13.真夏に舞う雪藤(3)
頬に触れた冷気に、高 清顕はふと瞬きをした。
「う……」
身体を起こそうとして、彼は脇腹に走った鈍い痛みに顔を顰める。案内役の宦官役に襲われた時の傷のせいだと、一瞬遅れて思い出した。
清顕は地面に倒れたまま、ざっと自分の全身に目を走らせる。急所は何とか庇ったものの、あちこちに裂傷が出来ていた。
(ここは……どこだ?)
冷宮内を走り回り、必死で攻撃を避けたことは覚えている。だが、宦官──恐らく怨霊に心身を乗っ取られていた──の放つ異様な瘴気に当てられ、次第に意識が遠のいていった。
清顕の目を覚ましたのは、どんよりと重い雲に覆われた薄暗い空間に舞う、ひとひらの六花だった。彼は空を見上げ、眉を顰める。
(真夏に雪など、降るはずがない……)
つまりここは、あの怨霊が作り上げた異世界なのだろう。
人の気配も、怨霊の気配も感じない空間で、清顕は神経を尖らせながら周囲を目で探った。
建物には見覚えがあり、先ほどまでまさに清顕たちがいた冷宮のものだ。つまり怨霊は、冷宮に強い因縁を持つ者なのだろう。自分の空間に引きずり込んだのは、そこが一番、自分の力を強く発揮出来る場所だからだ。
あの時彼の視界を遮った、薄紫の小さな花弁。恐らく、藤だろうか。
(ここで亡くなった皇族や妃嬪で、藤の名を持つか、藤に縁のある人物。……さすがに、すぐには思い付かないな)
西の池の夏静嬪の逸話は、後宮で広く知られていたし、東の宮で父の妃と密通を繰り返した涼犀皇子に至っては、後世で歌にまでなったほどだ。
だが、高貴な罪人の終の地である冷宮の住人については、物見高い後宮の住人ですら、口にしたがらない。誰だって不用意な軽口で、至上の君の勘気を蒙ることは避けたいものだ。
(じっとしていてもしょうがない。手がかりを探そう)
清顕は呼吸を整えて立ち上がり、そろそろと足を踏み出した。禹歩──道術の基本、北斗七星の形に足を進める。強大な怨霊相手に、どこまで効果があるかは分からないが、当面の身の安全は図れるだろう。
(奥の方、雲の色が濃く、吹雪いている。……あちらを目指すか)
清顕は痛みを誤魔化しながら背を伸ばし、前へと進んで行った。
怨霊に興奮して奇声を上げ、飛び出していくと思っていた。
あるいは血相を変えて取り乱し、泣き叫ぶかと。
だが、獅英の予想を裏切り、床に崩れ落ち両手で顔を覆っていた劉常在は、しばらくの後にのろのろと顔を上げた。その眼差しは焦燥しきっていたが、意図的に自らを落ち着かせるように、彼女はゆっくりと深呼吸を繰り返した。
見慣れない祓魔の官服、化粧をしていない端麗な面差しと相まって、どこか近寄り難い雰囲気を感じる。彼女は凪いだ声で、獅英に問い掛けた。
「……陛下、直言をお許しいただけますか?」
「許可する。どうした?」
その静かな声音に違和感を覚えつつ、獅英は間髪入れずに頷き返す。劉常在は真っ直ぐに獅英を見上げた。
「冷宮の配属になる宦官は、どのように決められるのでしょうか?」
「宦官……?」
眉を寄せ呟いた獅英に、近くに控えていた宦官の一人が、そっと獅英に発言の許可を求める。劉常在への呼び出しの文を持たせた、若いが頭の切れる宦官だ。
彼は目を伏せながら、言葉を続けた。
「配属は内務府の長の差配で行われます。……冷宮は、宦官にとっても厳しい職場。罪を犯した者や、出世の道を絶たれた者が多いかと」
同輩たちの非難の目にも動じないその男に、獅英は瞬きを繰り返す。
世間から蔑みの目で見られる彼らは、金銭と名誉に執着しがちだ。冷宮は、皇帝に生涯幽閉を命じられたり、死罪を待つ者が過ごす場所で、宦官たちが渇望する賄賂からは縁遠い。その場所への配属は、流刑の一つとも言えるだろう。
獅英が劉常在に視線を戻すと、彼女は重苦しい表情で答えた。
「木乃伊化していたという、宦官の遺体。先ほど伺った話から、恐らく、その宦官が祓魔の官や宦官、端女たちを襲ったと思われます。それも、何らかの形で身体を操られて。
……ごめんなさい。宦官の身体にすすんで近付こうと考える人は、多くないと思います」
確かに、と獅英は頷いた。
「躊躇わないのは、自身も宦官であるから」
劉常在も黙って頷き返す。
獅英が背後に立ち並ぶ宦官たちに目を向けると、壮年の一人が小さく手を挙げた。
「我が師の同僚であった者が、今も後宮の隅でお仕えさせていただいております。その者なら何か知っておるやもしれません」
「お前の師なら、それなりに老齢か。──その者をここへ」
早速命じた獅英の言葉に、壮年の宦官は部屋を飛び出して行った。
寝ているところを叩き起されたのだろう。七十近いその宦官は、獅英の前でも堂々と船を漕ぎながら答えた。
「徐 不治という者が、かつて冷宮におりました。元は見目の良い宦官で、順調に出世街道を歩んでおりましたが……。邪教の信徒と疑われ、拷問によって片目を抉り取られ、冷宮付きとされたと記憶しています。まともに食事も衣服も与えられず、真冬の深夜に凍死したそうだと」
「邪教だと? ……まさか、」
息を飲む獅英に、老宦官は飄々と頷く。
「陛下の御祖父君にあらせられる、幽丞帝が一掃なさった邪教。邪神を崇め、喜捨を繰り返せば幸福になれると説いた──寿天教にございます」
「が……ッ」
尖った氷に左の太腿を抉り裂かれ、清顕はもんどりうって地面に倒れた。
歩き始めたのも束の間。見えない敵が振りかざす氷の刃が、四方八方から容赦なく彼を襲った。一拍遅れてその刃が飛んできた方向に炎術を向けるも、そこには既に何の気配もない。
ならばと広範囲に術を放とうと集中すれば、背後の隙から情け容赦なく氷の礫が飛んでくる。背を守ろうと壁際を探すが、遠くに見える冷宮の建物は一向に近付かない。
八方塞がりの状況に、清顕は表情を歪めた。致命傷こそ負っていないものの、その顔面はすでに蒼白だった。
(せめて……怨霊の正体が分かれば……!)
名を知るということは、相手の魂の根幹を握ること。術の威力も跳ね上がる。
だが、相手はわずかも姿を見せず、ただ耳障りな哄笑を轟かせるばかり。灰色の空間に響き渡るその声は、かえって怨霊の立ち位置を清顕に誤魔化していた。
埒が明かない。
歯噛みした清顕は、懐から持てるだけの呪符を取り出し、腕を振った。
「──燃えろ!」
符は蒼い炎となり、闇雲に一方向を目指して飛んで行く。狙いも定めず放った炎はすぐに燃え尽き、灰が地面に降り積もったが、清顕は構わず姿勢を低くして駆け出した。
その両手から大量の炎と水が勢いよく放たれ、ぶつかる。それらは爆発的な蒸気となり、呪符の灰混じりの水を周囲に撒き散らした。
「ぐぅ……っ!」
無防備な彼の背中を再び氷の刃が襲い、パッと血飛沫が舞う。
だがその甲斐あって、無人に思えたその空間に、灰色の水に濡れた影がぼんやりと浮かび上がった。
切り裂かれた背の痛みに耐え、地面を踏みしめその影を睨む清顕に、怨霊はようやく姿を見せた。
『……やるなぁ、お前』
「物理的に俺を攻撃出来ると言うことは、お前にも実体があるはずだからな」
賭けではあったが、怨霊自らが作り上げた世界ならば、可能性はあった。
片目のないその怨霊は、ニタリと頬をつり上げる。
『それでこそ、殺しがいがある。……俺を嵌めた祓魔よ』
「何を……、っ!」
反問の暇も与えず、両手に氷の長剣を握り締めて襲い掛かってきた怨霊に、清顕も息を詰めて指先を向けた。
清顕の操る炎と、怨霊の操る氷。理屈の上では、清顕が圧倒的に有利なはずだった。
姿を隠すことをやめ、氷の刃を振り回す怨霊に、清顕は幾重もの炎を放って追い込んでいく。清顕を傷つける前に溶け落ちる自らの武器に、怨霊も顔つきを変えた。
だが、怨霊の表情はそれでもまだどこか、余裕の色を帯びていた。
地面に出来た水溜まりは、怨霊が腕を払うと再び凍りつき、清顕を襲う。咄嗟に風をぶつけて壊しても、それらはまた空中で形を取り戻した。
祓っても祓ってもきりがない。それどころか、いつの間にか追い詰められていく。歪な氷の塊に頭を殴られ、清顕はついにその場に膝を着いた。
視界が回り、吐き気が込み上げる。立ち上がろうと踏ん張った足にも、まるで力が入らない。清顕は堪らず、崩れるように地面に倒れ込んだ。
術を使い過ぎた。血も多く流した。懐の呪符を探そうとしても、指先が震えるばかりで、一向に動かない。
地面に倒れ伏した清顕の指先を踏みつけ、怨霊が残った片目を愉悦に歪ませた。
『終わりだな、祓魔』
薄れゆく意識の中、清顕は自身に振り下ろされる長剣を見上げていた。
「──徐 不治!」
翠旺は大声で怨霊の名を叫び、限界まで引き絞った弓の弦から指を離した。真っ直ぐに飛んだ破魔の矢が、宦官の怨霊の肩に突き刺さる。
『……ぐあァァァァッ!』
肉の灼ける嫌な音と臭いを立てる肩を抑え、怨霊が絶叫した。彼は氷の長剣を投げ捨て、飛び退る。
翠旺は右手に破魔弓を提げ、背中に二胡を負ったまま地を駆け、倒れた清顕と怨霊の間に滑り込んだ。弓と矢筒を素早く清顕の身体に預け、祓魔の官服の懐に右手を突っ込む。そしてそこから取り出したものを、手当たり次第に周囲に撒いた。
怨霊が怯んだように、顔を顰めた。
『なんだ、それは……!』
「ふふ、──怖い?」
翠旺は片頬を歪める。これは清顕が、妃嬪の事情聴取の口実にと作ってくれた香袋の中身だ。清顕特製の魔除けの香、そこに更に、神木を焚き清めた灰も混ぜ込んでいる。
怨霊を挑発するような余裕めかした笑みの下で、翠旺は密かに拳を固めた。
(早く、清顕を連れて帰らなきゃ……!)
呆然とこちらを見上げている彼の顔色は、血の気が引ききって真っ青だ。全身傷だらけで、特に太腿と背の傷が酷い。
翠旺に退魔の能力はない。
それでも、やるしかなかった。
彼女を警戒したように距離を置き、様子を伺っている怨霊に、翠旺は握り締めていた真っ白な紙を突き付けた。
「徐 不治。──いえ、徐 藤賢。今上陛下の名代として、御言葉を伝えます。『その名を返し、再び名乗ることを許す。その身に残された不名誉は、正式に撤回する』。……だそうです」
翠旺が掲げたのは、「呼鳥」を飛ばすために清顕から貰っていた、彼の術が込められた紙だ。その紙に、同じく道術の施された筆で、皇帝が聖旨をしたためた。
宦官としての嘲名と、本名の両方をそこに記され、翠旺の声で読み上げられた怨霊の「核」は、これで縛り上げられた。
宦官は全身を戦慄かせ、絶叫した。彼が飛ばした氷の破片が、翠旺の頬や腕を浅く裂く。
『ふ……ふざけるな! なんだそれは! 今更……!』
翠旺は悲しげに目を細め、小さく頷いた。
「そうだね、今更だ。その今更のことを、陛下は必死に調べられたんだよ。
……寿天の教祖一派は秘密裏に、喜捨をした信徒の名簿を作っていたんだね。押収されたその名簿に名前のあった官僚の一人が、罪を逃れるため、字面の似ていた貴方の名前に偽造させた痕跡が見付かった。その官僚は、貴方が仕えてた上級妃のお兄さんだったよ。
貴方を拷問したのは、祓魔の官……。その人も、もしかしたら、偽造に関わっていたかのかな」
怨霊は、目に見えて動揺し始めた。
彼はある日、身に覚えのない寿天教への喜捨の罪で捕らえられた。深い信頼で結ばれていた主に必死に助けを求めたが、彼女は「裏切られた」と絶望の表情で徐氏を突き放したと、あの老宦官が教えてくれた。
彼は死ぬまで無実を訴え続けた。そして、五十年の歳月を経て、ようやくそれが真実だと認められた。
ただ、その偽造にも疑問が残る。いくら徐氏が上級妃付きの首席宦官とはいえ、妃の身内がその名前を知っているだろうか。ただでさえ、宦官を嫌う官僚は多い。「裏切った」のは、もしかしたら彼女の方だったのかも知れない。
徐は聡明な人間だったと、老宦官は言っていた。自分の身に起こった事態の真相に、今、彼も推測を巡らせたのだろう。憎しみに燃えていたその瞳が、ふっと力を失う。
彼は呆然と目を見開き、空いた右手で乱れた髪を掻きむしった。
『馬鹿、な……。余妃様が、そんな……! でも……!』
彼の殺意がにわかに萎んだのを認め、翠旺はそっと距離を取り、清顕の傍らに屈み込んだ。周囲に落ちていた氷の刃で、自身の裾や袖を裂き、清顕の背と足の痛々しい切り傷を押さえる。出血は治まっているようだが、虚ろな目をした彼の全身は小刻みに震えていた。
(身体を温めないと……)
しばし逡巡し、翠旺は背の二胡を下ろし、官服の帯を解いた。脱ぎ捨てたそれで、清顕の身体をそっと包み込む。
内衣一枚になった翠旺に、こんな状況であるのに清顕が目を見開いていて、彼女は何だか可笑しくなって笑ってしまった。
「……清顕。二胡、預かっててね」
翠旺は幼なじみの身体に、二胡を預ける。代わりに、破魔矢を取り上げて立ち上がり、絶望に打ちひしがれた宦官の怨霊にそっと歩み寄った。
のろのろと顔を上げる彼に、翠旺は悲しげに笑う。
「私たち下々の者はいつだって、尊き立場の人の気まぐれに振り回される。……だったらさ、こんな現世には早く見切りをつけて、次の人生に賭けてみようよ。もしかしたら、異国の王子様とかに生まれ変わってるかも知れないよ?」
『……』
残った片目を見開き、涙を流している宦官を、翠旺は膝を着いてそっと抱き締める。
そして大きく振りかぶった破魔矢を、力いっぱい怨霊の背に突き刺した。
「おやすみなさい、徐 藤賢。……安らかな明日が、訪れますように」
多くの人間を残酷に殺め、当代随一の道士を追い込んだ非道な怨霊は、子どものように嗚咽を零す。
やがて彼は大量の藤の花弁を残し、跡形もなく姿を消した。
「──清顕、清顕!」
全身を包んだ温もりに、束の間気を失いかけた清顕は、幼なじみの必死の声にふっと意識を浮上させた。彼の胸倉を容赦なく掴み上げ、激しく前後左右に揺さぶる翠旺を、清顕は目を細めて見上げる。
「……やめ、ろ……。揺さぶるな、吐く……」
「うわぁぁ、ごめん! 吐かないで!」
重度の貧血で、頭が割れるように痛んだ。全身、自分でも笑ってしまうほどの傷まみれだったが、一命は取り留めたらしい。
何故だか気が抜けてしまい、清顕は小柄な翠旺の身体にゆっくりともたれかかった。
「破魔弓なんて、どうしたんだ。……お前、弓引けたのか?」
「あ、あれは陛下が貸してくださったんだよ。神事で使ってるヤツ。当たれば儲けものだって適当に引いたら、まさかの的中」
ケロリと笑う幼なじみに、清顕も小さく笑みを零した。剥き出しの華奢な肩に頭を預け、清顕はぽつぽつと呟く。
「……よく、ここが分かったな」
「手持ちの呼鳥、ありったけ飛ばしてみた。あとで補充してね」
「……香袋、あんなに撒き散らせるほど残ってたのか? ほとんど減ってない」
「うるさいなぁ。どうせ友達いませんよ」
頬を膨らませる翠旺を眩しげに見上げ、清顕はふと瞬きをした。化粧をしていない頬に、小さな切り傷がいくつもある。目の前の一つに指先を伸ばし、清顕はぼんやりと続けた。
「怪我。……手当」
「清顕に言われたくないよ。なんだよもう、前以上にズタボロじゃないか」
「……というか、なんて格好してるんだ。早く服着ろ」
「ガタガタ震えてる怪我人は、いったん黙ろうか?」
気安いやり取りが耳に心地よく、清顕はうとうとと船を漕ぎ始める。その頭を撫でながら、翠旺が花が咲くように笑った。
「日差しだ。……帰ろうね、清顕」
どんよりとした雪雲に覆われていた空は青く晴れ渡り、二人の身体が暖かな光に包まれていった。




