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6.梅花に酔う(1)

 現帝の下級妃・(りゅう) 翠旺(すいおう)は、後宮の外れの東屋(あずまや)でひとり、箜篌(くご)を奏でていた。




 長雨の季節の終わり、珍しく晴れ渡った日の午後のことだ。同じ殿舎に住まう下級妃たちは、久しぶりの晴天を満喫しようと、鞦韆(ぶらんこ)や船遊びに列を成し、持ち寄った菓子で茶会を繰り広げている。

 翠旺はその輪から弾かれたことを気にする様子もなく、手当たり次第に好きな曲を爪弾いていた。晴れ渡った青空に、気ままな音が吸い込まれていく。

 不意に楽しげな笑い声が響き、翠旺はつと、そちらに目を向けた。


(楽しそうだなぁ。……幽霊も)


 鞦韆(ぶらんこ)ではしゃぐ下級妃たちに混ざって、この世ならざる者が一人、顔を(ほころ)ばせている。晴れた昼間に現れる幽霊は珍しいが、このところの長雨で出歩く人もおらず、よほど寂しい思いをしたのだろう。


 幽霊とは悲しい存在だ。


 寂しがりで、見付けてほしくて、人であった頃には考えられないような本能に突き動かされて行動してしまう。


(この間の、()令嬪(れいひん)──静嬪(せいひん)のように)


 珍しく、翠旺は浮かない表情で溜め息を零した。


 水鬼(すいき)に飲まれて姿を消した六人の女性たちを、翠旺は救えなかった。自分たちがあの空間に辿り着いた時には既に亡くなっていたとはいえ、その事実は重く翠旺にのしかかる。


 翠旺はふぅっと深く息を吐く。そして、背後から近寄ってくる静かな足音に気付き、箜篌(くご)を奏でる手を止めて振り返った。

 そこには、何故だか見慣れつつある紫紺の衣を(まと)った人物──皇帝付き宦官の姿があった。

 はしゃぐ下級妃たちに見つからないように身を(かが)め、彼は密やかな声で翠旺に(ささや)いた。


「陛下がお呼びです。──劉女官」


 常在(じょうざい)という下級妃としての官職ではなく、祓魔(ふつま)としての役職を呼ばれた翠旺は、眠たげに見えるその瞳を瞬かせた。










 宦官たちの休憩所である小部屋に足を踏み入れ、翠旺(すいおう)は顔を綻ばせた。


清顕(せいけん)! もう大丈夫なの?」


 先日、水鬼との対決後に池に投げ出された幼なじみは、皇帝陛下に貸与された火鉢も虚しく、高熱を出したそうだ。

 少し鼻がぐずついた程度だった翠旺を、清顕は気まずそうに見つめてくる。


「ご迷惑をおかけしました、常在」


 恭しい言葉遣いは、バツの悪さを誤魔化すためと、「公の場で馴れ馴れしくするな」という牽制を含んでいるのだろう。翠旺は肩を(すく)め、彼の隣に腰を下ろした。

 間もなくして、部屋の扉が再び開く。(たくま)しい体躯(たいく)の美丈夫が姿を見せ、翠旺と清顕は深々と叩頭(こうとう)した。


「楽にせよ」


 姿勢を戻すよう告げた皇帝・(とう) 獅英(しえい)は、宦官がわざわざ運び込んだ豪勢な椅子に腰掛けた。


「こうも次から次へと怨霊騒ぎとなると……。俺の治世は、祝福されていないのだろうか」


 冗談めかしてはいるものの、自嘲するようなその面持ちに、清顕は真剣な表情で返した。


「……滅多なことは仰らないでください。李寧(りねい)は二百年続く大国です。数多(あまた)の人間を、外廷(がいてい)や後宮に受け入れてきた……。人が集まれば、情念がぶつかり合うのは致し方ないこと」


 真っ直ぐな清顕の言葉に、皇帝が微かに笑みを零す。

 だが、彼はすぐに表情を引き締め、清顕と翠旺を険しい眼差しで交互に見つめた。


「だが、夏氏の件は、おかしいと思わぬか? 彼女が死んだのは祖父の御代(みよ)、五十年も前だ。劉常在は、『怨霊になったばかりで、自分の力を制御出来ていない印象だった』と申していた。遥か昔に死した者が、五十年を経て幽鬼となる。そんなことは有り得るか?」


 清顕は答えずに目を伏せる。

 その違和感は、呪術部門に属する官のみならず、祓魔(ふつま)全員が抱いているものだった。


 何者かの作為である──とは、まだ断言出来ない。今は発生する事象を一つずつ、潰していくしかないだろう。

 重く息を吐いた皇帝は、切り替えるように声を張った。


「今はとにかく、我が後宮に害をなす存在を、順に片付けていくしかないな。……というわけで、出番だ。(こう)統括官(とうかつかん)

妃嬪(ひひん)様方の夜歩き……ですね」


 意味ありげに頷き合う男たちを、翠旺は訳も分からず見つめ、首を傾げた。


「夜歩き……。妃嬪様方が、夜遊びか、殿方と火遊びを?」


 ──ゴッ!


 容赦なく頭に拳を落とされ、翠旺は頭を抱えて悶絶(もんぜつ)する。鉄拳制裁を終えた清顕は、涼しい顔で、そんな彼女に解説を始めた。


「水鬼の件と前後して、夜、外を彷徨い歩く妃嬪様方が出ている。皆様、『何故そんなことをしたのか分からない』、『何かに呼ばれた気がした』と首を(かし)げておられた」

「無意識に、外を……」


 翠旺はじっと顎に手を添えて考え込む。

 一人や二人であれば、後宮特有の気の病とも思うが、祓魔が動かざるを得ないほどとなれば、何かの関与を疑うのが道理だ。先日の夏静嬪は無理やり自分の空間に連れ込んだが、人の行動を操る幽鬼もいる。

 皇帝は真っ直ぐに翠旺と清顕を見つめ、重々しく告げた。


「何か被害が出る前に、一刻も早く、この件を解決せよ。良いな」

「御意」


 頭を下げる翠旺に、皇帝はふと、何かを探るような目を向ける。

 だが、顔を伏せたまま身動(みじろ)ぎもしない二人には、気付く由もなかった。









 意識のない夜歩きをしていた妃嬪(ひひん)のうちの一人は、翠旺(すいおう)にも見覚えのある上級妃だった。

 驚いて止める侍女たちを振り切り、裸足で月季花(げっきか)の生け垣に突っ込んで傷だらけになったその女性は、() 妍麗(けんれい)といった。四妃(よんひ)の第二位である淑妃(しゅくひ)で、先日も夜伽(よとぎ)の際に、怨霊の放つ瘴気(しょうき)で体調を崩したその人である。


(つくづく、怪異に縁のある人だな……)


 失礼なことを考えながら、翠旺はじっと妃を見下ろした。寝台に伏しているところを、無理言って時間を取ってもらったのだ。


「お怪我の具合はいかがですか? 月季花に素足で突っ込むなんて、無茶をなさる」


 前置きもなく尋ねた翠旺に、呉妃は苦笑してみせた。


「……正気だったらやらないわよ、そんなこと」


 呉淑妃の頬や手には、月季花(げっきか)(とげ)によるものか、あちこちに引っかき傷が出来ている。

 ご主人様の玉の肌を傷物にしたと上役に責められたのか、年少の侍女たちは皆、頬を痛々しく腫れ上がらせていた。


(あと)が残るような怪我でもあるまいに……)


 翠旺はちらりと彼女たちに目をやり、横たわったままの呉妃に問い掛けた。


「何が起こったか、覚えていることはありますか?」

「まったく。夜、確かに寝台に入ったのに、目が覚めたら月季花の生け垣だったの。ただ……」

「ただ?」


 首を傾げる翠旺をじっと見上げ、呉妃は眉間に皺を寄せた。


「『行かなくては』、『会いに行かなくては』……。そんな焦りに突き動かされたことだけは、覚えている」

「会いに……、誰に?」


 分からないと首を振り、呉淑妃は溜め息を(こぼ)す。翠旺は頷き、思い出したように懐を探った。


「あの、これ、お見舞いです。香袋なんですが……。魔除(まよ)けの香が入ってます」


 ちょん、と枕元に置かれた赤い布の香袋を横目で見、呉妃は思いがけず、柔らかな笑顔を浮かべた。


「わざわざありがとう。──霓喜(げいき)、見えるところに飾ってね」


 パッとしない下級妃が持ち込んだ冴えない品に、顔(しか)めた侍女、呉妃が牽制(けんせい)するように声を掛ける。魔除けという言葉が効いたのだろうか。実際、聞き込みの口実に清顕(せいけん)に用意してもらった香袋なので、効果は覿面(てきめん)のはずだ。

 翠旺は(かす)かに笑って頭を下げ、その場を辞した。





 その後、同じような経験をした上級妃や中級妃を訪ねたが、彼女たちは一様に口を揃えて、「何も覚えていない」「誰かに会いに行かなくてはと思った」と証言した。()妃が月季花(げっきか)に突っ込んで行ったのは偶然のようで、負傷をしていたのも彼女だけ。どうやら、「どこか」への最短距離に、月季花の生け垣があったというだけのようだ。


 翠旺は、聞き込みに行った先の配置図を頭に描き、険しい表情を浮かべた。


(今度は東に固まっている……)


 上級妃たちは、皇后の宮を中心に据えた北半分のに住んでいる。東に皇貴妃(こうきひ)、西に二人の貴妃(きひ)の宮。更に東の外れには賢妃(けんひ)淑妃(しゅくひ)、西の外れに徳妃(とくひ)慧妃(けいひ)が配されている。

 夜歩きの症状が出たのは賢妃と淑妃、更に後宮の南東を居住区とする中級妃のうち、温嬪(おんひん)柔嬪(じゅうひん)の計四名だ。

 先日の()静嬪(せいひん)の被害を受けたのは、南西に(まと)められた下級妃や、西側に宮のある妃の侍女たち。


 作為的なものを感じるのは、気のせいだろうか。


(これも怨霊のしわざだとしたら、東で亡くなった人物──?)


 怨霊にもいくつか種類がある。落命した場所に縛られるものと、強い情念を抱く場所や相手に執着するもの。夜伽の場に現れた怨霊は恐らく後者で、夏静嬪は前者だ。


 じっと宙を見据えて考え込みながら、翠旺は後宮の東へ足を向けた。










 東は夜明けの地。次代を育むための施設が多く立ち並ぶ。皇帝の好みとは無縁そうな地味な下級妃を、行き交う宦官(かんがん)たちが怪訝(けげん)そうに見つめている。

 ここはそうした場であるがゆえに、昔から血なまぐさい事件が起こりやすい。そのため、清顕(せいけん)を始めとした祓魔(ふつま)たちが、定期的に浄化を行っているはずだ。

 だとすれば、今回の騒動は、比較的最近亡くなった人物が原因かと思ったのだが。


(すれ違う人すれ違う人、皆に否定されちゃった……)


 翠旺(すいおう)は頭を抱えて、内心で(うめ)いた。人死が出るような事件は、ここ数年、東側では起こっていないと。


 退魔において、相手の正体、名を知ることは道士──清顕の有利に働く。名は万物(ばんぶつ)の魂の根幹、知ると知らないとでは術の効果を大きく左右する。

 皇后の宮で翠旺が無茶を働いたのは、正体を突き止める暇もないほど怨霊の力が高まっており、皇后の身の安全を優先したためでもあった。もちろん動機の大半は、好奇心を抑えきれなかったことが原因だが。


 雑多な霊が徘徊(はいかい)している後宮の西端に比べて、東側には清涼な気配が漂っている。翠旺にさえ、昼間の今、感じ取れる怨霊の空気はなかった。それなのに、東の貴人の身に異変が起こっている状況に、翠旺は混乱しきりだった。


(夜、このあたりで見張るか……)


 幸い、長雨の季節は抜けつつある。一晩ぐらい東屋で過ごしても、問題はないはずだ。

 清顕に知られれば、また、怒鳴りつけられるのは目に見えている。けれど、今は夜間の無意識の徘徊で済んでいるが、いつ被害が大きくなるかも分からない。


(怨霊のせいで亡くなる人は、見たくない)


 翠旺はぎゅっと唇を引き結び、野営に適した場所を探し始めた。








(お尻痛いなぁ……。敷物持ってくれば良かった)


 拍子抜けするほどに何事も起こらない日々は、早くも五日目に突入してしまった。翠旺はぼんやりと夜空を見上げる。


 もうやめてしまおうか。けれど、見張りをやめたその日に何かが起こるのではないかと考えると、引っ込みがつかない。


 昼間は自室で爆睡し、夜は(たか)ってくる虫と戦いながら、怨霊の気配を追い続ける毎日。翠旺は頬に止まる小虫を払いながら、込み上げる欠伸(あくび)を噛み殺していた。


 静かな夜だった。

 どこか遠くから響くカエルの鳴き声、虫の羽音。眠れない誰かの奏でる(そう)が、それらに混ざって柔らかな音色を奏でている。


(静かだ……)


 翠旺がぼんやりと、八割がた満ちた月を見上げた時だった。





「行かなくちゃ……、あの人の元へ……」





 か細い女性の(ささや)き声に、翠旺はハッと息を飲んだ。慌てて身を乗り出し、目を()らす。


(あれは……!)


 月光を弾く上等の絹の夜着を(まと)った女性が、フラフラと定まらない足取りでこちらに歩いてくる。

 翠旺は周囲の気配を探りながら、その女性をじっと見つめた。

 身なりからして、中級妃でも上位以上だろう。生憎(あいにく)、縁もゆかりもない偉い人の顔と名前は覚えられない性質のため、それが誰なのかは分からない。

 翠旺は彼女の向かう先に意識を向け、目を見開いた。


(──皇帝陛下?)


 咄嗟(とっさ)にそう思ったほど、その幽霊の姿は、現帝・(とう) 獅英(しえい)によく似ていた。


 切れ長の黒曜の瞳、高く通った鼻筋に、生真面目に引き結ばれた優雅な弧を描く唇。艶やかにたなびく、ぬばたまの長髪。見慣れた姿を目にし、翠旺は動揺する。

 彼は季節外れに咲き誇った梅の木を一本背後に従え、ゆったりと両手を広げた。


(いや、違う。身体が細い)


 男らしく鍛えられた現帝とは違い、その怨霊は柳のような、華奢(きゃしゃ)な体格をしている。翠旺は思わずほっと息を吐いた。


 けれどここまで似ているのであれば、これは現帝と同じ血を持つ祖先なのだろう。


 翠旺の背を、氷のような感覚が伝い落ちる。冷や汗をかく彼女の視線の先で、うっとりと目を閉じた女性が、美貌の怨霊の胸に飛び込んでいった。嬉しげに目を細め、怨霊も女性の頬に右手を添える。


「あぁ……ッ、殿下。愛しています」


 (とろ)けそうな声で女性が(ささや)き、しどけなく怨霊に身を(ゆだ)ねた。梅の芳香が二人を包み込む。二人の姿が(かす)んでいく。そして漂う、濃厚な愛撫(あいぶ)の気配。


「──っ」


 翠旺は慌てて布袋から二胡(にこ)を取り出し、構えた。ふっと息を吐き、彼女が唯一知る恋の歌を爪弾き始める。

 禁断の恋に落ちた若き皇子と父の妃の悲しい末路を描いた、悲恋歌だ。

 女性は音楽に気付かず、恍惚(こうこつ)として目を閉じているが、男の幽霊はじっと月明かりに目を()らしている。

 翠旺は彼を(たしな)めるように、二胡の弦を弾く指先に力を込めた。曲はちょうど、主旋律に差し掛かったところだ。


(駄目ですよ。怨霊と人間は決して結ばれない。そしてそれは、皇帝陛下の妃。……あなたは、『殿下』なのでしょう?)


 二重の禁忌を犯そうとする二人に、翠旺は内心で懸命に訴えかける。

 彼女の声が届いたのか、不意に怨霊の姿が消え、妃がその場に崩れ落ちた。気を失っているようだ。

 翠旺はホッと溜め息を零し、二胡をその場に置いて、倒れ伏した女性の方へ足を向けた。





 ──その時だった。





「……見付けた。我が花嫁」





 氷の塊を押し付けられた押し付けられたように、翠旺(すいおう)の全身がざっと粟立(あわだ)った。咄嗟(とっさ)に振り返り、すぐ真後ろに立っていた怨霊と、まともに目を合わせてしまう。




「あ」




 怨霊の漆黒の瞳が、夜に溶け出したように見えた。光のない真っ暗闇が、むせ返るような梅花の香りが、翠旺の全身を(から)め取る。



(しまった……)



 また、生真面目な幼なじみを怒らせてしまうだろう。彼は心配性で、翠旺が怨霊騒動に巻き込まれるのを、誰よりも案じてくれているから。


 翠旺が祓魔(ふつま)の女官となることも、彼は最後まで反対していたのだ。



(ごめん、清顕(せいけん)……)



 夜の闇に吸い込まれるように意識を失い、翠旺の身体が大きく(かし)いだ。その身体を(うやうや)しく抱き留めた怨霊が何かを囁き、一陣(いちじん)の風が吹き抜ける。



 やがて風が落ち着いた頃には、その場に怨霊と翠旺の姿はなかった。意識を失って倒れた妃の傍で、弾き手とはぐれてしまった二胡が、ポツンと月光に照らされている。



 梅花の残滓(ざんし)が、そっと夜の空気に溶けて消えた。




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