は仕事にも響き、最近はミスまで増えていた。
夜の黒い帷に全身を絡み取られ、一つ夜が来る度にだんだん動けなくなっていくのを感じる。
なんとか寝なきゃ……、そんなことを考えると、また悪循環に陥っていく。
これはダメだ。
俺は起き上がると、灯りもつけずキッチンへ向かった。
夜のキッチンが、電気製品の小さな灯りにほのかに浮かび上がっている。
このキッチンに人が立たなくなって、もう二年になるか。
俺は缶ビールの空き缶や弁当殻を隅へ押しやって、水を出す。
蛇口から直接水を一口。アルコールの残滓が頭の芯に澱んでいる。
ふらふらとベッドに戻った俺は、天井を見上げいつの間にかまた夢のことを考えていた。
なぜ、こんな夢を見るのか……、わけのわからないまま、もうひと月近く、同じ夜を過ごしていた。
夢は彼女と別れた後の帰り道だった。
それも、もう八年も前のこと。それ以来一度も会っていない彼女の夢。
そこにどんな意味が……、何があるって言うんだ……。
俺は、八年前の彼女の少しうつむいた横顔を思い出した。
これだけ時間が経つのに、今も鮮やかに思い浮かべることができる。
何度も何度も思い出し続けたあの日の彼女の姿だから。
髪に隠れた白い頬から細い肩に流れる柔らかなラインが、夜の暗がりに確かな存在感を持って浮かびあがる。
彼女は成澤雫、地元の同級生だった。
雫とは、幼い頃から一緒だった。
俺たちは男女七人の幼馴染みだった。
家が近かったというのが大きかったのだと思う。同じ新興住宅地で親同士も比較的仲良く、俺たち七人は幼い頃からよく遊んだ。幼稚園で一緒だったのが五人、その後、小学校の頃に転校してきたのが二人だ。
まだ開発途中だった住宅地、あの頃は転入生も多かった。
高校はみんな離れ離れになったが、それでも互いに連絡はとり、高校ぐらいまではよく会ったりしていた。
その中でも、雫だけは少し違っていた。
中学時代、俺が雫に気があったかと聞かれると、──確かにあったのだが、それは単純な「好き」とは言い切れない複雑な思いだった。
雫は、グループの中でも独特の存在だった。
彼女は家の都合で、あまり外で遊ぶことができず、付き合いは悪かった。だが、それは彼女の家が厳し過ぎるせいだということを、みんなわかっていた。だから俺たちの中では、彼女の家のことは触れてはいけないことになっていた。
雫は学校から帰るとほとんど遊びに出てくることはなかった。遊んでも5時までには帰らないと行けないとかで、かといって休日に誘っても親に許してもらえず、滅多に出てくることはなかった。ぶたれたのか、時々腕や足にあざがあった。そして雫がそれをなんとか隠そうとしているのも、俺たちは知っていた。
そんな雫を、俺たちは心配しながらも、深くは踏み込むこともできずにいた。
友達だったのに。
彼女がそれを望んでいない。それを、まだ子どもだった俺は言い訳にしていた。
七人のうち、女子は四人で、彼女らが時折心配して聞いたりしていたようだが、雫は決して家のことを話さなかった。
雫は、頑固だった。一度言い出したら決して態度を変えないところがあった。だから、家のことは言わない。そう決めている雫に、俺たちは、そこには触れずに楽しくやる術を、いつの間にか身につけてしまっていた。
今思えば、なんであの頃、もっと彼女に踏み込んで話を聞いてやらなかったのだろうと思うが、結局、子どもだった俺たちにはそれができなかった。
それも、言い訳だ。
一度、母親同士で、雫の家のことを心配するようなことを話しているのを聞いてしまったことがあった。その言葉の中に虐待というのを聞いて、絶対聞いてはいけないものを聞いてしまった気がした。雫の母は人付き合いが得意ではないようで、親同士の集まりにもほとんど顔を見たことはなかった。
そんなだったから俺たちの中で、雫は守ってやらなきゃいけない奴だった。そんな感じで小さい頃からずっときていたから、中学の頃、少し、いや正直に言えばすごく女の子として気になっていたが、そんなふうに思うことがいけない気がして、自分の中にしまったまま中学時代が過ぎていった。
あの頃、同じように雫を思っていた奴がもう一人いた。七人グループの男三人のうちの一人、大輔だ。
それは同じ思いを持つ者だからこそわかったことで、ちょっとした仕草や視線で、こいつは俺のライバルだと気づいた。多分あいつも俺のことをわかっていたのではないかと思う。
だが、結局二人ともそんなそぶりは中学卒業まで見せることはなかった。
友達として楽しくやっていた七人のつながりを壊したくないっていうのもあったけれど、何よりも俺にはそんな勇気がなかった。
そんな俺にトドメを刺したのは、中三の時だ。
雫が、クラス担任に憧れていることを知った。
それを聞いた時、ショックというか、雫にもそんな気持ちがあったのかと驚いたのを覚えている。
それを知った女子四人が「なんとか応援しよう」と言い出した。複雑な思いのまま、卒業までの半年、俺はみんなに合わして、うまくいくよう動いたりしたのだ。
幸いといっていいのどうか、その先生とはまったく何も起こらず、まあ当然といえば当然なんだが、雫自身も決してそんなことを表立って言うタイプではなかったので、その話は淡い少女の思い出という形で終わった。
そんなふうに、雫を恋愛対象として見るなんてことはおくびにも出せないまま、俺たち七人の中学時代は終わった。
高校で七人はバラバラになって、連絡しあうことも少なくなってしまう。
その上、大学で仙台へ行った俺は地元の仲間たちともすっかり疎遠になってしまった。大学を出て三重県庁に就職が決まり、久しぶりに地元に帰ってきた時には、地元に残っている仲間はほとんどいなくなっていた。
七人の中で地元の津に残っていたのは、実家の家業を手伝っている唯と、まだその頃は実家にいた雫ぐらいだった。
唯の家は地元でも大きなドラッグストアで、唯は大学を出た後、家業の手伝いをしていた。そんな久しぶりに会った唯から大輔の話を聞かされる。
唯の話によると、大輔は高校一年の時に雫に告って、見事撃沈したのだという。
その時に唯は大輔の慰め役となっていたようだ。まあ、姉御的雰囲気のあった唯だ。大輔もその辛さをつい漏らしたのだろう。
絶対他の仲間には言ってくれるなと言われたので、これまで言わないようにしていたという。
その時、唯から言われて初めて知ったのは、中学時代、俺たち二人が雫に気があるのは他の女子たちからは見え見えだったということ。俺は気恥ずかしさで、何も言えなかった。
その頃、社会人になりたてだった俺は、毎日朝早くに出勤し残業で深夜になることも多かった。とにかく仕事を覚えるのに必死で、そのままかつての仲間たちと会うこともなくなってしまった。




