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14.ゆく河の流れは絶えずして(1)

 現実世界に戻ったのは、夜明け前だった。


 異空間に満ちた光が消えた時、二人は冷宮(れいぐう)の手前に座り込んでいた。そんな彼らを待ち構えていたのは、ずらりと並んだ皇帝専属の医官たちだった。

 腕利きの彼らは、内衣一枚の翠旺(すいおう)に目を剥いたあと、血まみれの清顕(せいけん)に真剣な表情で向き直る。下人に命じて問答無用で担ぎ上げさせ、医務室に連行した。


 清顕には全治一ヶ月という診断が下されたものの、傷が今後の生活に影響することはなさそうだった。


 朝陽が登りきった頃、措置を終えて眠る清顕を前にして、翠旺は胸を撫で下ろしていた。

 翠旺の隣に立っていた皇帝陛下が、小さく零す。


「……まったく。心配させおってからに」


 彼は多忙の合間を縫って、わざわざ様子を見に来てくれていた。太っ腹にも自分の専属医を遣わした皇帝は、呆れた様子で清顕を見下ろし、苦笑する。


「傷が塞がって、まともに動けるようになるまでは、出廷停止を厳に命じておく。劉常在も、しっかりと休養せよ」

「ありがとうございます、陛下」


 深々と頭を下げた翠旺を柔らかな眼差しで見やり、彼は足早に医務室を去っていった。










 皇帝陛下は宣言通り、清顕(せいけん)に、出廷停止どころか外出禁止を命じたそうだ。冷宮には同行しなかった彼の部下に命じて、日中見張りをさせる徹底ぶりだった。

 翠旺(すいおう)も頬の傷が癒えるまでは、なるべく自室で過ごしていた。七日ほどの療養期間中、皇帝は一度、内密に文を送ってくれた。そこには清顕の様子や、彼の懸念(けねん)である市井(しせい)の出来事が、簡単に記されていた。


寿天(じゅてん)教徒と思われる民が、古びた寺に集まっている──)


 そこは寿天の寺ではないが、継ぐ者がおらず、遠い昔に打ち()てられた古寺だった。

 後宮で起こった、四つの怨霊騒ぎ。南、西、東、北のそれぞれで怨霊が生まれ、後宮の住人に脅威をもたらした。そして、最後の北の怨霊の正体は、寿天に因縁のある者だった。


 これで、終わったのだろうか。あるいは、何かが始まるのか。


 険しい表情を浮かべた翠旺は、……不意に間近で(またた)いた瞳に、文字通り悲鳴を上げた。


「……ひぃやあぁぁぁっ!?」

「きゃっ」


 彼女の大音声(だいおんじょう)に驚いて尻もちを着いたのは、同い年の上級妃──(そん) 香蕾(こうらい)だった。目を丸くしている孫妃に、翠旺はバクバクと音を立てる心臓を必死で宥めながら叫ぶ。


「あぁぁあ、すみません! 孫妃様、お怪我は!?」

「ええ、大丈夫……」


 翠旺に抱き起こされ、孫慧妃(けいひ)は小さく微笑む。

 そういえば、ぼんやりと考え事をしている間に誰か訪ねて来ていて、無意識に迎え入れていた気がする。

 完全に上の空だった自身に冷や汗をかきながら、翠旺は恐る恐る上級妃の顔色を伺った。


「あ、あの、孫妃様。本日は、どう……。侍女の方は……」


 孫妃はぱちぱちと瞬きをし、苦笑を浮かべる。


「やっぱり聞いてなかったわね? ……貴女(あなた)のお見舞いよ。侍女にはお茶の支度を任せてるわ。もうすぐ戻るはず」

「重ね重ね……申し訳ございません……」


 本来は翠旺がすべき茶の用意まで、甘えてしまっていた。頭を抱える翠旺を楽しげに見つめる孫妃だったが、ふと距離を詰め、翠旺の顔を覗き込む。


「頬の傷、どうしたの? 痛そう……」

「へ? ああ」


 翠旺は化粧越しにうっすら見えているだろう傷を押さえ、ケロリと笑った。


「うっかり転んで、生け垣に突っ込んで……。大した怪我じゃないです、痕も残らないだろうし」


 残ったところで、と内心独りごちた翠旺に、孫妃は不意に真剣な目を向けてきた。


「駄目よ、気をつけなきゃ。……綺麗な肌を、しているんだから」


 いつも軽やかな妃にしては珍しく、その声は重々しく響き、翠旺は目を瞬いた。











 清顕(せいけん)は自室の部屋の扉を開けた人物を認め、慌てて身体を起こそうとした。


「……良い。寝ていろ」


 (つづみ)のような低い声で苦笑してみせたのは、清顕の所属する組織、祓魔(ふつま)の長官である() 綜哲(そうてつ)だ。皇帝の命に応えるため、いくつかに別れた部門の長となるのは統括官だが、その上に立つのが副長官と長官だ。

 直属の上司の突然の来訪に、清顕は驚きを隠せずにいる。横たわったまま目を白黒させている彼に、杜長官は小さく溜め息をついた。


「お前の部下たちが、お前が『隙を見ては寝台を抜け出し、庭で鍛錬(たんれん)しようとする。なんとかしてくれ』と泣きついてきてな。『絶対安静、外出厳禁』。陛下の命に逆らう気か?」

「外出は……、しておらず……」

「安静にはしていない」


 ピシャリと()()けた上司の言葉にぐうの音も出ず、清顕は「……大人しくします」と項垂(うなだ)れた。


 杜氏は、皇帝の信任篤い祓魔の長だが、清顕にとっては道術の師の義理の兄という、身近な存在でもある。彼らの妻同士が姉妹なのだそうだ。


 先代の祓魔の道術部門の統括官だった師が、任務のさなかに視力を失う重傷を負ったため、弟子の清顕をその座に引き上げた。それが杜長官だった。

 若過ぎる統括官に、縁故(えんこ)(ねた)む声も上がったが、杜長官は彼に難解な任務を立て続けにこなさせることで、周囲を黙らせた。


 そういう訳で、清顕にとっては何重にも頭が上がらない相手である。


(面倒な相手を呼びやがって……)


 清顕(せいけん)は内心で恨み言を零すものの、部下に負担を強いているのは事実だ。元々、祓魔(ふつま)の道術部門は人員が潤沢(じゅんたく)とは言えない状況で、先日のあの事件で優秀な官たちも(うしな)ってしまった。今動ける者など、片手の指の数ほどしかいないのだ。

 清顕は部下たちの顔を思い浮かべ、静かに息を吐いた。


「……ご迷惑を、お掛けしております」

「まだ十日だろう。一月、しっかり休め。──事態を甘く見ていた。先日の件で生命を落とした者にも……申し訳ないと思っている」


 苦い表情を浮かべる()氏に、清顕も沈鬱な面持ちで俯いた。


 後宮で騒ぎを起こした怨霊は、少しずつその力を増していったように感じた。四神の方角、一通りで騒動が起こった今、「次」の事態が憂慮(ゆうりょ)される。だが、犠牲になった者たちのためにも、ここで食い止めなければならない。

 そして、皇帝陛下の御心を悩ませる問題は、市井(しせい)にもあった。


「……寿天(じゅてん)教徒の動きは、いかがですか?」

「目立ったものはない。そもそも、本当に寿天教徒の結集なのかも、確証が掴めん。取り調べても証拠が見つからない」


 隠密を得意とする祓魔にすら尻尾を掴ませないとなると、敵はかなり慎重に動いているようだ。

 幽丞帝(ゆうしょうてい)の御代、人心を惑わせる邪教として、寿天教はかなり厳しく取り締まられたという。ただ、先日の宦官・(じょ)氏のように、無実の者が誣告(ぶこく)によって名誉や生命を落とした例もある。どうしても、慎重にならざるを得なかった。

 肩を(すく)めた杜長官は、ふと瞬きをして清顕を見下ろした。


「……そういえば。(りゅう)女官(にょかん)が相談してきたが、あれはどうなった? 『陛下に中級妃に誘われている』と」


 思い出したくもない話に、清顕は派手にむせた。


 祓魔の官の配置は長官の専横事項のため、念の為、翠旺(すいおう)も彼に相談したのだろう。真剣に捉えたというより、「こんなことを聞かれて、断ったけど、大丈夫ですよね?」というお伺いだ。

 だが、楽しげに両唇をつり上げる上官には、嫌な気しかしない。清顕は顔を引き()らせた。


「……あれは、陛下のお戯れかと」

「ふぅん? 陛下には随分、目をかけていただいているみたいだが?」

「珍獣を面白がっておいでなのでは? 後宮の妃嬪(ひひん)様方は皆、分別(ふんべつ)のある、淑女のお手本のような方ばかりですから」


 ニマニマと笑う上司に耐え切れず、清顕は思いっ切り顔を(しか)めて目を()らす。杜長官は「悪い、からかい過ぎた」と苦笑したが、不意に真剣な表情に戻って言った。


「珍しがっておられるのも、事実ではあるだろう。……陛下はずっと、難しいお立場で生きてこられ、気の休まる暇などなかった。落ち着かせてくれる存在を、求めていらっしゃるのかも知れん。

俺たちごときがこんな推測、不敬の極みか」

「それは……」


 思わず何かを言いかけ、清顕ははっと我に返る。

 自分は、何を言うつもりだったのか。

 床に伏したまま釈然(しゃくぜん)としない表情を浮かべる彼に、古馴染みの杜長官は肩を竦めてみせた。


「まあ、そんな事態にならぬよう、こちらからも陛下に釘を刺させてもらう。──万が一、陛下のお手つきになれば、翠旺は後宮を出ることが叶わなくなる。あれに、生涯にわたって間諜(かんちょう)のような真似をさせるのは、……無理だ」


 杜長官は清顕の師匠の身内で、当然、翠旺が劉 才恩(さいおん)の養女となった経緯も知っている。

 彼女の危なっかしい不器用さについても。


「こちらも俺の読みが浅かった。……悪かったな」


 そう呟いた杜長官は、おもむろに立ち上がった。目で追う清顕に「ゆっくり休めよ」と笑い、部屋を出て行く。

 大きく溜め息をつき、清顕は頭から(ふすま)を被った。











「──そう。ご苦労さま」


 報告を終えた宦官を一瞥(いちべつ)し、(こう) 美芳(みほう)はそっと息をついた。


 彼女は今代の皇后だ。

 覚悟を決める間もなく突如転がり込んできたその座に、惑い、愚かな真似をしてしまったこともあった。

 けれど、恐怖を()して彼女を守ろうとした侍女や、寛大さと厳しさをもって彼女を(ゆる)してくれた夫の姿を見て、二年ぶりに目が覚めた。


 望もうと望まなかろうと、自分は国を統べる男の妻であるのだ。ならば、その役割を果たさなくてはならない。


 美芳がその者に疑問を抱いたのは、ほんの些細なきっかけからだった。ある日の茶会で、とある妃嬪付きの侍女が発した言葉が、偶然耳に入った。




「皇帝陛下には、神のご庇護がないのかしら──」




 春先から続く不可解な怨霊騒ぎ。先日はついに、大量の死者まで出してしまった。

 この状況を受け、「現帝の治世は祝福されていないのではないか」と、多くの者が不安を抱いている様子だった。実家に心配され、後宮勤めを辞した侍女も何人かいると聞く。


 それらの行動を、美芳は否定するつもりもない。

 籠の中に閉じ込められた女たちは、時に鬱屈(うっくつ)を溜め込み、それが後々大変な事態に発展することもある。感情を吐き出す必要があるのなら、そうすれば良いと思っていた。


 だが、「神の庇護」という言葉は、見過ごせない。

 それは邪教とされる寿天(じゅてん)教の経典に頻出する単語だ。


 その発言をした侍女が、寿天教徒だという証拠はない。また、彼女の言葉を耳にした同僚やその主にも、おかしな様子は一切なかった。



(言葉一つで疑うのは、穿(うが)ち過ぎだろうか……)


 それでも、皇帝が寿天を警戒すべき集団と位置付けている以上、看過するわけにはいかなかった。

 考え込む彼女を、少し離れて見守っていた首席宦官が、そっと声を掛けてくる。


「……いかがなさいますか、皇后陛下」


 美芳はじっと前方を見据えたまま、間髪入れずに応じた。


「陛下に報告します。急ぎお時間を取っていたたけるよう、文を書くわ。届けてちょうだい」

「かしこまりました」


 さっと頭を下げ、首席宦官は踵を返した。暫時(ざんじ)の間に、侍女の鈴鈴(りんりん)が書道具一式を持って入室してくる。彼に命じられたのだろう。

 心配そうにこちらを見上げてくる侍女に微笑み掛け、美芳は墨の用意を命じた。







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