16.ゆく河の流れは絶えずして(3)
彼女はつと顔を上げ、おっとりと微笑んだ。
「──あら。気付かれてしまったわ」
どこか楽しげにそう呟いた主に、側仕えたちはオロオロと声を掛ける。
「ひ、姫巫女様。大丈夫なのですか?」
姫巫女と呼ばれた女性は、目を細めて答えた。
「大丈夫。事はもう成ったもの。──東西南北、そして中央。後宮は皇都の縮図よ。その全てが穢れ、そこに住まう者たちが苦しんだ。我らが寿天様が降臨なさる素地は整った。……本音を言うともう少し、血を流したかったけれど」
この国では邪なものと目され、崇拝すれば厳しい処罰を受ける神の名前を、少女はまるで愛しい恋人を呼ぶように恍惚と呼ぶ。可憐な面差しが淫靡に上気し、彼女は堪えきれないように、自らの身体をきつく抱き締めた。そして興奮に震える声で、小さく呟く。
「……そうなった時、あなたはどうする? 彩華。──いえ、今は『翠旺』と名乗っているのだったわね」
死してなお、皇后の住まう宮に強い怨念を残すもの。そこで亡くなったものか、いつかの涼犀皇子のようにその場に強く執着するものか。
そこに井戸という手がかりを得た翠旺は、膨大な後宮史の中からついに、その名を見つけた。
「……医官、呂 嗣生」
昨今ではかなり秩序が保たれるようになったが、ある時代までの後宮は、まさに血で血を洗う場所だった。
先日の怨霊、夏静嬪が分かりやすい例だろう。彼女が受けた嫌がらせなど、可愛い方だ。刃傷沙汰、毒の盛り合い、呪詛の掛け合い。文字通り熾烈な寵愛争いは、酸鼻を極めたという。
それは、時代背景も影響していたのだろう。長引く不況、不安定な気候、他国との緊張関係。李寧は、歴史ある大国ゆえに、腐敗しかかっていた。
その中で市井の民の信望を得たのが、後に現帝の祖父・幽丞帝によって弾圧された、寿天教だった。
その医官が事件を起こしたのが、そんな荒れた冬の時代、第十八代皇帝・志治帝の頃だ。
不遜にも当時の明貴妃に懸想していた彼は、彼女に執拗な嫌がらせを繰り返す皇后を憎み、宮の井戸に劇毒を盛った。幸い、皇后は一命を取り留めたが、国母の毒殺を目論んだその医官は、極刑に処された。
毒によって汚れた井戸は埋められ、大規模な治水工事ののち、清水を引く清廉な井戸が離れた場所に作られたという。
それが今、皇后の宮にある、冷たい雪解け水の井戸だ。
(憎い皇后を、井戸の水で殺す──)
それが、医官の執着なのだろう。
翠旺は溜め息を零す。人の生命を救うべき医官が人の死を望み、生命の源である水に細工するなど、到底許せることではなかった。
今はまだ、井戸水に異変はない。むしろ、霊的な静けさを帯びている。
だが、翠旺の類稀な感覚は、その奥にあるどす黒い悪意を明確に感じ取っていた。
冷たい、甘露のような水。病に苦しみ、もうこの水しか飲めない──そうなった時に牙を剥く、底意地の悪い罠。
明日には、清顕が復帰する。怨霊の対処は彼に任せ、じぶんは引き続き、皇后陛下のそばで不測の事態に備えよう。翠旺は小さく頷。
(呼鳥、補充してもらわないと……)
一月ぶりに顔を合わせる幼なじみの顔を思い浮かべ、翠旺は後ろめたさを覚えつつも、小さく微笑んだ。
高 清顕は一月ぶりとなる祓魔の詰所に、緊張の面持ちで足を踏み入れた。
「長きに渡り、ご迷惑をおかけしました!」
開口一番にそう詫びた彼を、同輩たちは様々な表情でもって出迎えた。
「高! もう大丈夫なのか?」
「統括官……!」
驚きに目を見開いたのは、清顕と同じ、各部門の統括官に据えられた者たちだ。逆に、苦い顔をしているのは、彼の部下。清顕の歩き方に未だぎこちなさが残っているのを、目ざとく見咎めたのだろう。
その中に、緊張の面持ちで混ざる見慣れない顔をいくつか見つけて、清顕は微かに唇を噛む。
彼らは、先日の事件で亡くなった部下の代わりに配属された、新たな道士たちである。
清顕は腹に力を入れ、声を張った。
「大丈夫です。……さっそくで恐縮ですが、陛下の招集を受けています。──楊次官、同行してくれ。道すがら報告を」
「はっ」
頷いたのは、清顕よりも五つほど年上の、直属の部下だ。清顕は室内に軽く会釈をし、楊次官を連れて部屋を飛び出した。
寝台に横たわる皇后はもはや朦朧としており、一刻の猶予もないと思われた。
侍女たちには用事を頼み、医官にも無理を言って席を外してもらった。寝室には、祓魔の官だけになる。皇帝との謁見を終え、駆けつけた清顕と楊次官は、翠旺の報告に険しい表情で耳を傾けた。
「呂 嗣生か……」
唸る楊次官に、翠旺が頷く。
「気配は巧妙に隠しているので、確信はないんですが……。ただ、皇后陛下の症状や、薬を飲ませないとする考え方も、医官っぽいなとは思います」
じっくり調査する時間の余裕もないが、下手を打つと皇后陛下の生命も危うい。苦い表情で腕を組む楊次官に、清顕も眉を顰めつつ答えた。
「非常事態に備えて、我々が退魔を行う間、医官には皇后陛下のおそばに付いていてもらおう。劉女官は引き続き小姓の振りをしながら、陛下と、医官の護衛を。……恐らく、こちらの術に気付いた瞬間、怨霊は陛下に襲いかかる恐れがある。護符は可能な限り準備しておく」
彼の言葉に、翠旺と楊次官が頷きで応じる。眠り続けている皇后を気にしつつ、手短に打ち合わせを終えると、清顕は楊次官を促して立ち上がった。
「……それでは、頼んだぞ。劉女官」
「任せて」
力強く笑った彼女の顔をしばらく見つめ、清顕は思い出したように自身の懐を探った。紙の束を取り出す。
宦官の怨霊との対決で気が枯渇しかけ、怪我の影響で回復も遅れた。呼鳥──翠旺との連絡に用いる鳥を生み出す術を紙に掛けるのも、この量が精一杯だった。
清顕が片手で容易に掴めたそれも、翠旺の小さな手には余るようで、彼女は紙の束を取り落としそうになる。清顕は咄嗟に手を伸ばし、彼女の両手を支えた。
暖かなその手の感覚に、清顕は内心小さく息を飲む。翠旺が目を見開いて彼を見上げた。
「……気をつけろ」
やや素っ気なく言い、清顕はそのまま踵を返した。
皇后の寝室の外で退魔の術の準備をしていると、楊次官が不意に小さく笑いながら、清顕の肩を叩いた。彼は長身を屈め、清顕の耳元に囁く。
「……やっぱり、可愛いですねぇ、翠旺ちゃん。ちんまりしてて、一生懸命で」
「ふざけている場合か。……お前に幼女趣味があったとは知らなかったな」
冷めた目で応じた清顕に、楊次官はニンマリと唇をつり上げる。本気ではなく、清顕をからかっているだけだとは理解していた。
楊次官は的確に呪符を配置しながら、楽しげに続ける。
「なぁに言ってんですか。彼女、十七歳でしたっけ? 適齢期真っ最中じゃないですか。あの化粧顔も、愛嬌があって良いですけど。飯店でも人気者だったんでしょう?」
翠旺は十五の頃から、市中の飯店の手伝いをしていた。彼女が祓魔に所属するようになったのは、半年ほど前。立場上、清顕の代理を務めることもある楊次官には、彼女の事情を簡単に話してある。
皇后陛下の一大事だというのに、飄々としている年上の部下の頭を、清顕は伸び上がって叩いた。
「仕事をしろ、仕事を」
「へいへい」
肩を竦めた楊次官が、指を結んで寝室周りの結界の下準備を始めた。
(──始まった)
皇后陛下の宮に漂う空気が、一瞬にして重くなったのを翠旺は感じた。清顕たちが発動させた退魔の呪に、怨霊が反応したのだろう。
「……ぅ、あぁぁぁっ!」
目を見開いた皇后・黄氏が、胸元を掴んで絶叫する。医官がハッと息を飲んだ。
牙を剥いた怨霊の怨念が、物理的な痛みと苦しみとなって、皇后の華奢な身体に襲い掛かる。清顕に命じられた通り、彼女の周囲に護符を配置して、翠旺は足元に置いていた二胡を抱え、皇后の身体に覆い被さった。
「医官様! 陛下に猿轡を!」
このままでは、悶絶するあまり、彼女が舌を噛み切る恐れがある。不敬だなんだと言っていられない。
神木を燃やした火と水で煮沸した布を取り上げ、医官が駆け寄ってくる。
「失礼します!」
医官は手早く皇后の口に布を含ませ、爪が食い込み血の滲んだ彼女の手のひらに、残った布を巻き付けた。
くぐもった悲鳴を上げ続ける皇后の身体を抱き締め、翠旺はギリリと歯噛みした。
(清顕、急いで……! このままじゃ陛下が……!)
「ぐぅぅ、あぁぁ……ッ」
触れた肌は火のように熱く、全身が滝のような汗に湿っている。翠旺は皇后の身体に回した腕に力を込め、額を合わせた。
瞼を伏せ、翠旺は小さく息を吸った。
──月は明るく、風は静かにそよぐ。
──木の葉が揺れ、窓に優しくかかる。
──愛しい吾子よ、早くお眠り。夢の中で会いましょう。
市井の民には馴染み深い、子守唄を口ずさむ。
翠旺が、劉家の養子になって間もない頃、養父が夜勤で家を空けることも多かった。その際はいつも、清顕の家に預けられていた。
寝付けない夜、清顕の母がよく、この歌を聞かせてくれたものだ。
子ども扱いするなと、あの頃の翠旺はよく膨れっ面をしていたけれど。
──愛しい吾子よ、良い夢を。永遠に健やかに、幸せであれ。
二胡を奏でる余裕はないが、抱えているだけでも多少の効果はある。彼女の歌声が届いたのか、苦痛に歪む皇后の表情が、微かに和らいだ。
翠旺が身体を抑えている間に、医官は皇后の額の汗を拭ったり、薬湯を準備したりと忙しく動く。薬湯は、症状が落ち着いた際のためのものだろう。
そうして、どれぐらいの時間が経過しただろうか。
「あ……」
突如重苦しい空気が弾け飛び、翠旺は驚いて身体を起こした。
皇后が熱に潤んだ瞳をうっすらと開き、そんな彼女を見上げている。
慌てて駆け寄った医官が皇后の口元の布を外し、素早く診察を始めた。
滝のように滴る汗を拭い、楊次官はその場に尻もちをついていた。清顕は部下に手を伸ばし、立ち上がらせてやる。
気まずげに目を逸らした彼は、バツが悪そうに嘯いた。
「……統括官、毎回一人でこんなバケモンと闘ってたんですか? そりゃ、ズタボロにもなりますよ」
言外に「一人で無茶しやがって」と責める意を感じ取り、清顕は苦笑しながら頭をかいた。
「気付いたら、一人で巻き込まれていたんだ。……今後は、仕事に穴を開けないように注意しよう」
そうしてください、と肩を竦める彼の背を叩き、痛みの残る足を引きずって、清顕は歩き始めた。
向かう先は、皇后の寝室だ。
彼女の様子を確認して、早急に皇帝陛下に報告に向かわなければならない。
清顕はふと背後を振り返り、静けさを取り戻した井戸をじっと見つめた。
(──そういえば、今回は花の気配がしなかったな)
皇后・黄氏は皇帝の来訪に、慌てて身体を起こそうとした。翠旺がその背に手を伸ばすのを制し、皇帝はその身体をそっと押さえる。
「良い。無理をするな。寝ていろ」
「ご配慮に、感謝申し上げます……」
掠れた声で応じる正妻を労わるように、皇帝は小さく微笑んだ。彼の背後に控えていた清顕も、皇后の無事の姿にほっと息をついている。楊次官は、杜長官への報告にでも戻ったのだろう。
汗に濡れた前髪を指先で避けてやりながら、皇帝はしみじみと呟くように言った。
「……無事で良かった。皇太子も案じていたぞ。しっかり寝て食べて、ゆっくりと療養せよ」
「ありがとうございます」
くすぐったそうに笑顔を返す皇后を、翠旺も安堵の思いで見つめていた。清顕と目が合い、二人は密かに微笑み合う。
穏やかな空気はしかし、不意に真剣な表情を浮かべた皇后によって塗り替えられた。
「……陛下。このような姿勢で申し訳ございません。至急、報告申し上げたいことがございます」
皇帝は眉を顰め、妻の顔を見下ろして答える。
「先日の文に記していたことか? こんな時でなくとも……」
「いいえ。陛下のご宸襟を悩ませている、寿天教に関わることです。──上級妃付きの侍女に、かの邪教の信徒と疑わしき者がおります」
途端に、皇帝は顔を険しくし、清顕と翠旺も息を呑んだ。
やつれた頬を青ざめさせながらも、凛とした瞳を強く輝かせ、皇后は夫に頷いてみせる。
部屋には皇帝夫妻と祓魔の二人だけだが、黄氏は周囲を警戒するように声を潜めて告げた。
「後宮の茶会のさなか、寿天教徒独特の言い回しを、口にした者がおりました。
その程度で、とも思いましたが、陛下にご報告申し上げようとした矢先に、この騒ぎ。──何者かの作為を感じます」
「……どの宮の者か」
唸るように尋ねた皇帝を、皇后は真っ直ぐに見上げた。
「慧妃付きの侍女、何 媚晶。……慧妃・孫 香蕾が、実家より伴ってきた娘にございます」
その場の全員が目を見開く。
皇帝が口を開きかけた、まさにその時。
部屋の外で、けたたましい足音が響いた。
「皇帝陛下! 御庭番より報告が! 市中で寿天教徒と思しき集団が、武器を手に決起したと……! その一部が、後宮にもなだれ込んでおります!」
「なんだと!?」
目を剥いた皇帝が叫び、部屋の入口に走った清顕が扉に張り付く。外の気配を素早く伺い、彼が扉を開けると、蒼白な顔で跪く宦官の姿があった。
普段は冷静な皇帝付きの三席宦官は、焦ったように言葉を続ける。
「その手引きをしたのは、孫慧妃とのこと……! かの妃の手勢は、」
「──そこまでよ」
可憐な声が宦官の声を遮り、宦官はくぐもった悲鳴を上げてその場に倒れ込んだ。彼の顔色は一瞬にしてどす黒く染まり、泡を吹いて痙攣する。
音もなく皇后の寝室に侵入してきたのは、漆黒の御庭番の制服を纏った宦官たちだった。
彼らは動かなくなった皇帝付き宦官の体を蹴り転がし、素早く皇后の寝台を包囲する。清顕が皇帝を庇うように立ち塞がるが、多勢に無勢なのは明らかだった。
血溜まりを平然と踏み越えた慧妃──孫 香蕾が、顔を返り血で汚した宦官に守られつつ、部屋に入ってくる。
彼女は杏仁型の大きな瞳を無邪気に細め、歌うように告げた。
「皇帝陛下。折り入って、お話がございますの。──ご同行いただけますか?」
皇帝付き三席宦官の生命を一瞬で奪った毒刀の切っ先を皇后に向けられ、皇帝・董 獅英は小さく喉を鳴らした。




