12.真夏に舞う雪藤(2)
客を呼び込む商人の威勢のよい掛け声や、女性たちの歓声。それらを聞くとはなしに聞きながら、翠旺はぼんやりとその場に佇んでいた。
「……どうなさったの?」
大きな瞳が間近で煌めき、翠旺は咄嗟に息を飲んで踵を引く。慧妃・孫氏は目を瞬いたが、すぐに楽しげに翠旺の手を引いて歩き出した。
後宮では半月に一度、出入りの商人たちが小さな市を立てる。入宮にあたっては身元や商品の厳重な調査が必須であり、どうしても、並ぶ商品は割高になった。けれど、後宮という絢爛な鳥籠の住人たちは、月に二度の数少ない娯楽を、何よりも楽しみにしているのだ。
ただし、専属の御用達商人がいる高位の妃や、懐に余裕のない下級妃たちには縁遠い催事。翠旺は当然、後者なのだが、今回は、付き合いの深まった孫妃──孫 香蕾に誘われ、賑わいに足を踏み入れることとなった。
地方の名家出身の孫慧妃も、前者ではある。それでも、「市中の賑わいが懐かしい」と、彼女は市の常連客となっているそうだ。
「──あっ、見て、劉常在! この簪、可愛い!」
孫妃は一際華やいだ声を上げ、繊細な細工の簪を覗き込んだ。花弁を象るのは宝石ではなく、色付きの玻璃のようだが、本物の蓮花のような彫刻は確かに芸術的だ。
翠旺も思わず身を乗り出し、……そこに掲げられている値札に苦笑した。
「はい、孫妃様にお似合いだと思います」
決して高級品ではないが、翠旺の懐事情では気軽に買い求められる金額ではない。その微妙な言い回しに、孫慧妃は首を傾げたが、次の瞬間、にっこりと微笑んで店主に告げた。
「ご主人、こちらの簪を二ついただける? 桃色のものと、碧色のものが良いわ」
恭しく頷く店主に金貨を渡し、孫妃は笑顔で商品を受け取る。そして二本の簪のうち、青い蓮を咲かせる方を翠旺の結い髪に挿した。
翠旺は目を白黒させる。
「……そっ、孫妃様?」
「この間の香袋のお礼よ。あと、お近付きの印に」
ほんのりと頬を染めて笑う同い年の上級妃は愛らしく、翠旺の胸には面映ゆさと、何とも言えない苦味が広がった。
香袋は祓魔の道士・高 清顕に用意してもらったものだし、翠旺は偽りの下級妃だ。
名と生まれ育ち以外、顔立ちすらも、全てが嘘。
祓魔の長官から指示が下れば、直ちに下賜や死亡などの名目で後宮を去らねばならないし、次にそこに足を踏み入れる時には別人となっているだろう。
(人に嘘をつくって、苦しいなぁ……)
翠旺はかぶりを振って、精一杯の笑顔を返した。
どろりと濁り、肺腑を押し潰すように重くのしかかるその場の空気に、高 清顕は深呼吸を繰り返していた。
(これは……。分かってはいたが、西の池の比ではないな……)
後宮は北端、幾重もの厳重な塀に囲われた、小さな建物群。その中の一つを、清顕は部下と共に歩いていた。
後宮に下級妃として潜入している翠旺から、「北が怪しい」という文を受け取り、冷宮と呼ばれる建物を一つずつ見回っているのだ。
今現在、ここに閉じ込められている高貴な囚人はいない。とはいえ、無人にすれば建物はすぐに荒れ、不埒な者たちが逢い引きに使おうとする。最低限の見張りの宦官と、掃除を行う端女が、各宮に割り振られていた。
盛夏に差し掛かっているのにも関わらず、日当たりの悪さも相まって、冷宮に流れる空気は冷たい。清顕は我知らず、身震いをしていた。
(ここで無念の死、非業の死を遂げた者は、あまりにも多い……)
翠旺がいれば、この地を彷徨う数多の怨霊の悲鳴に、目を輝かせていただろう。清顕や他の祓魔の官は、彼女ほどの霊視能力はないため、「何かおかしい」と感じる程度だ。
それでも清顕は、先ほどからうっすらと漂う、何かの香りに鼻をひくつかせた。
「おい。……何か、甘い匂いがしないか?」
「え? 我々は感じませんが……」
部下たちは怪訝そうな顔で彼を伺う。清顕は黙って肩を竦めた。
間もなく陽が沈む。清顕たちは後宮を出なくてはならない。
清顕は案内として先を歩く小さな背中に、丁重に声を掛けた。この宮を管理している老宦官は、祓魔の官の会話にも我関せずと、よろめいた足取りで歩いている。
「馬殿。協力を感謝する。我々はそろそろ外廷に戻るゆえ……」
『……が、エじまセ、んよ』
突如、呂律の怪しくなった宦官の言葉に、清顕たちは目を見開いた。
丸い輪郭に曲がりかけた背、老婆のように穏やかだったその宦官は──
『逃が、サなイ』
手足をだらりと弛緩させ、ニタリと唇を釣り上げ、濁った瞳で清顕たちを見つめていた。
清顕が唾を飲み込んだその一瞬で、眼前の宦官の姿がかき消えた。
「……ぐあァァァ!」
「ひ、ギャアァァァァッ」
絶叫した清顕の部下たちが、全身から血を吹き出してその場に崩れ落ちる。
「なっ……」
慌てて背後を振り返った清顕の耳元で、生臭い息を伴った声が小さく嗤った。刃と化した宦官の腕が、視界の隅で鈍く光る。
『──オ前も、死ネ』
唸る風音が清顕の痩身に襲い掛かる。清顕は咄嗟に、地面に身体を投げ出そうとした。
だが、飛来した何かに視界を遮られ、回避が間に合わない。右の頬と左の脇腹を切り裂かれた。
「くぅ……ッ」
清顕は地を転がりながら、小さく呻いた。血に濡れた肌に、何かが貼りつく。
(これは……、花弁か?)
壁を背に膝立ちになり、必死に感覚を研ぎ澄ませる清顕に、老宦官は再び歪んだ笑みを見せた。
「──陛下!」
夕餉を終え、片付けきれなかった奏上書に目を通していた董 獅英の私室に、血相を変えた宦官が飛び込んできた。
その男が纏うのは、漆黒に蛇が象られた宦服。彼は皇帝の御庭番、その頭領を務める老獪な宦官だった。その男が珍しく、感情を顕にしている。
ただごとではないと察し、獅英は素早く報告を命じた。
宦官は額に汗を浮かべたまま、口を開く。
「北区域の見回りをしていた者より、『祓魔の官が出て来ない』と報告がございました。確認に向かうと……、冷宮の全ての建物で、首を切り落とされた宦官と端女の死体が転がっていました。祓魔の官も血まみれで倒れており、彼らにも息はありません」
「……なんだと?」
想像を絶する事態に、獅英が顔色を失って立ち上がる。実際にその場を見たのか、頭領の身体は小刻みに震えていた。
「祓魔を率いていたはずの、高統括官だけが行方不明です。ですが……」
これが、血溜まりに落ちていました。
そう言って彼が差し出したのは、清顕の佩玉だった。彼の身分を証明するその飾りは、どす黒い血で汚れている。
言葉を失った獅英に、頭領は蒼白な顔で続ける。
「……その佩玉の周りには、幸い、誰の死体もありませんでした。恐らく、高統括官は怪我を負い、下手人に連れ去られたのかと……。
冷宮の周りをくまなく捜索しましたが、血痕はおろか、草の踏み跡一つ見つかりません」
(……高。お前、まさか)
次に怨霊が現れるとすれば、北の地に因縁を持つ者の可能性がある。
祓魔による冷宮内部の確認の要請を送ってよこした、生真面目な男の顔を思い浮かべ、獅英は握り締めた両の拳に力を込めた。
──ガラ……ン、……ガラン!
火急の事態を告げる鐘が後宮中に鳴り響き、翠旺は思わず部屋を飛び出していた。
(何事……!?)
翠旺は夕餉を終え、自室で一人寛いでいたところだった。青天の霹靂の大音声に妙な胸騒ぎを覚え、彼女の表情は自然と強ばる。
翠旺が一心不乱に輪花殿の廊下を駆けている脇で、各々の部屋の扉から顔を出した下級妃たちが、互いに目線を交わし合っていた。いつもなら翠旺に突っかかる同輩たちも、不安げな目つきで彼女の姿を追う。
門を飛び出そうとしたところで、道を塞いでいた宦官たちと正面からぶつかった。
「わわっ……」
弾き飛ばされ、地面に尻もちをついた翠旺が顔を上げると、そこには宦官の群れが立ち塞がっていた。
「……お部屋にお戻りください!」
「後宮内で、不審な事件が発生しました。安全が確認されるまで、各々、自室にて待機願います」
慇懃に告げる宦官たちを、翠旺は呆然と見上げる。その言葉を聞いたのだろう下級妃の一人が、不安を誤魔化すように居丈高に声を上げた。
「……じっ、事件って何よ!? 安全が確認されるまでって、いつなわけ!?」
顔色を悪くして食ってかかるその女性に、宦官が冷ややかに答えた。
「……お部屋にお戻りください。これは、陛下の命です」
その言葉に、居合わせた者たちが皆、すごすごと部屋に戻っていく。
倒れ込んだまま動けずにいる翠旺に、宦官の一人が手を差し伸べた。
「お立ちください。劉常在も、早くお部屋へ」
翠旺は目を見開いて、おずおずと頷いた。
自室に戻り、翠旺は先ほど宦官に掴まれた右手に視線を落としていた。
小さなその手のひらには、目立たないよう小さく折り畳まれた紙片がある。
下級妃の顔と名前を一致させているなんて──と思ったが、どこか見覚えのあるその顔は、皇帝陛下との面会の際、よく立ち会っている宦官のものだった。彼は、翠旺の正体も知っている。
恐る恐るその紙片を開き、中にしたためられた短い文面に、翠旺は眉間の皺を深くした。
『夜が更けたら、遣いを寄越す。目立たないように着いてこい』
差出人の名は記されていない。だが、皇帝付き宦官にこのような文を持たせられるのは、皇帝その人だけだった。
翠旺はわけが分からず、胸の中でひとりごちた。
(何が起こったの……?)
じりじりとして夜更けを待ち、翠旺は祓魔の官服を纏って部屋を出た。迎えに現れた宦官たちが、無言で闇の彼方を指差す。夜に紛れるように動く彼らの後を、翠旺も黙って着いていった。
そうして辿り着いた一室で、彼女を待ち受けていたのは、予測通り皇帝だった。
彼は、小さく頭を下げて床に膝を着いた翠旺に、手早く淡々と事情を説明する。その言葉を理解出来ず、翠旺は目を見開いた。
「……今、なんとおっしゃいましたか?」
真っ直ぐに彼女を見下ろし、皇帝陛下は静かな声音で繰り返す。
「高統括官が、冷宮で姿を消した。その場には夥しい血痕と死体が転がっており……、宦官たちの遺体の中で一つだけ、全身を木乃伊のように干からびさせ、両手を血に染めたものがあった。明らかに、その死が人為的にもたらされたとは思えない。
……恐らく、彼は怨霊に連れ去られたと思われる。生死は不明だ」
翠旺は、引き攣った微笑を浮かべた。その背中を、嫌な汗が伝い落ちる。
「じょ、冗談が過ぎます、陛下。高統括官は、当代随一の道士ですよ? そんな、怨霊なんかに……」
だが、皇帝は真剣な表情で首を振り、翠旺の儚い希望を打ち砕いた。
「死体とは離れた場所にあった血溜まりに、彼の佩玉が落ちていた。そして、その傍にこんなものがあった」
顎をしゃくった皇帝に促され、傍に控えていた宦官が手巾を差し出す。開かれた真っ白なその布の上には、数枚の藤の花弁が載っていた。
事件が発覚したのは今日の夕暮れ。時間が経過していても、その慎ましやかな花弁は瑞々しさを湛えたままだ。
翠旺の全身が、おこりにかかったように小刻みに震え始める。手を伸ばして手巾を受け取り、翠旺はその場にへたりこんだ。
次の事件を起こす怨霊は、北の宮に因縁のあるものかも知れない。そう提言したのは翠旺だ。彼は早速様子を見てくると、文を返して──
「嘘……。うそだ、清顕……!」
自分の言葉が、彼を危険に晒した。
翠旺の声が大きく揺らぐ。
皇帝はそんな彼女を無言で見つめ、ひっそりと唇を噛み締めていた。




