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15.ゆく河の流れは絶えずして(2)

 薄い皮袋に水が溜まり、袋がはち切れそうになるように、人々の疑心暗鬼が降り積もっていくのを感じる。


 夏の盛りを越え、あの最後の怨霊騒動から、間もなく一月が経とうとしていた。


 市中で目撃された寿天(じゅてん)教徒の噂は、ついに後宮の住人たちの口にものぼり出した。

 後宮内でもあれ以来、怨霊関連の目立った騒ぎはないものの、「またいつ、恐ろしいものが現れるか」と女性たちは恐々としている。


 後宮に漂う重い空気に耐えかねた様子の(そん)慧妃(けいひ)を、翠旺(すいおう)は度々訪ねていた。孫妃同様、翠旺に目を掛けてくれている()淑妃(しゅくひ)も、ふとした拍子に顔色を蔭らせがちだ。


 重苦しい日々に後宮中が萎縮(いしゅく)するなか、ついに、その凶報はもたらされた。








「……皇后陛下が?」


 目を見開いた下級妃の一人が驚いたような声を上げ、慌てて口元を押さえた。たまたま通りがかった翠旺(すいおう)は、こっそりと近付いて聞き耳を立てる。

 下級妃たちは額を突き合わせ、こそこそと噂話を続けた。


「ここ数日、体調を崩して寝込んでおられるそうよ」

「本当に体調不良なの? まさか……」

「血相を変えた医官たちが、皇后様の宮に向かうのを見た端女(はしため)がいたのよ」


 不穏な話題に、翠旺は思わず息を詰めた。嫌な予感が胸を過ぎり、後宮の中央、皇后陛下の宮のある方向へ目を向ける。

 ただの体調不良であれば、まだ良い。けれどもしそれが、怨霊によってもたらされたものであったら。

 翠旺は両拳を握り締め、額を伝う冷や汗に顔を(しか)めた。







 皇后・(こう)氏の身を襲った奇妙な病は、医官たちの看病の甲斐なく悪化するばかりだった。

 獅英(しえい)は険しい表情で、宦官の報告を受けていた。


「皇后陛下は高熱にうなされ続けておられます。解熱剤は辛うじて効くようですが、熱が下がると途端にひどい苦しみに襲われようで……。医官たちもどうすべきかと、頭を抱えています」


 青い顔でそう告げた宦官の一人に、獅英は深々と溜め息をつく。


「……祓魔(ふつま)は、何と言っている」

(こう)統括官の配下の見立てでは、恐らく、怨霊のしわざだろうと。ただ、その正体や所在は掴めぬようで……」


 そうか、と低い声で応じた獅英は、間髪入れずに彼らに指示を下した。


「高は明日から復帰だったな? 参内(さんだい)し次第、顔を出すように命じよ。……それから、(りゅう)常在(じょうざい)に急ぎ参るように伝えろ」

「急ぎ……ですか?」

「今すぐにだ」


 怪訝(けげん)そうな顔をするのは、彼女の正体を知らない宦官たちだ。事情を知る者が目配せをし、彼らを促すように部屋を出て行った。

 獅英は右の手のひらで顔を覆い隠し、小さく(うめ)いた。






 いつもの小部屋で、(りゅう) 翠旺(すいおう)はじっと(ひざま)いて獅英(しえい)を待っていた。一月ぶりに見るその小さな姿に、獅英は小さく息を吐く。顔を上げるよう伝えると、すっかり見慣れた眠たげな瞳──眠たげに装った瞳が、獅英を真っ直ぐに見上げた。

 彼女が祓魔(ふつま)の一員だと知る若干名の宦官だけを部屋に残し、獅英は彼の下級妃を椅子の上から見下ろした。


「……(こう)氏については、聞いているか」

「はい。お加減はいかがですか?」


 端的に応じ、彼女は真剣な表情で答えを待つ。

 こうした時に無闇に騒がず、余計なことを言わないところは、彼女の幼なじみもよく似ている。その冷静さが、今はありがたかった。

 獅英は(かす)かに首を振って、「良くないな」と応じた。


「原因が分からん。医官も祓魔も、ただの病ではないだろうと。……解熱剤を飲ませると、ひどく苦しむ。まるで、『楽になることは許さぬ』と、脅されているようだ」


 気丈な正妻が身体を丸め、苦痛に悲鳴を上げる姿を遠目にして、獅英は両拳を握り締めることしか出来なかった。見舞うことも、そばにいることも、「(けが)れが移る」と騒ぐ官たちに止められた。四六時中、医官を張り付かせる手配をするのが、やっとだった。彼らの息子は東宮に隔離し、厳重な警護を命じてある。


 彼女からは、「急ぎ相談したいことがある」と、文を受け取ったばかりだった。当日とその翌日は、近郊視察の予定を組んでしまっていたため、獅英は二日後に時間を取ると返事をしたのだ。だが、その約束の日の朝、黄氏は高熱に倒れた。


 表情を曇らせた獅英を、劉常在は気遣わしげに見つめている。小さく笑い、獅英は気持ちを切り替えた。


「明日には高が復帰する。即刻対処に当たらせるが、劉常在(じょうざい)は先んじて、怨霊の気配を探れ」

「分かりました。直ちに」


 袖を払って頭を下げる彼女を、獅英は無言で見つめていた。その目に何を思ったのか、顔を上げた彼女は首を傾げて、口を開く。


「……陛下は、大丈夫ですか?」


 獅英は思わず、息を詰める。

 わざわざ化粧までして隠した目の下の色濃い隈を、見抜かれたのだろうか。


 皇帝は揺らいだり、焦燥する姿を周囲に見られてはならない。

 正妻に据えた女の窮地に取り乱すことも許されず、彼女を(うしな)うかも知れない不安に動揺することも出来ない。常に泰然(たいぜん)と悠然として、万民を率いるのが獅英の役目だった。


 獅英の脳裏を、いくつかの残像が浮かんでは消える。


 燃える炭のような真っ赤な顔で苦しむ、黄氏の姿。オロオロと獅英の指示を仰ぐ官たち。


 その中にふと、目の前の女の姿が()ぎった。


 不躾(ぶしつけ)で、不敵な笑顔。怨霊を前に嬉々として目を(きら)めかせる、興奮した表情。怨霊に貞操を汚されかけた恐怖に震え、幼なじみの胸に顔を(うず)めた、頼りない後ろ姿。重傷を負ったその幼なじみを(いたわ)わるように抱き締めた際の、静かな微笑み。




(息が、出来ない。苦しい。……恐ろしい)




 気が付けば獅英は床に降り、(すが)ように彼女の両手を引き寄せていた。




「へっ、陛下……!」


 宦官たちが小さく(とが)めるが、獅英は構わず目を閉じた。劉常在──翠旺の小さな薄い手のひらを握り締め、自身の両頬に()てがう。


 象牙色の化粧の下に隠した肌の真実は、雪を思わせる白。

 けれど、その手のひらは、思いがけないほどに暖かい。


 耳にこびり付いて消えない声。「(とう) 獅英の治世は呪われている」という口さがない言葉が、その温もりに溶けて消えていく。

 獅英はようやく、呼吸が出来た思いだった。


 しばらくそのまま目を伏せていたが、やがて彼は深く息を吐いて目を開ける。間近で(またた)くぼんやりとした瞳に、張り詰めていた全身の力が抜けた。


「……何だ、その間抜けな面は」

「はぁ……」


 要領を得ない返事をする彼女に小さく苦笑し、獅英(しえい)は椅子に戻った。いつも通り、真っ直ぐに背を伸ばし、張りのある声で祓魔(ふつま)の女官に命じる。


「下級妃・劉 翠旺の見舞いでは、周囲に不審を抱かせる。世話を命じられた女官か、医官付きの小姓に扮して皇后のそばにつけ。──必ずや、我が皇后を苦しめる原因を突き止めよ」

「御意」


 劉常在も芯の通った声で答え、深々と頭を下げた。











 翠旺(すいおう)はさっそく医官付きの小姓を装い、皇后陛下の宮へ向かった。

 いつも凛々(りり)しい後宮の主人は、今は力なく目を閉じぐったりとしている。悲壮な表情でそのそばに寄り添うのは、翠旺にも馴染みのある侍女、鈴鈴(りんりん)だった。

 他の侍女の手前、彼女も翠旺を祓魔(ふつま)の女官として扱うことは出来ない。新たに増えた小間使いを胡散臭(うさんくさ)そうに見つめる周囲の中、彼女は「陛下をよろしくお願いいたします」と小声で翠旺に(ささや)いた。翠旺も小さく頷き返す。

 医官の指示を受けながら皇后の看護をしつつ、翠旺はさりげなく室内に視線を巡らせた。


 皇后・(こう)氏の身体からは、ごくわずかに怨霊の瘴気(しょうき)残滓(ざんし)を感じる。

 清顕(せいけん)の配下たちはさすがで、その気配を感じ取ることは難しかったのだろうが、退魔の陣をさりげなく配置していた。破邪(はじゃ)の呪ではないのは、怨霊を刺激しないためだろう。怨霊に気取られないギリギリの線で、皇后の負担を和らげることに腐心(ふしん)したことが、よく分かる術だ。

 とはいえ、あまりに高熱が続けば、皇后陛下の身がもたない。

 翠旺は意識を全集中させ、その残滓がどこかに向かって流れていないか、探る。


(水……?)


 ふと肌に触れた水気に、翠旺は目を瞬かせた。


 怨霊の名残に混じって、(かす)かな水の匂いがする。この時期にありがちな温めの井戸水ではなく、ひんやりと澄んだ清水。

 翠旺はおもむろに立ち上がり、医官──翠旺のことは下級妃ではなく、皇帝の命を帯びた宦官付きの小姓だと伝えている──を振り返って告げた。


「医官さま。ご指示通り、冷たい水を()んで参ります」


 医官は一瞬困惑顔になったが、すぐに頷きを返した。


「分かった。……皇后陛下の宮のすぐ近くに、清水の井戸がある。氷室(ひむろ)の氷も用いて良いと、皇帝陛下から許可はいただいている」

「承知しました」




 翠旺(すいおう)は水を入れるための皮袋と、氷を盛るための椀を手に、足早に部屋を出た。

 その井戸は医官の発言の通り、皇后の宮のすぐ近くにあった。後宮内で雪解け水を引くのはここだけだ。

 翠旺は手近な木の幹に懐から取り出した紐を結わえ、その端を自分の身体に巻き付けた。固結びにした紐を引っ張って強度を確かめ、そろりと井戸を(のぞ)き込む。


(……多分、ここで当たり)


 翠旺がこれほど警戒したのは、この井戸自体が怨霊の罠である可能性を考えたからだ。井戸を覗き込んだものを引きずり込むか、水自体に呪を掛けるか。解熱剤を飲むことが出来ない病人が、冷たい水に頼ることは想像に(かた)くない。

 案の定、真夏であっても冷えた水から、先ほどの怨霊の気配を(かす)かに感じた。翠旺は顔を(しか)め、井戸から身を離す。


(この井戸の近くで生命を落とした人間。あるいは、この井戸に深い関わりを持っていた人。探すのは難しくはないはず)


 素早く思考を巡らせた翠旺は、今度こそ水を汲むために、別の方角へ足を向けた。



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