11.真夏に舞う雪藤(1)
「……寿天教徒だと?」
思いきり眉を顰めた獅英の様子に身を強ばらせながら、その官僚は小さく頷いた。
「はい。近頃、民たちの小競り合いが増えている様子。そして、騒ぎを起こした者の一部が、寿天を象徴する蝙蝠の腕飾りをしていたと、警邏官より報告がありました。」
獅英は口元に手を当て、じっと思考を巡らせる。
寿天教とは、彼の祖父の時代に流行した民間宗教だ。苦しみに耐え、天を信じればやがて救われるとしたその教義は、瞬く間に貧民の間に広がった。
だが、実態は信者に無理な喜捨を強い、怪しげな薬で正気を失わせ公共施設を襲わせるなど、不審な動きをする組織だった。
事態を重く見た祖父帝が、「邪教を駆逐せよ」と命じ、教祖一派は一掃されたのだった。
報告に上がった男は、祓魔の市井管理担当の統括官だ。初老のその官は、獅英の顔色を伺いながら言葉を締める。
「執拗に取り調べても、その者たちは、自らが寿天教徒だとは認めませんでした。……ですが、皇都に張り巡らせた『目』が、蝙蝠の腕輪を幾つか目撃しています。今は、これ以上騒ぎを起こさないよう、監視しております」
「分かった。……引き続き、最大限に警戒せよ」
獅英が鋭い眼差しを向けると、初老の男は深々と頭を下げた。
「そういえば、劉常在の香袋は、どういった調香ですの?」
可憐な声に問われ、翠旺は瞬きを繰り返した。
ここは、後宮の西北、孫慧妃の宮の一室だ。恐れ多くも上級妃たる彼女に茶会に誘われた翠旺は、自分がとんでもない粗相をしでかさないかひやひやしながら、大人しくお茶を啜っていた。
ちなみにその場には、きりりとした美人の呉淑妃もいる。孫慧妃が口にした「香袋」とは、翠旺が以前、彼女に見舞いの口実として渡したもののことだろう。
その呉妃は美しい柳の眉をわずかに下げ、小さく苦笑してみせる。
「ごめんなさいね。先日、香蕾が私の部屋に遊びに来た時に、話をしたの。そうしたら、すっかり興味を示して」
二十歳を幾つか越えた呉 妍麗と、翠旺と同い年の十七歳である孫 香蕾は、その年齢差も相まって、実の姉妹のように仲が良い。気軽に呼び合う二人に微笑みを返しながら、翠旺はおっとりと答えた。
「桃と白檀、丁子を混ぜ合わせたものです。……妃様に差し上げられるような、上質のものでなくて申し訳ないのですが」
呉妃はその言葉に目を見開き、「とんでもない」と首を振った。
「あれ以来、変なことも起こらず、ゆっくりと眠れてるわ。本当にありがとう」
後宮の怨霊騒ぎに、二度も巻き込まれた災難な人だ。熟睡出来ているのならば嬉しい。
二人のやり取りをにこにこと見守っていた孫慧妃が、上目遣いで翠旺を見上げた。翠旺もこの年代にしては小柄な方だが、孫妃は更に華奢で、大きな瞳にじっと見上げられると照れてしまう。
「ご迷惑でなければ、私にも作り方を教えてくれる? ほら、またいつ騒ぎが起こるか分からないし……」
「香蕾」
窘める呉淑妃をやんわりと制し、翠旺は「また、準備出来たらお持ちします」と応じた。孫妃はパッと目を輝かせる。
可愛らしいその笑顔に、翠旺が眠たげと称される目元を綻ばせていると、呉妃が不意に顎に手を添えて宙を見上げた。
「どうしたの? お姉さま」
首を傾げる孫妃と、目を瞬かせる翠旺に首を振り、呉淑妃は苦笑いを浮かべて言った。
「なんでもないわ。……陛下と一緒に怨霊に遭遇した際、微かに花の香りを感じた気がしたのを、思い出したのよ」
「花……ですか?」
翠旺は真顔に戻り、真剣な表情で尋ねる。
あの時、夜伽の場に姿を見せたのは、黄皇后の侍女である鈴鈴だったが、その背後には別の、本物の怨霊がいた。翠旺もその場で怨霊を警戒していたが、呉妃の言う「花の香り」には気付かなかった。
呉淑妃は翠旺の様子に不思議そうに首を傾げたが、やがてポンと両手を合わせた。
「そうだわ。あれは、鈴蘭ね」
(鈴蘭……)
眉間に皺を寄せる翠旺に、呉淑妃と孫慧妃は目を丸くして顔を見合せた。
皇帝の配下の宦官に連れられ、翠旺はすっかり見慣れた小部屋に足を踏み入れた。
そこは普段、宦官たちの控え室として使用されている部屋だ。今は、持ち込んだ豪奢な椅子に威厳たっぷりに腰掛ける皇帝陛下と、その前に跪く祓魔の統括官がいる。翠旺は無言で、幼なじみの隣に膝を着いた。
「面を上げよ」
低く穏やかな声に二人が顔を上げると、李寧国第二十三代皇帝・董 獅英は疲れた表情で口を開いた。
「……あれから、何か掴めたか?」
皇帝の言う「あれ」とは、先日の涼犀皇子の怨霊騒ぎの件である。
清顕をはじめとした祓魔の道士たちが、定期的に浄化を行っていた後宮の東区域で起こった騒動は、明らかに不可解だった。事態が沈静化した後も、二人は調査を命じられていた。
ただし、翠旺が限界まで神経を尖らせて気配を探っても、怨霊の気配は感じられなかった。
沈鬱な表情で収穫のなさを詫びる二人に、皇帝は小さく首を振った。
「構わん。だが、引き続き警戒は続けろ。──他の場所では、何か起こっていないか?」
「今のところは静かです。……不気味なほどに」
眉間に皺を寄せる清顕に、皇帝も似たような表情を返した。翠旺はぱちぱちと瞬きをし、そんな二人を交互に見つめる。
翠旺の視線に気づいた皇帝が、翠旺をじっと見返した。
「どうした? 劉常在」
「いえ……」
なんだろう。心なしか、二人の間に漂う空気が硬い。
首を傾げる翠旺に、「相変わらず変な奴だな」と苦笑し、皇帝は表情を改めて口を開いた。
「……ところで、劉常在。お前、中級妃になる気はないか? 恭嬪か、順嬪の位が空いているんだが。位が上がれば、俺が打ち合わせのためにお前を呼んでも、不自然ではないだろう」
途端に、清顕が盛大にむせた。
皇帝は悪戯が成功した子どものような表情で、そんな彼を見下ろしている。翠旺は口をぽかんと開けて、呆然と皇帝を見つめた。
必死に呼吸を整えた清顕が、血相を変えて皇帝に食ってかかる。その声音は珍しく、慌てふためいていた。
「へ、陛下、なんというお戯れを……! 夜伽をしていない女人が、後宮の位階を登れるはずがないでしょう!」
「……だそうだが?」
楽しげに唇の両端をつり上げる皇帝に、翠旺はひたすら困惑していた。ちなみに、中級妃である嬪は定員が六名で、上から令・温・恭・柔・順・静である。
彼女はおずおずと、口を開いた。
「それは、せい……、高統括官のおっしゃる通りだと。私の下級妃という身分は表向きのもので、伽など出来る立場ではありません」
翠旺としては至極当然の返答をしたつもりだったが、皇帝は「なんだ、つまらん」と肩を竦める。だが、その表情も冗談めいており、翠旺は戯れだと判断してさっさと話を切り替えた。
「冗談はさておき。陛下は、まだ騒動が続くとお考えですか?」
「……そうだな。実は最近、市井でも不可解な騒動が起こっている。同時期に始まった怨霊騒ぎと関連を疑うのは、穿ちすぎか?」
顔を顰めて眉間を揉みほぐす皇帝に、清顕が真剣な表情で答えた。
「寿天教徒の疑いのある市民ですね。……確かに、偶然と片付けるには、情報が足りません」
じゅてんきょうと、と要領を得ない顔で繰り返す翠旺に、「あとで説明してやる」と小声で告げ、清顕は深々と頭を下げた。
「寿天の方は、我が祓魔の銭統括官を中心に、調査を行っています。我々は引き続き、後宮に潜む『魔』の正体を突き止めます」
生真面目な彼の言葉に、皇帝は鷹揚に頷いた。
「任せたぞ」
皇帝が部屋を出た後、寿天教徒とその騒動について、清顕から一通りの解説を受けた翠旺は、難しい顔で腕を組んだ。
「……誰かが、陛下の治世を混乱に陥れようとしているってこと?」
「あるいは、内と外から、李寧という国そのものをひっくり返そうとしているか。……いかんせん、情報が少なすぎて、推測の域を出ないが」
清顕も同様の仕草で答え、二人は額を突き合わせたまま唸っていた。
その予想が正しいとすれば、杜長官の言う「後宮に潜む魔」はかなりの大物だ。妃嬪たちを巻き込んだ怨霊たちは、いずれも強力で、そんなものを呼び出せるとなれば、清顕と肩を並べるほどの術師である可能性もある。
そう推論を述べた翠旺に、清顕は苦笑して首を振った。
「いや、俺なんかより、遥かに力を持った相手かも知れん。……これ以上、陛下の名に傷を付ける前に、何とかその姿を捕らえるぞ」
翠旺は頷き、顎に手を添えて眉根を寄せた。
「西の池、東の庭。……次は、北か南?」
「だろうな。重点的に警戒はするが、お前も何か異変を感じたら、すぐに連絡してくれ」
真っ直ぐに彼女を見下ろす幼なじみに、翠旺は首を傾げて言った。
「……『呼鳥』は使ってもいい?」
「緊急事態だからな」
苦笑する清顕の頬はやややつれているものの、血色は普段通りだ。先日、怨霊と死闘を繰り広げた清顕は、力を使い果たして倒れた。翠旺が彼と顔を合わせるのは、その時以来だった。
視線に気付いて「どうした?」と尋ねてきた清顕に首を振り、翠旺は黙って微笑んだ。
別れ際、清顕はふと真剣な表情で、翠旺に声を掛けた。
「翠旺。──お前、あの言葉は本心か?」
清顕の言う「あの言葉」が何を指すのか分からず、翠旺は首を傾げる。清顕は気まずそうに目線を逸らし、聞き取りづらい声で呟いた。
「陛下の、中級妃がどうのというご提言に対して……」
「……ああ」
翠旺は合点がいったとばかりに、右の拳で左の手のひらを打つ。彼女は大口を開けて、カラカラと声を上げて笑った。
「当然だよ。私に妃嬪なんて、務まると思う?」
清顕も何とも言えない表情で苦笑し、頷いてみせた。
「そうだな。……犬猫に文字を覚えさせるより、難しそうだ」
「……ちょっと。それはひどくない?」
思わずムッとして顔を顰めた翠旺に、清顕は堪えきれないように噴き出す。その笑顔はいつも通りの明朗さを取り戻していて、翠旺はほっと内心で息をついていた。
(西と東では事件が起こった。北と南に、怨霊にまつわる話あったかな?)
自身の住まいである輪花殿へと足を運びながら、翠旺は自分の思考に没頭していた。通りがかった他の下級妃たちに、露骨に舌打ちをされたり睨み付けられているのだが、彼女は気付くこともなくのんびり歩く。
下級妃たちはヒソヒソと顔を寄せ合い、翠旺の陰口を叩き始めた。
「……あの女、また皇帝陛下の配下の宦官に呼ばれてたらしいわよ」
「はあ? 生意気! 不細工のくせに」
(……いや、待って。呉淑妃様が感じたという、鈴蘭の香り。あれももしかして、今回の騒動に関係していたとしたら? あの怨霊……誰だったんだろう)
あの騒動から既に、三月が経過している。痕跡はとっくに消えてしまっていた。翠旺は思わず歯噛みしてしまう。
「それだけに飽き足らず、最近は上級妃様方にも、お茶に誘われてるらしいじゃない?」
「なんであの女だけ……。ちょっとここらで締めとかないと!」
(でも……もしかしたら。あの時は、怨霊が現れた場所しか浄化していなかった。怨霊が生まれた場所は、手付かずの可能性も残ってる)
怨霊、幽霊とは不条理な存在だが、不合理ではない。未練が強く残る場所、その未練に深く関わる者。彼らなりの行動理由と、規則性がある。
あの霊は、歌妓出身の鈴鈴に興味を引かれ、ついて回っていた。ならば「なぜ」、鈴鈴に興味を引かれたのか。
歌妓、妃嬪の伽を邪魔する行動、そして、呉淑妃が感じたという鈴蘭。翠旺自体も触れた、あの黒い怨念。
(こちらを先に突き止めよう。……そうしたら、次の怨霊が発生する区域も、絞り込める)
「ちょっとあんた、顔を……って、待ちなさいよ!」
翠旺はいつの間にか詰め寄ってきていた下級妃たちの間をすり抜け、駆け出した。
怨霊になるほどの強い念を残しているのなら、きっと後宮史に手がかりが残っているに違いない。
翠旺は後宮の西南、寂れた一角にある、図書室を目指してひた走った。
そこには、妃嬪たちが目を通すべき書物や、後宮の主だった妃嬪の出入りを記録した帳簿が置かれている。
もっとも、上級妃と中級妃たちは、自身の教養と実家の財力を誇示するため、必要な書物は自分で手に入れるし、最下位の宮女たちに読書をする余裕はない。自然、ここを訪れるのは貧しい家庭出身の下級妃程度で、常に閑散としていた。
その数少ない常連である翠旺は、図書室の古い扉を開けるなり叫んだ。
「おっちゃん、『後宮史』見せて!」
「……なんだい、相変わらずうるさい子だねぇ」
翠旺の失礼な呼称を当たり前のように受け止めたのは、図書室の管理をしている初老の宦官だった。主人を火事から助けた際に顔に火傷を負い、「醜いから」と降格になってしまった気の毒な人だ。
翠旺は彼の小言をあっさりと聞き流し、「早く早く」と彼を急かした。引き攣れた頬に苦笑を浮かべ、老宦官は翠旺を誘う。
「この辺だよ。言っとくけど、持ち出しは禁止だからね」
「分かってる、ありがとう」
年代が分からないので、とにかく古い順からだと、手当り次第に手を伸ばす。そのまま勢いよく頁を繰り始めた翠旺の近くに手燭を置き、図書室の主は「火事起こすんじゃないよ」と忠告して離れていった。
どれぐらいの時間、帳簿に目を通し続けたのか。もはや自分でも分からなくなった頃、翠旺は頁をなぞる指先をぴたりと止めた。
「……見付けた」
第十六代皇帝・炎晟帝の順嬪、王氏。迦陵頻伽の生まれ変わりとも称され、その美声で時の皇帝の寵愛を掴んだ女性だ。
ただし、その天下は長くは続かなかった。高慢な彼女は妃嬪たちに妬まれ、宴で出された食事に劇毒を仕込まれた。一命は取り留めたものの、天女の歌声は聞くに耐えない悪声に成り果てた。
彼女に、花にまつわるような逸話があったかは、後宮史からは分からない。
けれども。
(王 鈴蘭……)
それが、後宮の南端にある高楼から身を投げたという、悲劇の中級妃の名前だった。
せっかく図書室まで来たのだから、次の怨霊の出現地の候補である北についても調べてみよう。
そう思ったのだが、翠旺は早々に音を上げた。
「……だめだ、多すぎる」
北と言えば、罪を犯した皇族や妃嬪が生涯幽閉される、冷宮のある場所だ。そこで生命を落とした人間は数知れず、怨霊候補には事欠かない。
「……まあ、最も警戒すべき場所にあたりがついただけでも、良しとするか」
もちろん、法則性など翠旺たちの思い過ごしで、次もまた南や西の地の怨霊が牙を剥くかも知れない。それでも、清顕ならば油断せず、抜かりなく対応してくれるはずだ。
(私も、見回りでもしてみようか──)
そう思いつき、しかし翠旺はふと我に返った。
一人で無茶をしないと、清顕に誓ったばかりだ。約束を違えるわけにはいかない。
けれど、専属の侍女や宦官がつくのは、下級妃の最上位である貴人以上。翠旺は、その下の常在に過ぎない。短い後宮暮しの中、ついてきてほしいと頼めるような親しい友人も、作ってこなかった。
翠旺は途方に暮れて、その場で頭を抱えた。
ヒラリと、風に踊る花弁のように気まぐれな動きで、一羽の鳥が降りてきた。
清顕は慣れた様子で、骨張った指を伸ばした。白い小鳥は清顕の手にすり寄るように、彼の指先に止まる。
次の瞬間、微かな二胡の音色と共に、白い小鳥が一通の文へと姿を変えた。
これは清顕の生み出した連絡手段で、「呼鳥」という。彼が術を込めた筆と紙で翠旺が手紙を書き、二胡を奏でると、その手紙は鳥になり、真っ直ぐに清顕の元へ飛んでくる。
清顕は無言で文に目を通した。落ち着きのない珍獣のような彼女に似合わず、その筆蹟は水茎のごとく麗しい。
(北か──)
翠旺の調べの結果と推測に、清顕は額に右手を添え、思考を巡らせた。
後宮を掻き乱す怨霊は、少しずつその強さを増している。次は、悲哀と怨念の渦巻く後宮北部に因縁を持つ者だという彼女の推測は、決して的はずれなものではない。
(──だが、そんなことをして何の意味がある。そしてなぜ、怨霊騒動は後宮でばかり発生している?)
何らかの儀式かとも疑っているが、清顕の知る限り、思い当たるものはない。
「……とりあえず、昼間に北の浄化を行い、夜は陛下に宦官による見回りを直訴するか」
宦官ではない男は基本的に、夕餉の鐘以降後宮に立ち入られることを禁じられていた。清顕たち祓魔は、職務に必要だと事前に許可を取っていれば、その限りではないが、それも限度がある。
清顕は小さく溜め息を零して筆を取り上げ、皇帝への嘆願書をしたため始めた。




