9.梅花に酔う(4)
突如響いた歌声に、死闘を繰り広げていた涼犀皇子と清顕は、ピタリと動きを止めた。
翠旺は二胡をかき鳴らし、古代の怨み歌の歌詞を紡いだ。
──秋になり、木々の葉は枯れ、みすぼらしい黄色となった。
──父よ、母よ、私はあまりにも遠く離れてしまった。
──こんなはずではなかった。あなた方の愛に包まれ、幸せに生きてきた私なのに。一体どこで、道を違えてしまったのか。
「茗蓉……?」
震える声で、涼犀皇子は愛妃の名を呼んだ。
彼女が唄っているのは、遠く離れた異国に嫁いだ女性が、自らの境遇を嘆く歌だ。切々と悲哀を訴えるその声は、涙雨のような二胡の響きと相まって、聴く者の心を強く揺さぶった。
明らかに動揺を見せた涼犀皇子に、梅の木の隙間を縫って清顕の炎が襲い掛かる。
炎の龍が怨霊の右腕に絡み付き、彼は苦悶の呻きを漏らした。
「ぐっ……! ぐあぁぁあ……!」
──許されるなら、今すぐあなた方の元へ帰りたい。けれど、偽りの愛に身を委ね、私は全てを喪った。
──今はただ一人、私は色を失った世界に生きている。どれほど怨んでも悔やんでも、もうどこにも帰れない。
「……破ッ!」
清顕が一際力を込めて放った呪符が、残った梅の枝を根こそぎ払う。木々は文字通り木っ端微塵に弾け飛んだ。
蒼白な顔になった涼犀皇子が、目を見開く。
「馬鹿な……!」
──私はもう、どこにも帰れない。怨みを抱え、一人夜に彷徨い続ける。
仄暗い感情を迸らせる翠旺の歌声は、涼犀皇子の心を確実に削り取っているようだ。顔面を蒼白にした皇子は隙だらけで、清顕は容赦なく術を叩き込む。
清顕の放つ炎にあちらこちらを焼かれ、怨霊はついに、原型を留めることが出来なくなった。美しかった顔からは腐肉が剥がれ落ち、所々から乾いた白い骨がのぞき出す。
翠旺は何度も何度も、主題の恨み節を繰り返した。
その度に子の姿は崩れていき、やがて、ほとんど骸骨と化した怨霊が悲痛な叫びを上げる。
『や、やメろ、メイよウ……! わタシたチハ、アいシアって……』
「──あなたが見ていたのは」
二胡を爪弾く手をピタリと止め、翠旺が冷ややかな面持ちで告げた。
「あなたが愛したのは、謝氏の顔だけ。謝氏ではないと分かっていながら、顔が似ているだけの私を、貴方は連れ去った。……結局、悲劇の主役になった自分に、酔っていらしただけでしょう」
『ダ、だマレぇエぇェぇッ!』
ぐわりと伸び上がった黒い影を、その前に立ち塞がった清顕が凪いだ眼差しで見上げる。傷だらけになった腕をすっと掲げ、彼は静かな声音で九字を切った。
「臨める兵、闘う者。皆、陣烈れて、前に在り」
『メ、メイヨウ……! ワタシ、ハ──!』
清冽な風が吹き荒れ、妄執の塊となった怨霊の全身を切り裂いていく。
続く言葉は意味を成さず、怨霊の姿は跡形もなく弾け飛んで消えた。
重く凝っていた梅の香りが晴れ、清顕がその場にがくりと膝をついた。同時に、翠旺と皇帝を護っていた強固な結界が、音を立てて割れる。
「──清顕!」
地面に両手を着いて荒い呼吸を繰り返す幼なじみに、翠旺は血相を変えて駆け寄った。あちこちから血を滲ませた背中に、おろおろと手を添える。
「清顕、清顕! だいじょ──」
「こンの、大馬鹿者がぁぁあッ!」
特大の雷と共に、情け容赦ない拳が頭頂に振り下ろされた。脳天を貫いた痛みに、翠旺は悲鳴を上げる。
「いっ……、たぁーっ!」
「俺はもっと痛いわ! 見ろこのざまを、ズタボロなんだぞ! だから大人しくしていろと言うのに、お前は!」
「痛い、痛い痛い痛い!」
ぐりぐりと拳で両側頭部を挟み込まれ、翠旺は痛みに悶絶する。その手に一際力を込めたあと、清顕は盛大な溜め息を零して彼女の頭から手を離した。
しばらく所在なく彷徨っていた彼の腕が、やがて真っ直ぐに伸び、翠旺の身体をきつく抱き締めた。
「……無事で良かった」
その言葉に籠った真心に、その手の温かさに、翠旺は身体を震わせた。
ほっとしたところで今更蘇ってきた感情に、翠旺の目に涙が浮かんだ。それを隠すように、翠旺は彼の胸に顔を押し付ける。
今度は優しく彼女の頭を撫で、清顕は翠旺を落ち着かせてくれた。翠旺がのろのろと顔を上げた頃、彼はゆっくりと身体を離す。そして彼は、唖然とやり取りを見守っていた皇帝に向かって跪いた。
「時間がかかり、申し訳ございませんでした。お怪我はございませんか?」
「……お前の結界の中にいたからな。この通り、掠り傷一つない」
ひらひらと手を振る皇帝に、清顕は「ようございました」と深く叩頭する。
翠旺も彼を振り仰ぎ、改めて首を傾げた。
「あの、陛下。改めまして、二胡をありがとうございました。……ですが、どうして陛下がここに?」
供もいないということは、怨霊の力に偶然巻き込まれたわけではないだろう。そうなれば、清顕と二人、この空間に乗り込んできたことになる。だが、なぜ国の頂きに立つ尊き方が、そんな危険を犯したのか。
不思議そうに見上げる翠旺に、皇帝は尊大に微笑んだ。
「お前は俺の下級妃で、俺はお前の飼い主だ。……その所在を確かめる義務が、俺にはある」
「はぁ……」
答えになっているようで、まったくなっていない。
翠旺がますます首を傾げていると、彼はついと清顕に視線を移した。
「……さて、高よ。この空間もいつまでもつか、分からぬのだろう? 早く戻るぞ」
「はっ……」
その目線の思いがけない強さに、清顕は小さく息を飲んで頭を下げた。
その女性は小さく溜め息をつき、窓越しに夜空を見上げた。
「梅も、燃えてしまったのね……」
今回の梅、前回の梨。そして、夜伽を邪魔する皇后の侍女に影響されたふりで放った怨霊は、鈴蘭を媒介にしていた。
愛や忍耐。花が示す想いを、憎い彼は、いつになったら気付いてくれるのだろうか。
「次はもっと、強い子を用意しなくちゃ……」
静かにひとりごちた女性は、可憐な面差しに淡い微笑を浮かべる。
その言葉はまるで、真摯な愛の告白のような、甘く重い空気を孕んでいた。




