7.梅花に酔う(2)
「……翠旺?」
ふと耳元で響いた二胡の音に、「皇帝の何でも屋」、祓魔の高 清顕は目を見開いた。
草木も眠る丑三つ時。その任務の特性上、皇帝の招集にいつでも駆け付けられるよう、祓魔の高官たちは皇宮近くに小さな家を与えられている。清顕も自宅で、ぐっすりと眠っていたところだった。
身を起こし、周囲の気配をじっと探る。羽虫の飛ぶ音、風の鳴る音。それ以外には何も聞こえない、静かな夜だ。
となれば、先ほど耳に飛び込んできたのは、幼なじみが奏でる特殊な楽器の音に違いない。
「また何か、無茶なことをしでかしてないだろうな……」
冷や汗を拭い、清顕は小さく呟いた。
本音ではあの無謀な幼なじみの身辺に、見張りでも式神でも置いておきたいところだ。だが、相手は曲がりなりにも「皇帝の下級妃」。不審な人材を周囲に配置することは出来ない。
清顕はまんじりともせず、いまだ中天に輝く月を窓越しに睨み上げる。
夜明けはいまだ遠かった。
李寧国第二十三代皇帝・董 獅英は、朝一番にもたらされたその報せに、目を険しくした。
「……なんだと?」
急報をもたらした宦官の肩が、ビクリと跳ねる。獅英の寝起きの悪さは筋金入りで、ただでさえ威圧感のある雰囲気に怯えがちな若い宦官たちは、過剰に反応を示す。
獅英は溜め息を零し、涙目の年若い宦官に詳細の報告を促した。
「良い。早く言え」
彼は再び肩を強ばらせ、おずおずと口を開く。
「はっ、はい……。夜明け頃、後宮の東の端で、彭皇貴妃様が倒れていらっしゃるのを、下働きの端女が見付けました。皇貴妃様は幸い、間もなく目を覚まされましたが、何があったのか覚えておられないとのことで……。
そして、少し離れた木陰に、持ち主不明の古い二胡が落ちていたとのことです」
獅英は、眉間の皺を深くした。
脳裏を過ぎるのは、呉淑妃の部屋で、黄皇后の宮で、二胡を構えて立っていた、冴えない下級妃の姿だった。楽人顔負けの音色、弦を弾く繊細な手つきを思い出し、獅英は戸惑いと共に微かに俯く。
祓魔として、妃嬪の夜歩き事件の調査を命じた劉常在は、後宮のあちらこちらで聞き込みをしていたようだった。何らかの手がかりを得て、張り込みなどしていてもおかしくはない。
何せ、皇帝の後をつけて夜伽の場を突き止め、堂々と乗り込んできた女だ。
獅英は顔を上げ、恐る恐るこちらを伺っている若い宦官に、淡々と命じた。
「祓魔の高を呼んでおけ。朝儀の後、話があると」
かしこまってひれ伏す宦官の姿を目に入れることもなく、獅英は勢いよく立ち上がった。
劉 翠旺が、姿を消した。
皇貴妃の傍で見つかった二胡はやはり、獅英にも見覚えのあるものだった。
妃嬪の頂点に立つ皇貴妃の身に異変が起きたことにかこつけ、「後宮全体で異常がないか、内密に確かめよ」と獅英が宦官たちに命じたところ、彼女の所在が分からないと報告が上がった。
古びたその楽器を間に挟み、獅英は、凄腕の道士である高 清顕と向かい合っていた。
重い沈黙が二人の間を流れる。
獅英が顎をしゃくって直言を許すと、清顕は重苦しい表情で口を開いた。
「劉女官の二胡に、間違いありません」
「……なぜ東の果ての庭に、皇貴妃と一緒に転がっていた? あいつの部屋は西の端だろう」
獅英が露骨に顔を顰めるが、清顕は平然とした様子で答えを返す。
「夜歩きの症状があった妃嬪様方が皆、東の宮にお住まいだということは、早くから分かっていたのですが……。特に劉女官からの連絡はなく。
もしや、情報を掴もうと、夜毎張り込みなどをしていたのかも知れません」
「連絡はなく、か」
腕を組んだ獅英は椅子の背もたれに身体を預け、床に跪いた清顕にじっと目線を据える。それに気づいているのかいないのか、清顕は珍しく焦燥の滲んだ面持ちで、持ち主の消えた二胡を見つめていた。
獅英は、顔の横に落ちた前髪を苛立しげにかきあげ、祓魔の若き高官に問いかけた。
「……普段は、どのように連絡を取っているのだ?」
清顕がわずかに目を瞠り、困惑したように答える。
「基本的には、正規の手段を用いております。劉女官は彼女の養父宛の文に、追伸という形で内容を記し、警邏官の待機所に届けさせています。養父は返信を一度、私の元に持ち込み、その追伸に私が書き加えています。……非常事態には別途、術を用いた連絡手段も用意しておりますが」
「……そうか。その別の手段でも、連絡はなかったのか?」
沈鬱な表情で首を振る清顕を、獅英は無言で見下ろす。
彼の繰り返す「劉女官」という呼称が、何故か鼻についた。
獅英は微かに唇の端を吊り上げ、盛大に溜め息をついてみせた。
「あれのことだ。またどうせ、先走って暴走して、怨霊にでも連れ去られたのだろう。今夜にでも、二胡が落ちていたという東の庭を捜索してみるか」
「陛下御自ら……、ですか?」
清顕が表情を消し、すっと顔を上げる。理知的な双眸を感情の読めない色に染め、高統括官は淡々と言った。
「失礼ながら、たかが祓魔の女官──表向きは下級妃に過ぎない劉氏が姿を消した程度で、陛下を危険に晒すわけには参りません。
捜索は、我ら祓魔にお任せいただき、どうか陛下は、安全な場で報告をお待ちください」
いつになく辛辣な彼の物言いに、獅英も顔を顰める。その剣幕に、部屋の隅に控えた宦官たちが震え上がるが、同じ表情を目にしているはずの清顕は毛一筋ほどの動揺も見せない。
獅英は獣の唸り声のように、低めた声で凄んだ。
「下級妃に過ぎないとは、随分な物言いだな、高よ。──後宮の女は皆、俺の妻だ。案じて何が悪い?」
清顕が微かに目を開く。
その表情に溜飲を下げ、獅英はフンと鼻を鳴らした。祓魔の統括官は、珍しく、反射のような勢いで言葉を返す。
「……陛下におかれましては、随分と、我らが同輩の女官をお気にかけていただいているご様子。上官として、その御厚情に御礼申し上げます」
(……確かに。俺は何故、劉氏の捜索を止められたぐらいで、こんなにムキになっているんだ?)
獅英は内心首を傾げる。目が合った清顕も、戸惑っている様子だった。
獅英はふと自身の顎に手を添え、考え込む。
劉 翠旺の存在を知ったのは、後宮を震え上がらせた、夜伽の場に現れる怨霊騒ぎの時が最初だった。
わずか二月ほど前の出来事で、その印象も、「怨霊に興奮し、自ら突っ込んでいく珍妙な女」に過ぎなかった。
だが、獅英を「皇帝」としか見ず、過剰にへりくだったり、機嫌を取ろうとする後宮の皇妃たちの中、彼女の存在は何故か新鮮に映った。
ずけずけと遠慮なく物を言い、自分の推測が正しいか確かめるために、皇帝すら利用する図々しい女。
それが物珍しくて、気が向けばこっそりと茶に誘っていた。後宮で怪しい事件が起これば、彼女に声を掛けることが、気付けば当たり前になっていた。
(……つまりはあれだ、飼い始めたばかりの珍獣が行方をくらませ、焦っているんだな。俺は)
珍しい愛玩動物だからこそ、自分の管理下に置きたい。他人に口を出されるのが面白くない。
獅英はそう結論付けて、一人頷き、清顕に向き直った。
「当然だろう。俺はお前たち祓魔の雇い主だ。雇っている人間が不審な状況で姿を消せば、気にするのは自然なことだ。そして、あいつが祓魔であることは、秘密なのだろう?」
ならば、後宮内を自在に歩き回れる俺が探すのが、一番効率的だ。
堂々とそう言い切った獅英に、清顕が頭痛を堪えるように俯いた。獅英は何か言いたげな宦官たちを睨み付け、清顕の反応を待つ。
やがて彼は顔を上げ、渋々といった様子で頷いてみせた。
「……御心のままに。いまだ怨霊の仕業という確証は得られていませんが、私も捜索に加わり、陛下のご安全に細心の注意を払います」
その本意は、どこにあるのか。
どこまでも生真面目に振る舞う年下の男に、獅英はふんと鼻を鳴らして言った。
「良かろう。では、俺付きの新人宦官として随行せよ。夜までに、まずは、東の庭に倒れていた皇貴妃に話を聞く。お前は彼女と二胡を見付けた、端女の方を当たれ」
清顕は小さく息を吐き、無言で頭を下げた。
皇貴妃は皇帝の来訪に恐縮しきりであったが、何も覚えておらず、宦官が報告した以上の話は聞けなかった。獅英は「養生せよ」とだけ告げて、早々に彼女の部屋を辞した。
一方、宦官に扮した清顕は、端女から思いがけない話を聞いてきた。
その端女は、意識を失って倒れていた皇貴妃から、微かに梅花の香りを感じたそうだ。そして二胡の近くにも、咲き誇った季節外れの梅が一枝、落ちていたという。
実物を見た清顕は、険しい表情で獅英に報告を上げる。
「皇貴妃様が倒れておられた周囲に、花をつけた梅の木はございません。時間が経っても萎れる様子もなく……、わずかですが、この世のものではない気配も感じました」
獅英は顎に手を添え、宙を睨んだ。
「……梅か。例えられる女は多いな」
獅英の頭には、先日、宮女や侍女たちを水辺の異界に引きずり込んだ、夏令嬪の来歴があった。一介の侍女から皇帝の寵妃に登りつめ、壮絶な嫌がらせに心を病み、命を絶った嬪。彼女の美貌は梨花に例えられ、現場にも梨の花弁が落ちていたという。
ならば、こたびの件も、梅に縁のある女の怨霊の仕業だろうか。
しかし清顕は首を振り、小声で忠告した。
「女人と決めつけるのは早計かと。……梅は、『四君子』の一つでもありますれば」
獅英は目を瞬かせた。
四君子とは、高潔な徳を持つ君子になぞらえられた四つの植物を指す。それぞれ四季の植物で、冬の梅、春の蘭、夏の竹、秋の菊だ。
李寧では、皇位に就かなかった親王を持ち上げる際に、例えとして用いられることが多い。
後宮の東の宮は、確かに、皇子たちの居所でもある。
かなり大胆な進言をした清顕を、獅英は苦笑で見下ろした。
「……確かにな」
そうして、面倒な政務続きで強ばっていた背中をぐっと伸ばし、暮れかけた夕空を見上げた。
「女人絡みで噂のあった、梅に象徴される皇子か。……心当たりは多いが、怨霊になりそうなほど有名なのは、『あれ』だろうな」
清顕は真っ直ぐに獅英を見上げ、わずかに顎を引いた。
(……どこだろう、ここ)
翠旺は途方に暮れた表情で、周囲を見回していた。
丁寧に剪定された美しい花に樹木、細部まで意匠を凝らされた建物に、女性たちが優雅に寛ぐ東屋。
間違いなく皇宮、それも植えられた花々の壮麗さから、後宮だろう。
だが、その住人である翠旺の感覚は、違和感を訴える。
李寧は二百五十年続く大国だ。皇宮には、もはや遺跡と呼びたくなるような建物も多い。
だが、「この」後宮には、それらがなかった。
(もしかして、ずっと昔の後宮……?)
李寧国は建国間もない頃、人心の心機一転を図るため、それまでの皇都から離れて新しい土地へ移った。皇宮をはじめとする建物も、遷都時に造られたものだと聞いている。
翠旺は、その頃の李寧国に、時空を超えて連れ込まれてしまったのだろうか。
(私の姿は、誰にも見えていないみたいだし……)
情報を得ようにも誰にも認識してもらえず、翠旺は焦燥と共に、両の拳を握り締めた。
あちこちを彷徨い歩いていると、やがて日が暮れ、夜になってしまった。頭を抱える翠旺だったが、ふと聞こえた男女の声音に、ハッと息を飲んで顔を上げた。
『──会いたかった、茗蓉』
『私もですわ、殿下……』
(この声……!)
笙の音のように、低く滑らかな声。
女性を恍惚とさせずにいられないようなその声は、意識を失う直前、翠旺を「花嫁」と呼んだものに間違いなかった。
身を強ばらせる翠旺の前で、その男女は人目を忍んで抱き合っていた。
二人とも、なぜか顔がぼやけてはっきりしない。けれど、後宮にいる女人は妃嬪か侍女で、「殿下」と呼ばれるのは皇帝の身内。そして女性の方は、身なりからして侍女ではあるまい。
つまりこれは、皇帝の身内と、皇帝の妻との密会の場だ。翠旺は頬を引き攣らせる。
(……やめてくれ。怖いよー!)
今も昔も、妃嬪の密通は重罪だ。国の安定のため、多くの妻を娶った歴代の皇帝だが、彼女たちの不貞は許さなかった。
けれど、後宮には百もの妃嬪が暮らしている。その中には生涯一度も、寵を受けられない女性もいるだろう。愛されている、生きているという実感を求めて、不義を働く女性は後を絶たなかった。
柳のような色男の腕に身を委ね、幸福の空気を醸し出しているあの女性も、きっとその内の一人だ。
男女はひとしきり、二人の時間を楽しんだあと、そっと離れていく。日が登り、また沈み、宵闇に紛れて秘密の逢瀬を重ねる二人を、翠旺は恐怖の面持ちで見守っていた。
そして、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
ついに、翠旺が恐れていた事態が起こってしまった。
『父皇、どうかお許しを! 謝妃は──!』
『殿下……! 殿下ぁ!』
互いに手を伸ばし合う二人だったが、抵抗も虚しく、漆黒の衣を纏った宦官たちに引き剥がされる。彼らは宦官たちから成る、皇帝の御庭番だ。
(今、『父皇』、『謝妃』と言った。ということは、あの人、皇帝の息子だ。──密通の相手が妃なら、義母子間での不貞になってしまう。まず助からない)
翠旺の危惧した通り、二人の男女には杖刑百回が言い渡された。壮絶な痛みを伴う刑罰はすぐに執り行われ、二人とも半ばで息絶えた。
翠旺は、痛ましい思いで瞑目した。
……だが、その時。
裸の上半身を自らの血肉で鮮血に染めた男が、のそりと身を起こした。
『……ああ、そこにいたのか。茗蓉』
血反吐に塗れた唇を歪め、翠旺を嬉しそうに見つめる男の顔は、現帝・董 獅英のものに酷似していた。




