5.水辺の梨花(4)
覚悟した衝撃は、なかった。
「……ぬあっ!」
奇っ怪な悲鳴を上げ、翠旺は顔から地面に突っ込んだ。ボフッという間の抜けた音と、強く立ち上った花の香りに、翠旺は目を瞬かせる。
身体を起こして周囲を見回すと、そこは、薄暗い部屋の中だった。
身支度と睡眠のための最低限の調度品、部屋の壁に所狭しと飾られているのは掛け軸だろうか。部屋の隅には書物が詰まれ、主の教養の高さを伺わせる。どこかで見たことのある光景だと、翠旺が首を傾げていると、視界の隅で何かが動いた。
翠旺が慌ててそちらに駆け寄ると、痩せ細った女性が一人、力なく倒れていた。軽く身体を揺さぶってみると、微かに身動ぐものの、目を開く気配はない。
真っ青な顔、ひび割れた唇、こけた頬が痛々しかった。手を口元にかざすと、弱々しい吐息を辛うじて感じる。
薄汚れた衣は、宮女に支給される夜着だろう。恐らく彼女は、失踪した宮女の一人だ。
翠旺は意識を失っている宮女に、そっと呼び掛ける。
「大丈夫ですか? 今……」
「──どうしたの?」
弱々しい声は、眼前に倒れ伏す女性ではなく、背後から発せられたものだった。
ハッと息を飲み、翠旺は勢いよく振り返った。彼女の剣幕に驚いたように、その声の主はビクリと肩を震わせる。
楚々とした雰囲気の女性だった。落ち着いた色味の襖裙を、襟をきっちりと合わせて纏い、帯も胸高に結んでいる。李寧では長年、襟を広めに開け、強調するように胸下で帯を結ぶ形が人気で、このような古風な着こなしをする人は珍しい。
抜けるように白い肌、伏せがちな切れ長の瞳。左目の下の泣きぼくろが色っぽい、雨に濡れた梨花のような麗人だ。
翠旺はポロリと、その人物の名を呼んだ。
「夏令嬪……」
女性は血相を変え、慌てて首を振った。
「とっ、とんでもない……! 私は静嬪です、令嬪だなんて……!」
翠旺はじっと、静嬪と自称する女性──夏氏を見つめる。
彼女は死後、自分がどのように扱われたか、知らないのだろう。あるいは、自分が既にこの世にないことすら、理解していない。
恭しく頭を下げ、翠旺は小さく微笑んだ。
「失礼いたしました、静嬪様。……ところで、こちらは、静嬪様のお部屋ですか?」
夏静嬪は、気まずげに頷く。皇帝の寵妃とも思われぬような質素な部屋に、彼女自身、思うところはあるのだろう。
無理もない。彼女は元侍女だ。生家の夏家も旧家に連なる血筋だが、名家というほどではない。
「……はい。あの、私、たまたま宮女たちが宦官と密会する現場を見てしまって。居ても立ってもいられず、部屋に呼んでしまったのです。貴女も……」
あまり外で、あのように振る舞うものではありません。
恥ずかしそうに、けれど目に力を込めて説諭する女性に、翠旺は苦笑を返した。
きっと彼女は生真面目な性格で、嬪となった後も、侍女時代の気質が抜けなかったのだろう。清顕と二人、「格下の者が幸せになるのが許せず、攫った」と予測を立てていたが、そうではない。目下の者が道を踏み外すことを危惧して、注意をしようとしてくれたのだ。
「はい、申し訳ございません。……静嬪様は、お優しい方なのですね」
翠旺の言葉に、夏静嬪は目を見開く。すぐに彼女も苦笑を浮かべ、ゆるゆると首を振った。
「人には、生まれつき与えられた『分』がある。それを弁えず調子に乗っては、痛い思いをするのは本人です。──私のように」
「陛下の寵愛は、貴女様の『分』を超えていると?」
「……不敬なことだとは、思うわ」
翠旺の不躾な言葉も否定せず、夏静嬪は悲しげに笑う。
かつて、いち侍女だった儚げなこの美女が、生き馬の目を抜くような後宮でどのような目に遭ったのか。それだけで忍ばれ、翠旺は目を伏せた。
(……やっぱり、無理に祓おうとしなくて良かった)
彼女は宮女たちを攫ったが、純粋に彼女たちを案じただけだ。今は一人の宮女しか見付けられていないが、話せばきっと、全員を解放してくれる気もする。
意を決して、翠旺は真っ直ぐに夏静嬪を見つめた。
「静嬪。……私が愚かでした。これからは気持ちを入れ替え、誠心誠意、陛下にお仕えします。恐らく、この方も」
翠旺が、いまだ意識を取り戻せず横たわる宮女を指し示すと、夏氏が嬉しそうに笑って頷いた。
その仙女のような穏やかな笑顔に安堵し、翠旺は一息に確信に迫る。
「ですからどうか、彼女たちを帰していただけませんか。静嬪も、肩の荷を下ろされて、ゆっくり──」
ピタリと口を噤み、翠旺は目を見開いた。
夏静嬪の儚げな美貌はなりを潜め、醜い様相が現れる。
白を通り越して、青黒くなった顔色。華奢な肢体は水に膨満し、腐臭を漂わせている。艶やかに結われていた髪は崩れて、藻のように絡み合い、岩か何かに抉られ露出した顔の腐肉を覆い隠す。
黒瑪瑙のような眼差しを昏く濁らせ、夏静嬪はじっと、翠旺を睨み付けていた。
(しまった、やらかした──!)
倒れ伏した宮女を庇いつつ、じりじりと下がりながら、翠旺は冷や汗に全身を濡らした。
決まった範囲でしか行動せず、出来ることといえば人を連れ去るだけ。理性的に話す様を見て、まだまだ怨霊としては弱い存在だと判断し、会話で相手を眠らせようとした。
甘かった。
質素な部屋はいつの間にか、真っ暗な伽藍の空間に変わっている。果ては見えない。あちこちに散らばって見える白く丸いものは、一体何だろうか。
(──どう見たって、髑髏だね!)
自問自答し、翠旺は顔を引き攣らせる。
今や、おぞましい水鬼となった夏静嬪は、ごぼりと泡を吐きながら、呻くように言った。
『……だめよ。ゆルさなイ。私は、こんなミジめな姿になッてしマったのに。……あなたタちだけ、ずルいわ』
ひび割れた夏氏の声は、その言葉を拾い上げるだけで精一杯だった。呪いのような恨み節に、翠旺の全身が縛り付けられていく。
身動ぐことも出来ない翠旺に、夏静嬪はニタリと笑いかける。その腐った頬の肉が、音を立ててずれ落ちた。
『アナたも、ズっト、ワたしといっしョよ……』
グッと伸び上がる黒い影が、翠旺の視界を覆う。漂う異臭が鼻をつく。
翠旺は咄嗟に、着物の合わせに手を伸ばしかけた。そこには清顕にもらった、呪術のかけられた筆と紙がある。道士の清顕へと繋がる呪具が。
だが。
(呼鳥を飛ばすための、二胡がない……!)
目を見開く。
息を飲む。
深淵のような漆黒の瞳に囚われる。
翠旺には、抗う術がない。
(あの頃と、同じ──)
幽鬼の指が翠旺の喉元にかかり、ギリギリと締め上げた。
「──破ッ!」
『……ギィヤァアッ!』
鋭い気合いと共に清涼な風が吹き抜け、悲鳴を上げた幽鬼が飛び退った。
解放された喉に、急激に空気が入り込み、翠旺は激しくむせる。
「う……っ、ぐぅ、」
涙目で顔を上げた翠旺の視界を、風に煽られる漆黒の衣と、駿馬の尾のように跳ねる結び髪が掠めた。
(あ……!)
その持ち主は、炎を、光を操って水鬼にぶつけ、相手が力任せに振り回す腕を、巧みに避けている。
翠旺は驚きに目を瞠り、呆然と呟いた。
「清顕……」
「無事か、翠旺! ……その宮女は任せたぞ!」
幼なじみの力強い声に、翠旺は慌てて目線を落とした。気を失ったままの宮女の身体を、そっと抱き起こして庇う。
翠旺の目の前で、清顕は複雑な剣舞を演じるかのように動き、水鬼を圧倒していた。
清顕の指先が光を放つ度、その手から呪符が飛ぶ度、夏氏の霊は悲鳴を上げる。腐汁を撒き散らす右腕の先が消失し、左足が半ばから炎に包まれたところで、均衡を崩した幽鬼はその場に倒れ込んだ。
荒い呼吸を繰り返し、仁王立ちする清顕に、幽鬼は悲しげに、残った左手を差し伸ばした。
『ナぜ……? ナゼ、わタしダけ、こんナ目に遭ワなくてはなラナイの……?』
私はただ、真面目に生きてきただけなのに。
血の涙を流しながら訴える夏静嬪に、清顕は静かに頷いてみせた。
「……そうだな」
彼女は、侍女としてただ真面目に職務をこなし、嬪に取り立てられたあとも、真面目に皇帝に仕えたのだろう。
嘘で他人の足を引っ張ったり、自分を踏みにじる相手にやり返したりなど、考えることもなかったに違いない。
だが、それでは後宮を生き抜くことは出来ない。狡さも、計算高さも、身を守るために必要な武器だ。
彼女は清廉だった。
その身を例えられた、香しい真っ白な梨の花のように。
「だからこそ、怨霊になってはいけない。――もう、眠れ。夏 楼樹」
まるで、むずかる赤子をあやすような優しい手つきで、清顕がゆっくりと九字を切る。
そして迸った光とともに、空間いっぱいに、白い花びらが吹き荒れた。
梨花の嵐が収まると、そこに夏氏の姿はなかった。
しんと静まり返る空間で、清顕が滴る汗を拭っている。翠旺は宮女の身体を抱いたまま、小声で幼なじみの背中に呼び掛けた。
「清顕、……ありがとう」
いつになく神妙な翠旺の声に、清顕は調子を狂わされたように目を瞬いている。
しばらくの逡巡の末、彼は翠旺に歩み寄ってそばに屈み、彼女の脳天に優しく拳を落とした。
幼なじみを見上げる彼女に、清顕は真摯な声音で囁く。
「――頼むから。頼むから、一人で無茶をするな。俺が動くまで待て」
「……ごめんなさい」
そのあまりに優しい言葉に、翠旺も身を小さくして返す。そんな彼女に微かに笑い掛けた後、清顕は立ち上がって周囲を見渡した。
「……主が居なくなった以上、ここもすぐに崩れる。一刻も早く出るぞ」
その言葉に息を飲んだ翠旺は、膝立ちになって清顕の袖を掴んだ。
「待って。まだ、行方不明の他の宮女たちが……!」
抱き締めていた宮女の身体を彼に預け、慌てて駆け出そうとした翠旺の腕を、清顕はぐっと掴んだ。
振り返る翠旺に、凄腕道士として名を馳せる祓魔の統括官は、痛ましげに首を振る。
「生者の気配は、ここにしかない」
「……!」
悲しげに唇を噛んだ幼なじみの頭を撫で、宮女の身体を抱き上げた清顕は、翠旺を促して歩き始めた。
「──ざい、劉常在! 大丈夫か!?」
どこか必死に彼女の官職名を呼ぶ声に、翠旺はぼんやりと目を開けた。視界いっぱいに映る美貌に、思わず翠旺は瞬きを繰り返す。
翠旺が目覚めたことに安堵したように、李寧国皇帝・董 獅英が、ほうっと息をついていた。
不思議な思いでその様子を見上げ、翠旺は、──盛大にくしゃみをする。
「……ふぇぇっくしゅ!」
皇帝の顔から、表情が消えた。
彼は身を起こし、纏ったままの宦官服の袖でゴシゴシと念入りに顔を擦りながら、感情のない声で呟いた。
「……元気そうで、何よりだ」
「大変失礼いたしました」
夏氏の作った空間が消失した直後、翠旺たちは池の中に放り出され、全身濡れ鼠になっていた。
ただ、いくら夜風に身体を冷やされたとは言え、下級妃が皇帝に唾を吐きかけるなど、言語道断である。
武官たちは顔を引き攣らせ、清顕は濡れた髪や服を絞りながら、ひたすら目線を逸らしていた。
ずび、と鼻を啜った翠旺を溜め息と共に見下ろし、皇帝はついと武官たちを振り返った。
「報告は明日で良い。……お前たち、この宮女を早く、医官に看せてやれ。それと、火鉢と火の番をそれぞれ、劉常在と、高統括官の部屋へ」
「……陛下?」
驚いたように声を掛ける清顕に、皇帝は小さく肩を竦める。
彼は「風邪を移されてはかなわんからな」と嘯き、命令を受けて走り去った武官たちの後ろ姿を眺めながら言った。
「……これはお前たちの任務だ。礼は言わんぞ。――だが、よくあの娘を連れ帰った」
素っ気なくも、労いのこもった柔らかな声で告げた皇帝の背を、翠旺はじっと見つめる。
だが、すぐに彼女は首を振り、そよ風にかき消されそうな小さな声で呟いた。
「彼女しか、見付けられませんでした。残りの六名は、その亡骸さえ……」
ひたすらに黒く、暗い空間のあちこちに散らばっていた髑髏。その内のどれが、姿を消した宮女や、侍女たちのものであったのか、翠旺たちには分からなかった。
それら全てを拾い集めることなど到底出来ず、崩れ始めた空間から脱することを優先してしまったのだ。
項垂れる翠旺に、皇帝は振り返らないまま言った。
「その証言だけでも、持ち帰ってくれて良かった。──いつ帰るとも知れず、何の情報も得られない。そんな状態でただ待ち続けることは耐え難いと、感じる者もいるだろう」
弾かれたように顔を上げた翠旺と、目を瞠る清顕にヒラヒラと手を振り、皇帝は残った武官たちを連れてその場を後にする。
雲ひとつない夜空に、柔らかな頬を伝う涙のような細い月が、ひっそりと輝いていた。
胸に巣食う違和感に、董 獅英は不意に足を止めた。
怪訝そうに彼を振り返る武官たちを制し、獅英はそっと背後を振り返る。
劉常在──彼の下級妃は、色気もへったくれもないくしゃみを繰り返し、呆れた様子の高統括官に髪を拭われている。彼女が気安く何かを言ったのか、高氏は彼女の頭を軽快に引っぱたいた。
月明かりに照らされたその顔を遠目に見つめ、獅英は微かに瞠目する。
(……そうだ。顔だ)
劉 翠旺は、随分と垢抜けない女だった。
のっぺりとした面立ち、不格好な眉に眠たげな眼。流行遅れの襖裙は着付けも適当で、「野暮ったい」、「冴えない」が彼女の代名詞だった。
だが、今、月光に照らされている化粧の落ちた顔は、その評価を真反対に覆すものだった。
遠目にも鮮やかな、新雪のように透き通った滑らかな肌。すっと通った鼻筋に、煌めく大きな瞳。美しいと称して差し支えない少女が、そこに立っている。
幼なじみの高統括官が、当たり前のように彼女に接していることから、あれが彼女の素顔なのだろう。
美しい女は、後宮にごまんといる。
清楚な者、可憐な者、妖艶な者、それこそ枚挙に暇がない。彼女より美しいと評されるだろう妃嬪の名を、獅英は何人も述べることが出来る。
だが、彼女の変貌が、後宮で敢えてその美貌を隠す違和感が、獅英の心を捉えて離さなかった。
(お前はいったい、何者なのだ? ――劉 翠旺)
幼なじみと楽しげに小突きあいながら、その場を立ち去る劉常在を、獅英は無言で見つめていた。




