8.梅花に酔う(3)
背後から漂う梅の香りに、翠旺は咄嗟に飛び退った。
勢いよく振り向くと、すぐ近くに見慣れた顔つきの細身の男が立っている。先ほど処刑された、そして翠旺が意識を失う前に遭遇した男に、間違いなかった。凄惨な死に顔が嘘のように、彼は涼やかな美貌を取り戻している。
気つけば華やかな後宮の姿は掻き消え、一面、梅の木が狂ったように咲き誇る空間に変化していた。
翠旺は周囲を警戒しながら、恐る恐る口を開く。
「……貴方は?」
ある確信を持って翠旺が誰何すると、青年はことりと首を傾げた。
「……董 涼犀」
あっさりと名乗ったのは、自分が怨霊だという自覚がないのか、自分の力を確信しているのか。
そしてその名前に、翠旺は噛み締めた奥歯にぐっと力を込める。
(やっぱり……!)
董 涼犀。
翠旺があの時爪弾いた、悲恋歌の主人公。父の妃との許されざる恋に落ち、処刑された皇子。
(何だってこんな、大昔に亡くなった人が、今更……?)
彼は、第三代皇帝の息子だ。死後ずっと、廃妃・謝氏との思い出の地に居たというのか。
だが、その東区は、清顕たちが定期的に浄化していたはずだ。それなのに、昨日今日怨霊になったとは思えないほどの力を、彼からは感じる。
何もかもが矛盾している。内心の困惑を必死に推し隠し、顔を上げた翠旺は、驚愕に目を見開いた。
「……どうしたの?」
音もなく背後から伸びてきた腕に抱き竦められ、その手に左頬をなぞられる。
耳元で響く、甘い囁き。
翠旺の全身が総毛立った。
男性にしては華奢な指先が、羽のような手つきで翠旺の頬を撫でる。翠旺は、金縛りにあったように動けなくなる。
そろりと横目で窺うと、董 涼犀と名乗った男は、うっとりと微笑んで言った。
「駄目じゃないか、茗蓉。僕から離れないでと言ったろう? ……これからは、ずうっと一緒だ」
湿ったその声に全身を震わせ、翠旺は愕然と目を見開いた。
涼犀の細腕は、雨に濡れた縄紐のようにギリギリと音を立て、翠旺の身体を締め上げる。翠旺は痛みに顔を顰めながら、懸命に首を振った。
「わた、しは、……謝 茗蓉じゃ、」
「君に出会った時、心底驚いたんだよ。涼やかな目元、整った鼻筋、雪を欺く白い肌。君は本当に、茗蓉にそっくりだ。──ああ、やっと、彼女が戻って来てくれたんだって」
うっとりとした声で、涼犀の怨霊は翠旺に語り掛けた。彼の評した自身の外見に、翠旺は歯噛みする。
(夜だし、面倒がって、素顔のままだったから……!)
李寧では一般的な象牙色の肌、眠たげな目に、全体的にのっぺりとした顔。冴えないと評される、いつもの化粧を怠らなければ、こんなことにはならなかった。
処刑の場で苦痛に歪んでいた謝氏の顔は、確かに翠旺の素顔によく似ていた。二百年後の今も謝氏に焦がれる怨霊を、引き寄せてしまうほどに。
(……そうだ。夜歩きしていた妃嬪様方も、似た系統の顔立ちだった)
なぜ、気付かなかったのか。
悔やむ翠旺には構わず、涼犀皇子は彼女の髪を指先で弄んだ。
「覚えている? 僕らは後宮から逃げて、二人で平民の夫婦として生きていこうと誓ったんだ。……あの夜がちょうど、決行の日だった」
翠旺は目を見開いた。
密会だけでも重罪なのに、後宮からの逃亡まで企てていたなんて、正気の沙汰じゃない。
そのために、謝氏は廃妃とされて、一族から縁を切られたのだろう。後世に名も残らず、ただ「女」とだけ呼ばれることになった。
彼女は今、どこにいるのだろう。
思わず噛み締めた翠旺の唇を、涼犀皇子は指先で無遠慮になぞった。その手はやがて、翠旺の細い首筋を淫靡に撫でさする。翠旺の肌が嫌悪で粟立った。
怨霊が、熱に浮かされたように囁く。
「──待たせてごめん、茗蓉。遅くなったけど、二人きりで祝言を挙げよう。永遠に愛し、そばにいる。もう二度と君を離さない」
梅花の香りに混じって、金臭い血の匂いと、腐臭が漂ってきた。翠旺は、蛇のように絡みつく腕から逃れようと、必死にあがく。だが、指先すら持ち上げられなかった。そろそろと伸びてきた梅の枝が、翠旺の身体を地面に押し倒す。
「……茗蓉。愛しているよ」
涼犀皇子の怨霊は目に情欲の炎を宿し、翠旺の着物の合わせに手を掛けた。剥き出しになった肩に指を這わされ、翠旺の全身から血の気が引く。
翠旺は強ばる喉を動かし、なんとか抵抗を試みる。だが、自分の口が意思に反して蕩けたような声を発するのを、彼女は恐怖に震えながら聞いていた。
「でんか……。わたくしは、あなたさまを、」
(嫌だ。……助けて、清顕──!)
満開の花を纏った梅の木が、その枝をくねらせ、二人を包み込む。
まさにその時だった。
「──ギャアァァッ!」
二人の周囲に青い炎が吹き荒れ、涼犀皇子の怨霊が絶叫を上げた。
瞬く間に梅の木が火に包まれ、怨霊が翠旺から逃げるように離れていく。
翠旺は呪縛が解けたように、震える身体を起こした。見開いた目のすぐそばで、漆黒の衣が勢いよく翻る。
両腕を広げ彼女を庇うその背は大きく、逞しい。翠旺はポカンと口を開いた。
「皇帝……、陛下?」
次の瞬間、二人の前方に飛び込んできた人影が、裂帛の気合いと共に手を振る。その指先から飛んだのは、幾枚もの紙だ。皇帝と翠旺の周囲に、瞬く間に強力な結界が組み上げられた。
その人物は間髪入れずに、蹲った皇子の怨霊に攻撃を仕掛け、強制的に彼を下がらせる。
皇帝の背中越しに見えたその横顔は、見慣れた幼なじみのものだった。
「清顕……」
呆然とした翠旺の呟きに、皇帝が勢いよく振り返った。その険しい眼差しに、翠旺は思わず肩を跳ね上げる。
皇帝は目を見開いて、彼女の眼前にしゃがみ込んだ。
「無事か!? 劉常在!」
「──うぇ、ひゃい!」
急き込んで尋ねる皇帝の剣幕に驚き、翠旺は間の抜けた声を上げる。それを耳にした皇帝は、ホッと眉間の皺を緩めた。崩れた翠旺の襟を整えながら、彼は小さく笑う。
「まったく、怨霊に攫われるのが得意なヤツだな。間に合って良かった」
「はぁ……」
なぜだか甘い響きを帯びる皇帝の声に、翠旺は首を傾げながら応じた。
一方、涼犀皇子の怨霊はひとまず清顕に狙いを定めたのか、二人は身構えたまま睨み合っていた。
美しい顔を憎々しげに歪め、怨霊は清顕に問い掛ける。
「何者だ。我が第三代皇帝の皇子、涼犀と知っての狼藉か?」
「……祓魔だ。皇帝陛下の憂い、祓わせてもらう」
清顕の言葉に、皇子は馬鹿にしたように鼻で笑った。祓魔は李寧国の初代皇帝が創設した組織だが、彼の時代ではまだまだ、「胡散臭い使いっ走り」の扱いだったはずだ。
氷のような微笑を浮かべた涼犀皇子が、その細腕をすっと掲げた。途端に、周囲の梅の木々が大蛇のように枝をくねらせる。
離れて見守る翠旺が息を飲んだ瞬間、鋭く尖った枝先が清顕に襲いかかった。
「──斬」
清顕は小さく叫んで、腕を振った。清顕の喉元を掠めた枝が弾け飛ぶ。その隙に別の枝が、清顕の足元を狙って地を走った。
怨霊が操る梅の木を紙一重で躱す清顕の姿を、翠旺は息を飲んで見つめていた。
血の気の引いた頬、涙に潤んだ瞳。はだけた衣。
先ほど目にした幼なじみの姿に、清顕は内心で湧き上がる怒りを懸命に押し殺していた。
(だから、無茶をするなと言ったのに……!)
これまで相手にしたことのないような強敵を前にして、清顕は込み上げる苛立ちのままに術を揮う。
後から後から生えてくる梅の木に遮られ、怨霊本体に攻撃が届かない。焦れる清顕を嘲笑うように、涼犀皇子はうねる梅の枝に指先を添えた。
「その程度の力で、我を祓おうと言うのか? ……笑わせてくれる!」
いつの間にか背後から忍び寄ってきていた枝々が、一斉に清顕の急所を狙う。清顕は間一髪で地に転がるが、その先に、獣の牙のように尖った別の枝が待ち構えていた。
「ぐぅ……ッ」
咄嗟に避けた清顕の左腕を、一本の枝が鋭く抉った。鮮血がパッと舞う。
痛みに呻く清顕の名を、離れた先にいる翠旺が驚いたように叫んだ。
「清顕……!」
その声に励まされるように、清顕は素早く立ち上がった。地を踏みしめ、両腕を力強く振りかざす。清顕の右手から炎が、左手から水の礫が迸った。四方八方から迫る梅の木を、滅茶苦茶に切り裂いていく。
清顕を案じる翠旺を不愉快そうに見ていた涼犀皇子が、切り傷一つで立ち上がった清顕に目を瞠った。
「馬鹿な……」
滴る汗を拭った清顕は、柔和な面差しを好戦的に歪めた。
「……もう終いか? 大したことはなかったな」
侮辱の言葉に、涼犀皇子はカッと頬を紅潮させる。その彼に反応するように、周囲の梅の木が、清顕を押し潰さんと襲いかかった。
轟音と共に弾け飛んだ梅の枝を、翠旺は呆然と見つめていた。
(清顕がこんなに手間取るところ……初めて見た……)
道士にすらその気配を悟らせず、狙った相手を自分の世界に引きずり込む。強力にして凶悪な怨霊は、秀麗な面差しを悪鬼のごとく歪め、清顕に襲い掛かっていた。
清顕は相手に押されつつも、一つずつ相手の武器を潰していく。
翠旺たちを囲む結界の内側には、清顕の操る炎も、怨霊が放つ梅の木も届かなかった。それでも皇帝は翠旺の前に立ち、全身を緊張させている。
翠旺はようやく、その広い背中に負われた布袋に気付き、目を瞬かせた。
「あの、陛下。それ……」
「ん? ……ああ」
こちらを振り返った皇帝が、布袋を翠旺に差し出して微笑んだ。
「お前の二胡だ。よく分からんが、普通の楽器ではないのだろう?」
きょとんと目を見開き、翠旺はその包みを受け取った。手に馴染んだ重みに、我知らず息を零す。
彼女はいそいそと愛器を取り出し、ギュッとその胸に抱え込んだ。
「……ありがとうございます、陛下。ご面倒をおかけしました」
頭を下げる翠旺を可笑しそうに見やり、皇帝が肩を竦める。翠旺は内心で自省した。
命にかえても守るべき至高の存在を、こんな場所に呼び寄せてしまうなんて。祓魔の杜長官に知られれば、どうなることか。
(女訓書の書き取り百回とかで……済めば良いなぁ……。無理だよなぁ……)
何月分のただ働きになるのだろう。
自分の想像に肩を落とした翠旺は、すぐにふっと力強く息を吐き、気持ちを切り替えた。
まずは全員、生きてここから帰らねば。
翠旺に怨霊を祓う力はない。けれど、翠旺の二胡は、相手がどれほど弱い怨霊でも、彼女の声を届ける力を持つ。
ならば、相手を動揺させたり苛立たせたりする歌でも唄ってみせれば、少しは清顕の助けになるだろうか。
「心を込めて唄いましょう。──『怨歌』」
にんまりと唇の端をつりあげ、翠旺は弦に指を添えた。




