4.水辺の梨花(3)
(どうして、こうなったんだっけ……)
劉 翠旺は、視界いっぱいに大写しになった相手の顔を見つめ、途方に暮れていた。
かそけき月明かりのもとですら輝く、怜悧な美貌。逃がさないとばかりに両腕を掴む、力強い手のひら。耳元で彼女の名を呼ぶ声は、隠し切れない情に上擦り、掠れている。
「すいおう、……ッ」
中級宦官に扮した皇帝──董 獅英の肩越しにのぞく夜空を、翠旺は困惑しながら見上げていた。
話は、三日前に遡る。
翠旺を案じ女装姿で後宮に駆けつけた、祓魔の若き統括官・高 清顕は、翠旺との話を終えた翌日には、皇帝への目通りを願い出ていた。
彼は、窓の外を眺めている主の背後に跪き、静かな声音で、ここ数日の調査の結果を報告した。
「宮女たちを連れ去ったのは、いずれも同じ霊の仕業だと、劉常在はおっしゃっています。気配を追って、後宮の西端の池までは辿り着きましたが、その正体の特定までには至らず。……これ以上の被害を防ぐために、囮を立てるのも一手かと、愚考します」
「――その囮に、お前と、劉常在が名乗り出ると?」
「陛下の憂いを払うことが、我ら祓魔の役割にございますれば」
皇帝付きの武官や宦官すら外され、密室に二人きり。威圧感を隠しもしない獅英に、内心冷や汗を浮かべながら、清顕は床の一点を見つめていた。
しばらくの沈黙の後、獅英はおもむろに口を開いた。
「……池にいることは分かっているのだろう。ならば、さっさとそこで、霊を祓ってしまえば良いではないか」
もっともな指摘に、清顕は一瞬グッと言葉に詰まる。しばらく逡巡したあと、下手な隠し立てをするよりはと腹を括り、清顕は顔を上げた。
「――まず、あの池には霊の気配が多すぎます。むやみやたらと術を揮えば、かえって違う『もの』を目覚めさせる恐れもあります。また、祓ったとて、姿を消した宮女たちが戻ってくる保証はありません。やつの『場』にこちらから足を踏み入れるのが、事態解決の最善策と考えます」
こちらを振り返った皇帝の目を、敢えて正面から見上げ、清顕はじっと沙汰を待った。
獅英は感情の読めない瞳で清顕を見下ろしていたが、やがてふっと息をつき、肩を竦めてみせた。
「……良かろう」
パッと頭を下げた清顕の眼前に、しかし、「ただし」と重々しい声が降る。
嫌な予感を覚え、清顕は恐る恐る皇帝を上目で見上げた。
彼はにんまりと楽しげに唇を歪め、その逞しい腕を組んで、清顕を見下ろしている。なぜか見覚えのあるその表情に、清顕の背をツッと冷や汗が伝い落ちた。
獅英はニヤリと笑い、告げる。
「ただし、囮役はお前ではない。──俺だ」
(あぁぁあ、やっぱり……!)
顎が外れ落ちそうになるのを、清顕は懸命に堪えた。
二年前、予想外に即位することになった第二十三代皇帝・董 獅英は、基本的には真面目な男だ。
親王として一生を終えるつもりだった彼は、突如目の前に突き出された至高の位に相応しくあるべく、日夜努力を重ねている。政務に励み、文武に自分を鍛え、思うところはあれど、後宮にも真面目に通う。短い付き合いではあるものの、清顕は間近でそれを見てきた。
見てきたからこそ、知っている。
獅英は本当は、好奇心旺盛な人物だと。今年二十一になる清顕や、十七歳の翠旺と変わらない、二十五歳の等身大の青年なのだと。
でなければ、いくら決定的な証拠を得るためとはいえ、どこの馬の骨とも知れない下級妃の策に乗り、自身の正妻を罠にかけるような真似はしないだろう。
顔を引き攣らせる清顕に、獅英は目を煌めかせて言い募る。
「いくら表向きの下級妃とはいえ、後宮の隅で、皇帝以外の『男』と密会していたことがばれれば、処罰は免れられん。俺が出て行くのが一番無難だろう」
残念ながらその言葉は至極真っ当で、清顕は「是」と答える以外になかった。
あれほど「非常用だ」と念を押していた呼鳥で清顕が連絡してきたことに、違和感を覚えつつ、翠旺は早速紙面に目を通した。
そして、そこに記されていた内容に、さすがの翠旺も目を丸くする。
(……なんで?)
そこには、皇帝から囮を使っての調査の承諾が降りたこと、そしてその役は、翠旺と皇帝が務めることが、いつになく震える筆跡で書き殴られていた。
そういうわけで、現在に至る。
後宮が夜の帳に覆われた頃、宮女に支給されている夜着をまとった翠旺と、中級宦官に扮した皇帝は、人目を忍ぶ演技をしつつ、西端の池のほとりにやってきた。
互いしか目に入らない馬鹿な恋人のふりで見つめ合う二人を、離れた草陰や木陰から、幾人かの武官と祓魔統括官の清顕が見守っている。視界に入る彼らの顔色は、月明かりの下でもはっきりとした土気色で、それらを目にした皇帝が懸命に笑いを堪えていた。
翠旺は困惑顔で、自分に覆い被さる皇帝の袖を引いた。
「……あの、陛下。真剣にやってください。怨霊に気取られます」
「ん、ああ」
小声で応じた皇帝は、さらにその美貌を翠旺に近付けてくる。鼻先が触れそうになり、武官たちが遠巻きに息を飲んだ。
唇を重ねるふりをしながら、片手で翠旺の髪や項を撫でている皇帝に、翠旺は目を伏せながら尋ねる。
「……なぜ、いらしたのです?」
淡々としたその言葉を非難と捉えたのか、皇帝の手に力が篭もった。
「下級妃が不義密通の罪に問われぬように、気を使ったつもりなのだが?」
「それは……、ありがとうございます」
(……嘘だな)
翠旺は溜め息を零した。
武官や清顕の動揺に忍び笑いを漏らし、彼らをからかうように翠旺に触れてきたこの男は、根っからの悪戯っ子気質なのだろう。歴史ある国の皇帝としての意識から、普段は鎧のように「威厳ある皇帝像」を纏っているが、本性はきっと異なっている。
(大変だなぁ、立場がある人は)
同情の眼差しを間近にある滑らかな黒髪に注ぎながら、翠旺は皇帝の指先に身を委ねた。
しばらく、そんなふりを続けていた頃。
突如、嵐のような暴風が池を渡ってきて、翠旺はハッと息を飲んだ。皇帝も素早く身体を離し、飛び出しかけた武官をさりげなく制しながら、周囲に目線をやっている。
ふわりと甘い香りが、荒れた池に広がった。
「……ッ」
今度は清顕が息を詰めるのを、翠旺が後ろ手で留める。今、道士が姿を見せれば、気配を滲ませ始めた幽霊が、警戒して姿を消してしまう。それでは、失踪した宮女たちのもとに辿り着けない。
翠旺はどこかにいるはずの幽鬼を挑発するように、なおもしどけなく皇帝の腕にしがみついた。意図を察した皇帝も、恐怖に震える素振りを見せながらも翠旺の肩を大袈裟に抱く。
ヒタヒタと、水に湿った足音が響く。
吹きすさぶ風、甘い梨の香り、そして視界を覆い尽くす白い花びら。
幽鬼の気配は確かに感じるのに、どこにいるのかが分からない。
(どこにいる――!?)
翠旺が珍しく焦燥に駆られた、その時だった。
「あ」
湿った手に勢いよく背を押され、翠旺の身体がくらりと前に傾ぐ。吹き荒れる風に強く煽られ、踏みとどまることが出来ない。
(落ちる……)
「翠旺──ッ!」
暴風に激しく揺れる水面に、翠旺の小柄な身体が飲み込まれるのと、清顕の叫び声が響き渡ったのは、ほとんど同時だった。




