10.春隣
李寧国皇帝・董 獅英は、板張りの床に無言で跪く男をじっと見下ろしていた。
梅花の怨霊、涼犀皇子の事件から、はや五日が経過していた。
あの日、怨霊が隠した異界への道を無理矢理こじ開け、強大な結界を張り、文字通りの死闘を繰り広げたこの男は、元の世界に戻るなり昏倒した。体力気力を使い果たし、意識不明のまま三日三晩、高熱にうなされたという。
げっそりと頬をやつれさせた祓魔の統括官・高 清顕は、「まだ休め」といなす周囲の声も無視して、今日、報告に上がったのだ。今も、その顔や手指のあちこちに、大小の傷が残っている。
平生の彼は、当代の最強道士という評が不思議なほど、穏やかな好青年という印象だった。けれど今は顎が尖り、どこか冷たく鋭い雰囲気を醸している。
興味深く眺める獅英の内心を知ってか知らずか、清顕は頭を下げたまま丁重に詫びた。
「陛下の御前で情けない姿を見せたこと、また、報告が遅れましたこと、誠に申し訳ございません」
「よい。──大儀であったな」
鷹揚に応じた獅英に、清顕はますます恐縮する。苦笑して、彼に顔を上げるよう促し、獅英は椅子の背もたれに身体を預けた。
「では、報告を聞こう」
生真面目に応じた清顕は、先日の事件についての詳細を、簡潔に纏めながら話し始めた。もっとも今回は、獅英も怨霊の正体を突き止める清顕に同行していたため、聞くべき内容は短かい。
獅英はじっと祓魔の若き高官を見つめ、重々しい声で尋ねた。
「二百年前に死した者の怨霊が、今日まで誰にも知られずいた。──ありえるか?」
憶測を嫌う真面目な青年は、皇帝の問い掛けにわずかに逡巡したあと、黙って首を振った。獅英もそのつもりで尋ねていたので、根拠を求めることはしない。
(相次ぐ怨霊騒動は、偶然ではない。──何者かが、導いている?)
祓魔の長官は、後宮に巣食う「魔」の空気を案じ、その正体を探るため、劉常在を送り込んだという。ならば、その「何者」かが、「魔」の正体なのだろうか。
無言で考え込む獅英を、清顕はじっと真剣な眼差しで見つめている。今日は敢えて獅英が宦官たちを排していたので、小部屋に二人きりだった。
この状況にも、獅英の表情にも臆する様子もない清顕に、獅英は内心で笑みを浮かべる。
(俺に怯んだり、下手なおべっかを使ったりしないのは、こいつらぐらいだな……)
その片割れの姿を思い出し、獅英はおもむろに口を開いた。
「……あれの化粧は、潜入に際しての杜長官の命令か?」
先日見た、劉 翠旺の素顔。皇帝として古今東西の美女を見慣れた獅英も認めるほどの美貌を、あえて冴えない化粧の下に隠す理由は、それぐらいしか思い付かなかった。
清顕は逡巡するように、微かに表情を曇らせる。根が真面目なこの男は、どうやら隠し事が得意ではないようだ。少なくとも長年、武人の勘を磨いてきた獅英の感覚を、誤魔化せるほどではない。
無言を貫く直属の配下に、獅英は椅子の肘掛に右肘をついて笑った。
「高 清顕。俺は、皇帝として尋ねているぞ?」
こう言えば、この男は黙っていることなど出来やしない。
分かっていながら好奇心を貫いた獅英の狡さに、清顕は小さく息を吐いて口を開いた。
「その通りにございます。──ですが元々、顔を隠すような化粧は、出会った当初に我々が勧めたものでした」
「……ほう?」
獅英の打った気のない素振りの相槌は、「洗いざらい話せ」と同義だ。清顕は目を伏せ、静かに口を開いた。
「──劉女官と出会ったのは、彼女が九つの頃でした」
唐突に、翠旺の過去に興味を示した皇帝には、内心のひっかかりを覚えたが、命令とあらば逆らえない。
清顕は古い記憶を呼び起こしながら、ゆっくりと昔語りを始めた。
「当時の私は道士見習として、師に連れられ、あちこちの街を訪ねておりました。ある晩、郊外で野営をしていた我々は、突如感じた強大な怨霊の気配に、思わず息を飲んだのです」
先日対峙した涼犀皇子の怨霊に匹敵するほどの、強敵だった。
その土地は前王朝で大きな戦があった村で、血なまぐさい歴史を嫌い、李寧の民も近寄りたがらない場所だった。警戒していたものの、夜半に感じた気配に、当時十三歳の清顕は震え上がった。
「師と共に気配のする場所へ駆け付け、──とあるあばら家で、今にも怨霊に取り殺されそうな娘を見付けました。……それが、劉女官です」
その時のことを思い出し、重い息を吐く清顕に、皇帝は苦笑で応じる。
「……なるほど? 怨霊を見付けて興奮して、無謀に突っ込んでいった彼女と出会ったわけか」
初めて翠旺と遭遇した時のことを思い出しているのか、皇帝はくつくつと忍び笑いを零した。
清顕は苦く微笑み、首を振る。
「いいえ。恐ろしい怨霊に襲われ、生命の危機であるというのに……。彼女は、今にも自分の喉笛を噛みちぎろうとしている怨霊を、澄んだ目で見上げていました」
驚きに息を飲む皇帝に一つ頷き、清顕はそっと目を伏せた。
「その時は我々も十分な備えがなく、怨霊を追い払うに留まりました。恐ろしい気配が去った後、焦って彼女を抱き起こした我が師に、彼女は氷のような表情で告げたのです。『死んでも良かったのに』、と」
底知れぬその瞳に、清顕は全身に冷や汗を浮かべた。先ほど強大な怨霊に対峙した時か、それ以上の恐怖を覚えて。
自らも子を持つ親であった清顕の師は、そんな彼女を放っておけないと、夜が明けるまでそのあばら家で過ごすことに決めた。
「師が根気強く話し掛け続け、ようやく、彼女はぽつぽつと答え始めました。自分自身に関する記憶がないこと。唯一覚えているのは、幼い頃から怨霊と共に過ごしていたこと。目が覚めたらそのあばら家にいて、古びた二胡が傍らに落ちていたこと。
そんな彼女を見捨てていくことが出来ず、師は皇都に連れ帰りました」
連れ帰ったは良いものの、師も、清顕の親も、彼女を養うには心もとなかった。
そこで、清顕の父の友人であった、皇都警邏官の劉 才恩を頼ったのだ。彼は流行病で妻と娘を亡くしたばかりで、ひどく塞ぎ込んでいた。
「当時の劉氏は、生きる理由を探していました。伽藍堂の瞳の幼い娘を見て衝撃を受け、『この子を護って生きていこう』と誓ったそうです」
亡くした家族の代わりではなく、互いに寄る辺のない者同士、支え合おうと、彼は幼い少女に真心を注いだ。
「『翠旺』という名も、劉氏が授けました。先ほど、当時の彼女の歳を九つと述べましたが、正確なところは分かりません。見た目から、大体で予測をしました」
その劉氏は誰よりも、翠旺の身を案じていた。
幼い娘が楽器一つ持たされ、ならず者や怨霊のはびこる村に置き去りにされるなど、尋常ではない。「考え過ぎかも知れないが、あまり素顔で出歩かない方が良い」と、義理の娘に化粧を勧めた。幼い子どもの肌にも安全な化粧道具について、助言をしたのは清顕の母である。
清顕は、手先が不器用な少女を取り囲み騒いだ日々を思い出し、小さく微笑んだ。
「……以来、養父に惜しみない愛情を注がれ、翠旺は少しずつ笑顔を取り戻していきました。私も幼なじみとして、あれとよく遊んだものです。
──まあ、明るさが戻ったら戻ったで、あんな無謀な珍獣になってしまったのですが」
思わず苦笑を零す清顕に、皇帝はふと表情を消した。彼は何かを吟味するように、顎に手を添えて考え込む。
やがて皇帝は面を上げ、そっと目を閉じて囁いた。
「──そうか」
その表情の、声音の意味は、清顕には分からない。けれど彼は臆することなく、不敬も承知で国の頂点に立つ男を見上げた。
「本音を申せば、私は、翠旺が祓魔に所属することには反対でした。あまり、怨霊に近付いてほしくないのです。
あの頃の、投げやりで、全ての情動を凍りつかせた彼女に戻ってしまうのではと、……恐ろしくて」
けれど、彼女は進んで女官試験を受けに行った。「自分の力を何かに活かしたい」、「自分を護り育ててくれた人たちに恩返ししたい」と、鼻息を荒くして。
目を輝かせる少女を複雑な思いで見つめる、幼なじみの曇った表情には気付かずに。
清顕が思わず漏らしてしまった本音に、皇帝は静かに口を開いた。
「気持ちは分かる。……だが、本人が願うのならば好きにさせてやるのも、一つの信頼の証だろう。窮地に陥った時には、迷わず手を伸ばして」
清顕を窘めるような皇帝の言葉は重い。清顕は唇を噛み締め、俯いた。
(そう思っていた。そうしてやりたかった。……でも、後宮は、俺にはあまりにも遠い)
一官僚である清顕には、足を踏み入れることもままならない場所に、翠旺はいる。
そして彼女は、清顕の忠告に従って大人しく待っていてくれるほど、聞き分けのよい娘ではない。
思い出すのは先日の、怨霊に襲われた際の翠旺の姿。小さな身体を震わせ、いつもふてぶてしいほどに気丈な目に涙を滲ませていた。
清顕の胸に縋り付いたその手は冷たく、けれど息を詰めるほどに柔らかかった。
逡巡する清顕に、皇帝は不意に小さく笑う。
驚いて顔を上げた彼に、至高の存在はゆったりと告げた。
「気持ちに折り合いをつけるのは、難しいものだな。──とりあえず、高よ。いくら幼なじみとはいえ、下級妃の字を呼び捨てにするのは不遜だぞ?」
「……大変申し訳ございません」
頭を下げると、皇帝は鷹揚に手を振った。
彼は確か、二十五歳だったか。四つ年上の、国の頂点に立つその人の余裕に、清顕は己が身を情けなく思う。
(……とりあえず、今度会ったら説教の続きだな)
ほけほけと能天気に笑う翠旺の姿を思い浮かべ、清顕は口元を綻ばせた。
報告を終えた高 清顕を下がらせ、獅英は皇后と東宮の様子伺いに向かった。
あの事件以来、皇后は憑き物が落ちたかのように穏やかな顔つきになった。小競り合いを繰り返す妃嬪たちを、手のひらの上で上手く転がしているようだ。ひと皮もふた皮も剥けた彼女に、侍女たちも頼もしげな目線を向けていた。
六歳の半ばになった息子も、すくすくと元気に育っている。利発な子で、教師たちも驚くほど、ありとあらゆることを吸収していた。悪戯好きな点は玉に瑕だが、思えば獅英も子どもの頃はそうだった。
後宮の東の外れの東屋で、獅英が一息ついていると、不意に青々と茂った低木がガサガサと揺れた。
「──あ」
音の主は、慌てて獅英の前に立ち塞がった宦官たちの姿に、目を丸くしている。枝葉まみれの髪、ぱちぱちと呑気に瞬きをするその女に、獅英は盛大に溜め息をついた。
「何をしている、劉常在。……無駄な挨拶は良い、疾く答えよ」
いきり立つ宦官を視線一つで下がらせ、獅英が問うと、彼の下級妃はへらりと笑って答えた。
「先日の妃嬪様方の騒動もありましたので、異変がないかと……」
潜入捜査の都合上、彼女は言葉を濁した。皇后の宮での騒ぎに居合わせた宦官には、彼女が祓魔の官であると知られてしまったため、普段、彼女と会う際は彼らを立ち会わせている。
そうした気働きは出来るのに、なぜ、怨霊を見ると暴走せずにいられないのか。
軽い頭痛を覚えつつ、獅英は彼女に東屋の隣の席を勧めた。宦官たちには更に遠ざかるよう命じる。
劉常在はおずおずと隣に腰掛け、獅英はその顔をじっと見つめた。
いつも通りの冴えない面差しだ。それになぜか安堵を覚え、獅英は彼女に向かってそっと腕を伸ばす。
「陛下?」
「動くな。枝葉まみれだぞ。……ったく、何かの幼虫まで引っつけて」
普通の女であれば、恥ずかしさのあまり真っ赤になるか、「幼虫」の言葉に卒倒しているところだろう。だが劉常在は、真顔で大人しくされるがままになっている。
彼女は獅英が摘み上げた虫を見て、「わぁ元気な青虫」などと、能天気に笑っていた。
夏も間近となり、吹き抜ける風にも暑さがこもる。噎せ返るような青葉の香りと、そこに混ざる梔子や蓮の瑞々しい芳香。さらさらと風に流れるのは、竹の葉だろうか。
何を話すでもなく、ぼんやりと二人、東屋にただ腰掛ける。その静かな時間は、常に張り詰めている獅英の心を、ゆっくりと解いていった。
獅英は、青天を流れる雲を見上げながら口を開いた。
「……高統括官と話した」
劉常在は目を見開き、身を乗り出す。獅英が苦笑して、「やつれてはいたが、元気そうだった」と付け加えると、彼女はホッとしたように笑った。
その笑顔が思いがけず眩しく、獅英は目を瞬かせる。
彼の視線を受け、劉常在はことりと首を傾げた。真っ直ぐに自分を見上げるその瞳に、獅英は微かに口元を緩めた。
「……最近、上級妃たちと仲良くやっているそうだな」
劉常在は眠たげに作った目を開くが、やがてふわりと微笑んでみせた。
「呉淑妃様や、孫慧妃様に、お茶に呼んでいただきました。お二人とも、聞き込みで顔を合わせただけの下級妃に、随分とお優しくて」
義理堅い一面のある呉 妍麗は、危機を救ってもらった恩を感じているのだろうし、孫 香蕾は上級妃の最年少であるから、歳の近い彼女に親しみを覚えたのだろう。
高統括官にはああ言ったが、獅英としてもやはり、怨霊よりは、同世代の同性と親しんでくれている方が安心する。
目を細める獅英に、劉常在は不意に満面の笑みを浮かべた。
「……うん。やっぱり、陛下はそんな表情が似合われます。普段から、そうやって笑われたらいいのに」
あけすけなその言葉に、獅英は息を飲む。そんな彼に構わず、劉氏は楽しげに一人話し続けた。
「皆さん、陛下のこと、『偉大すぎて近寄り難い』って言うんですよね。なんか勿体ないなぁって。私の知る陛下は、面倒見が良くて、突っ込み上手で、表情豊かな方だから」
その言葉は、獅英の胸の中央を真っ直ぐに貫いた。
楽しげに雲の形を見定めている彼女には、目を見開いた獅英の顔は見えていないのだろう。劉常在はふわふわと笑い、光を捕まえようとするように、指先を伸ばす。あるいは彼女にだけ見える何かと、戯れているのかも知れない。
「うちの実家の近所に、すっごく気難しいおじいちゃんが居るんです。頑固で、いつもムスッとしてて。お嫁さんが『一緒に食べましょう』って甜点心を勧めても、『わしゃ要らん!』とか言っちゃって。
……でも、一人っきりの時に、その甜点心を大切そうに食べてるんですよ。お嫁さんも、遠くからそれを見て笑ってて。あ、あとそのおじいちゃん、私にもたまに、飴とかくれるんです」
陛下はちょっと、あのおじいちゃんに似てますね。
呑気に笑う彼女に、獅英は込み上げる笑いを堪えるのに苦労した。
「……大国の主を、近所の頑固ジジイに例える命知らずは、お前ぐらいだな」
「あ」
途端に顔を引き攣らせる劉常在に、獅英はついに耐え切れずに噴き出してしまう。腹を抱えて笑う彼を、遠くで待つ宦官たちが、ギョッとした顔で見つめているのが分かった。
ひとしきり笑い、目尻に滲んだ涙を拭う獅英を、劉常在は不思議そうに見つめている。一つ息を大きく吐き、獅英は彼女に向き直った。
「……そうあれれば、良いのだが。
俺は、望まれずに即位した皇帝だ。周囲は、何かあれば引きずり下ろそうと、手ぐすね引いて待ち構えている者ばかり。あるいは、力のない皇帝を操り人形にしようと、甘言を囁く者たちか」
一瞬たりとも気を抜けない。妃嬪と過ごす夜の一時も、一人でまどろむ寝台の中ですらも。
自分を利用しようとする者を見抜き、ことごとく使い倒す。妻子だろうと心は開かず、自分すらも信用しない。
この二年、獅英はそうしてようやく、生き延びてこられたのだ。
「皆が皆、お前や、高統括官のようだったら良いのにな」
思わずそう呟いてしまった獅英に、劉常在は目を見開く。
しばらく無言で獅英を見上げていた彼女は、やがてほろりと微笑んだ。
「……それなら、陛下もあのおじいちゃんみたいに、こっそり笑っているのが良いかも知れませんね」
「では、お前は甜点心を運んでくれ」
二人はどちらともなく顔を見合せ、揃って噴き出した。
(悪いな、高よ。──俺は、彼女を手放せそうにない)
愛だの恋だの、そんな甘い感情ではない。全身にのしかかる重圧を、軽やかに吹き飛ばしてくれる、春の風のような存在。
獅英が孤独な玉座で背を伸ばし続けるために、彼女は決して失えない、唯一無二の宝玉だった。




